こんにちは、テツせんです。
朝晩が涼しくなりましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?
さて前回は、
< 投票行動 > もまた日本型の関係意識の病理傾向を示すことをお話しましたが、
今回は、ことのついでに、
国民大衆の政治的な<成熟(マチュァ)>ということについて、
あらためて考えてみようとおもいます。
本当にそのような達成が、時代を経て実現可能なのか?
あるいは成熟という考え方は元より幻想でしかないのでしょうか?
まずそれに否定的な見解として、
『成熟など成しようもなく、戦後の国民大衆を誘導するために、
デマゴギーを含んだ戦略的な情報操作が、
権力の側から一貫しておこなわれたこと。
それによって人々の思考が撹乱され、洗脳されつづけた』という見方には、
それなりの説得力はある。
戦後の政権を昨日まで握りつづけた党がその証左だというわけでしょう。
この見解とは逆の立場でおなじ思考レベルを示しているのが
崔洋一監督の映画『カムイ外伝』に託したつぎの発言です。
「声高なイデオロギーで社会は動かず、エンターテインメントこそ不条理と闘う武器である。
普通の人間がカムイになってみてくれ。これが僕の伝えたかったメッセージだ。」・・
だがよく考えれば、両方の見解ともに
<社会を(権力者が)恣意的に操作できる>ということを前提に語っていることになるわけです。
ここにも、西欧近代主義思想の『機能主義』(ファンクショナリズム)が
サイエンスとしての科学をはじめ、社会、政治、精神医学、などいたるところに、
まるで赤潮のように覆いかぶさり、浸潤してきていることを示しています。・・
大衆が適応してきたそれぞれの時代性、
はては高度資本主義消費社会という歴史的な変容の凄まじさの前で、
いったい<情報操作>は、どのようなはたらきをしたというのでしょうか?
< その時代の産業と消費の変容が、大衆の有り様を規定していく> というとき、
どのようにひいき目に見ても、
権力はむしろ時代性を認識できず、その硬直した不適合を隠すようにして情報操作を図り、
おなじようにあらたな時代の変容を了解できない一群の人々の不安に頼って、
相互依存による弛緩・癒しをたれ流しながら、
今日までやっと息を継いできただけである、と見なすほかはない。
すなわち、権力とそれを支持する人たちこそが最も時代に病んだ存在であったということです。
情報操作を弄する者は不適合ゆえの、非難と中傷の言葉を吐き散らすうつ病をあらわしています。
またときに権力は、病んだ相互依存の体制を維持するために、
時代(認識)から解離した <快のイメージ> のプロパガンダをもおこなって、
分裂症を見せることもある。・・
それにしても、
この病んだ相互依存体制が戦後からとうとう昨日まで常に多数を占めたという事実が、
日本的な固有の病理性が厚い基層をなしていることを示唆しているわけでもあります。
そんな日本の人々もとうとう頭にきて取った、今回の政権交代選択の現実的な動機とは、
グローバル金融資本の自滅とそれに追従した小泉路線の破綻、
およびそれに便乗した日本経団連の化けの皮露見、ということを通して
大衆が『生活の危機』と『生き方の自由の危機』をいやでも学習させられたことにあり、
その行動は駆け込み寺的な選択であったといえます。
さすがに最も病んでいる権力は、
このときに大衆の逆鱗に触れたことさえ気づけなかったのです。
逆に言うと、
大衆は、権力やいわゆる似非インテリが思う以上におおらかで、情報操作などどうでもよく、
これ以外の要因ではムキになったりしないということでしょう。
崔洋一監督が、いまさらの様にイデオローグを否定し、
エンタテインメントを持ち出したところで、
大衆は新たなカムイになったりはしないことを、肝に銘じないかぎり、
ついに『本当の大衆』に出会うことはないようにおもえる。
本当の大衆が映像表現として結実しているのは、
光石富士朗監督の『大阪ハムレット』の登場人物たちでしょう。
崔洋一監督の頭の中にはイメージできない本当の大衆そのものを描いた作品といえるでしょう。
(『映画大阪ハムレット』論は以前にブログに書き遺しています。ご参考までに。)
また、本当の大衆は、
宮台真司らのような似非インテリが語る < 機能主義> のうつ病的言葉も、
また、うつ破りの衝動をかかえる変革の欲求の言葉(自明の記号でしかない言葉)も、
信用しない。
情報操作だ、反イデオローグだ、不条理だ、ディスクールだという言葉が、
時代をえぐる、代替不可能な『意味』をおよそ持ちえないからだ。
大衆の現在を体現していると言えば、
オードリー(漫才)の『春日』の方がよほど抜きん出ているし、
『タモリ』はたえず用心深く、大衆性からけっして離れない立ち位置を守っていることに、
インテリたちはよく学ばなければならないでしょう。
このことに、いまだに気がつかない連中に構ってはいられない。・・
話を最初に戻しましょう。
ところで大衆の政治的な成熟はあったのか? といえば、
似非インテリが考えるような成熟は、幻想に過ぎないということ。
大衆にとって成熟という意味に該当することと言えば、
どこまでも時代に適応していくことと、
そのなかでより自由度を獲得していくことに尽きるわけです。
まちがっても 、< 国家 > に収斂していくような『共同意識』(ナショナリズム)に、
まさに < 個 > の自由度を削除するような『ナショナリズム』にひきこまれない、
のほほんとして拒絶できる大衆として、成熟しなければならない。
(敬称略 、拝)
(次回につづきます。)
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朝晩が涼しくなりましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?
さて前回は、
< 投票行動 > もまた日本型の関係意識の病理傾向を示すことをお話しましたが、
今回は、ことのついでに、
国民大衆の政治的な<成熟(マチュァ)>ということについて、
あらためて考えてみようとおもいます。
本当にそのような達成が、時代を経て実現可能なのか?
あるいは成熟という考え方は元より幻想でしかないのでしょうか?
まずそれに否定的な見解として、
『成熟など成しようもなく、戦後の国民大衆を誘導するために、
デマゴギーを含んだ戦略的な情報操作が、
権力の側から一貫しておこなわれたこと。
それによって人々の思考が撹乱され、洗脳されつづけた』という見方には、
それなりの説得力はある。
戦後の政権を昨日まで握りつづけた党がその証左だというわけでしょう。
この見解とは逆の立場でおなじ思考レベルを示しているのが
崔洋一監督の映画『カムイ外伝』に託したつぎの発言です。
「声高なイデオロギーで社会は動かず、エンターテインメントこそ不条理と闘う武器である。
普通の人間がカムイになってみてくれ。これが僕の伝えたかったメッセージだ。」・・
だがよく考えれば、両方の見解ともに
<社会を(権力者が)恣意的に操作できる>ということを前提に語っていることになるわけです。
ここにも、西欧近代主義思想の『機能主義』(ファンクショナリズム)が
サイエンスとしての科学をはじめ、社会、政治、精神医学、などいたるところに、
まるで赤潮のように覆いかぶさり、浸潤してきていることを示しています。・・
大衆が適応してきたそれぞれの時代性、
はては高度資本主義消費社会という歴史的な変容の凄まじさの前で、
いったい<情報操作>は、どのようなはたらきをしたというのでしょうか?
< その時代の産業と消費の変容が、大衆の有り様を規定していく> というとき、
どのようにひいき目に見ても、
権力はむしろ時代性を認識できず、その硬直した不適合を隠すようにして情報操作を図り、
おなじようにあらたな時代の変容を了解できない一群の人々の不安に頼って、
相互依存による弛緩・癒しをたれ流しながら、
今日までやっと息を継いできただけである、と見なすほかはない。
すなわち、権力とそれを支持する人たちこそが最も時代に病んだ存在であったということです。
情報操作を弄する者は不適合ゆえの、非難と中傷の言葉を吐き散らすうつ病をあらわしています。
またときに権力は、病んだ相互依存の体制を維持するために、
時代(認識)から解離した <快のイメージ> のプロパガンダをもおこなって、
分裂症を見せることもある。・・
それにしても、
この病んだ相互依存体制が戦後からとうとう昨日まで常に多数を占めたという事実が、
日本的な固有の病理性が厚い基層をなしていることを示唆しているわけでもあります。
そんな日本の人々もとうとう頭にきて取った、今回の政権交代選択の現実的な動機とは、
グローバル金融資本の自滅とそれに追従した小泉路線の破綻、
およびそれに便乗した日本経団連の化けの皮露見、ということを通して
大衆が『生活の危機』と『生き方の自由の危機』をいやでも学習させられたことにあり、
その行動は駆け込み寺的な選択であったといえます。
さすがに最も病んでいる権力は、
このときに大衆の逆鱗に触れたことさえ気づけなかったのです。
逆に言うと、
大衆は、権力やいわゆる似非インテリが思う以上におおらかで、情報操作などどうでもよく、
これ以外の要因ではムキになったりしないということでしょう。
崔洋一監督が、いまさらの様にイデオローグを否定し、
エンタテインメントを持ち出したところで、
大衆は新たなカムイになったりはしないことを、肝に銘じないかぎり、
ついに『本当の大衆』に出会うことはないようにおもえる。
本当の大衆が映像表現として結実しているのは、
光石富士朗監督の『大阪ハムレット』の登場人物たちでしょう。
崔洋一監督の頭の中にはイメージできない本当の大衆そのものを描いた作品といえるでしょう。
(『映画大阪ハムレット』論は以前にブログに書き遺しています。ご参考までに。)
また、本当の大衆は、
宮台真司らのような似非インテリが語る < 機能主義> のうつ病的言葉も、
また、うつ破りの衝動をかかえる変革の欲求の言葉(自明の記号でしかない言葉)も、
信用しない。
情報操作だ、反イデオローグだ、不条理だ、ディスクールだという言葉が、
時代をえぐる、代替不可能な『意味』をおよそ持ちえないからだ。
大衆の現在を体現していると言えば、
オードリー(漫才)の『春日』の方がよほど抜きん出ているし、
『タモリ』はたえず用心深く、大衆性からけっして離れない立ち位置を守っていることに、
インテリたちはよく学ばなければならないでしょう。
このことに、いまだに気がつかない連中に構ってはいられない。・・
話を最初に戻しましょう。
ところで大衆の政治的な成熟はあったのか? といえば、
似非インテリが考えるような成熟は、幻想に過ぎないということ。
大衆にとって成熟という意味に該当することと言えば、
どこまでも時代に適応していくことと、
そのなかでより自由度を獲得していくことに尽きるわけです。
まちがっても 、< 国家 > に収斂していくような『共同意識』(ナショナリズム)に、
まさに < 個 > の自由度を削除するような『ナショナリズム』にひきこまれない、
のほほんとして拒絶できる大衆として、成熟しなければならない。
(敬称略 、拝)
(次回につづきます。)
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