こんにちは、のほせんです。
福島原発は早々にメルトダウンを起こしていたことをようやく責任官庁がみとめました。
しかし東電本社は、いまだに収束にむけての小出氏らの有効な提案を無視し、
つけ焼刃の、意味を疑われる「対策」にあけくれるという、むなしい
まるで病理的といえる行動をあらわしつづけています。
その病理的にみえる、不可思議な、つねに「一周遅れの結論や行動」の主たる要因は、
おそらく東電首脳と官邸サイドの独善的な意向がはたらいていることにある。
もとより、このような破滅的な事態に対応できる人材が一人もいないこともある。
なぜなら原発に強い懸念をもってきた人は
「どうしなければならないか」をシミュレーションしているけれど、
原発推進側ではこれをシュミレートすること自体がタブーであり、
「考えたこともない」からである。
法則- “ひとは考えないことは実行できない!” のである。
そのうえに、東電首脳と官邸サイドが、保身のための恣意的な指示をだすために
情報が隠蔽されたり、現場からの筋の通った要請が棄却されているとみるのが妥当であろう。
といって、首相が現内閣の中のだれかに替わったところで
危機が解決されるとはとてもおもえないのであるが。・・・
-------
先日、
読者の方から被災地福島在住の和合亮一という詩人の「ツイッター詩」について
感想をもとめられましたので、
さっそく、読者の方の案内にそって
ある新聞の文化欄の紹介記事を読んだあとに、
和合氏のツイッターの「詩の礫」という言葉を順をおって読んでいきました。・・・
正直にいえば、みなさんのように感動するまえに、
わたしはとにかくツイッターを読むことじたいに眼が疲れてしまいました。
というわけで、眼をしょぼつかせながら
和合氏のツイッター詩について、わたしなりになにごとかをお話しすることにいたします。
和合亮一氏は福島市在住の著名な詩人だそうです。
紹介紙面には、
“大地震と津波、放射能の恐怖にさらされる怒りや悲しみを実況中継さながらにつづった言葉が、被災地以外の人の心をも強く揺さぶる。詩には作曲家らが競うように曲を付けてネットで公開、5月31日にはオランダの世界的コンサートホールで朗読するなど、大きな広がりをみせている。”とあり、
“自分が生きた跡を誰でもいいから渡したいと思った”から、
震災の5日後から書き込んでいったという。
「実況中継さながらに」現場から発信することが、
はたして< 文学、詩 >たりうるのだろうか?
ふと疑問におもった。
携帯電話で個人宛に恐怖体験のメールを発信することとシステムが似ている点で、
だれかに話すことに意味をおいているといえる。
ただその相手が不特定なだれかであるという点で、異なる。
「だれでもいいから聴いて欲しい、読んで欲しい」という切実な思いは
かなしいほどよくつたわってくる。
ましてや、つながった人がすぐに共感のメッセージをとどけてくれることは
望外のよろこびや安心をうむであろうこともよくわかる。
しかし、それはそれとして、
文学的に表現することとは、
もっとつきつめていえば、
この時代にむけて自己表現することであり、
やはりそこでは、
幾多の時代の屈折を経てきている< 言葉 >が、いまその詩人をとおして
文学たりうるか、詩たりうるのかをはかられることにおいて、
被災者もまた手加減されないことは自明なことであろう。
そこでツイッター詩といわれている「詩の礫」の言葉のいくつかをひろいだしてみる。
--まず、「明けない夜は無い。」という言葉が、 念仏のように頻繁にしるされている。
・・この、ひとむかし前の応援ソングのような言葉を書くほかないほどに、
詩人の言葉が衰弱していることにおもいやるしかない。・・・
--「私たちの暮らしの内側に、果肉がある。否。それはあなたの思い過ごしである。「暮らし」とは簡単に廃墟に変わる。廃墟に変わる。鹿の鳴き声。..この世に絶対は無い。果実に絶対は無い。」--
・・ここでは詩人は破壊の体験から、
虚無思想ではなくリアルな現実について語っているのである。
つまり、いまはまだ
体験から一ミリの距離をも離れがたい心的な動揺の中におしこめられた状態にある。
--「この世界はこの世界に避難するしかないのか。余震だ。否。」--
・・これもまた前の言葉とおなじようにひたすらおびえているのだが、
なんとかして言葉の普遍性のほうに向かおうとしているようにみえる。
--「後記2 今、あなたは何をしていますか? と、問いかけた時に、お答えが直ぐに返ってきて、会話をしているようで驚きつつも励まされました。その都度その都度に、素晴らしい言葉をありがとうございます」--
・・こういう言葉を読まされると、
詩人がこのツイッター詩を< 依存 >のために成しているようでがっかりさせられる。
だがマスメディアとかはこういうところが琴線に触れるのだろうなあ。
--「ここは僕ら家族の陣地 靴をなぜだか並べ直す 腕時計を1分だけずらす 死者の数が時間ごとに増えていく」--
・・このような言葉が、本来の詩の領域にあると評価できよう。
--「しーっ、余震だ。何億もの馬が泣きながら、地の下を駆け抜けていく。
ほら、ひづめの音が聞こえるだろう、いななきが聞こえるだろう。何を追っている、何億もの馬。しーっ、余震だ。
私は宇宙と世界とこの部屋の中にたった一人だ。何億もの馬と語り合いたい。それぞれの馬をなだめたい。もう追い掛けるな。人間を休ませていただきたい。
もっと一人にならなければ、馬の群れに許されないものなのか。ならば進んで、孤独になろう。だから馬よ、怒りと絶望を沈めてはくれないか。
余震。何を追っているのか、馬よ。世界の暗がりなのか、宇宙のひずみなのか、両親を亡くなした坊やの涙か。もういいじゃないか、追うな、馬よ。私たちはどんなに傷ついても、何億ものたてがみを撫でよう。泣きながら、撫でよう。優しく、優しく…。」--
・・「馬」を「余震」の比喩に表現していて、
すこしだけ、詩人に対象との距離をおく心的な回復がみられる。
呼吸も回復に向いているようだ。
--「緊急地震速報。震源地は宮城県沖。緊急地震速報。震源地は茨城県沖。緊急地震速報。震源地は岩手県沖。緊急地震速報。震源地は冷蔵庫3段目。緊急地震速報。震源地は革靴の右足。緊急地震速報。震源地は玉ねぎの箱。緊急地震速報。震源地は広辞苑。緊急地震速報。震源地は、春。」--
・・ここにはシュールともいえるが、詩人のふとした狂気があえて書きつけられている。
詩人は読者に対して
「言説に狂気と理性とが絡み合います。心配をしないで下さいね」とことわっている。
だがことわるまでもなく、
文学は狂気や悪徳や神があってもいっこうに自由でなければならないのだ。
そこに時代をつきさすような普遍的な何ごとかを表現していることが評価の基準であるから。
--「後記 「詩の礫10」いかがでしたか。感じたこと、思ったこと、好きなところ、浮かんだ詩のフレーズ…、どんなことでも大歓迎です。私の詩を大切に読んで下さったように、私も一字一字、読ませて下さい…。ダイレクトメッセージ・リツィートをお待ちしております…。」--
・・わたしは詩人といわれるひとのこのような言葉に接して、
これ以上のことをお話するのを遠慮させていただこうとおもいました。
和合亮一さんは、このような生き方をされていくのだなあとおもうほかないわけで。・・・
それはそれでけっこうだということです。
ただ・・
人が堪えることなどできない現実に直面して、なおも
いまは沈黙するほかないとおもいきめる詩人もいることを
ひそかに信じているのはわたしだけではないとおもう。
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福島原発は早々にメルトダウンを起こしていたことをようやく責任官庁がみとめました。
しかし東電本社は、いまだに収束にむけての小出氏らの有効な提案を無視し、
つけ焼刃の、意味を疑われる「対策」にあけくれるという、むなしい
まるで病理的といえる行動をあらわしつづけています。
その病理的にみえる、不可思議な、つねに「一周遅れの結論や行動」の主たる要因は、
おそらく東電首脳と官邸サイドの独善的な意向がはたらいていることにある。
もとより、このような破滅的な事態に対応できる人材が一人もいないこともある。
なぜなら原発に強い懸念をもってきた人は
「どうしなければならないか」をシミュレーションしているけれど、
原発推進側ではこれをシュミレートすること自体がタブーであり、
「考えたこともない」からである。
法則- “ひとは考えないことは実行できない!” のである。
そのうえに、東電首脳と官邸サイドが、保身のための恣意的な指示をだすために
情報が隠蔽されたり、現場からの筋の通った要請が棄却されているとみるのが妥当であろう。
といって、首相が現内閣の中のだれかに替わったところで
危機が解決されるとはとてもおもえないのであるが。・・・
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先日、
読者の方から被災地福島在住の和合亮一という詩人の「ツイッター詩」について
感想をもとめられましたので、
さっそく、読者の方の案内にそって
ある新聞の文化欄の紹介記事を読んだあとに、
和合氏のツイッターの「詩の礫」という言葉を順をおって読んでいきました。・・・
正直にいえば、みなさんのように感動するまえに、
わたしはとにかくツイッターを読むことじたいに眼が疲れてしまいました。
というわけで、眼をしょぼつかせながら
和合氏のツイッター詩について、わたしなりになにごとかをお話しすることにいたします。
和合亮一氏は福島市在住の著名な詩人だそうです。
紹介紙面には、
“大地震と津波、放射能の恐怖にさらされる怒りや悲しみを実況中継さながらにつづった言葉が、被災地以外の人の心をも強く揺さぶる。詩には作曲家らが競うように曲を付けてネットで公開、5月31日にはオランダの世界的コンサートホールで朗読するなど、大きな広がりをみせている。”とあり、
“自分が生きた跡を誰でもいいから渡したいと思った”から、
震災の5日後から書き込んでいったという。
「実況中継さながらに」現場から発信することが、
はたして< 文学、詩 >たりうるのだろうか?
ふと疑問におもった。
携帯電話で個人宛に恐怖体験のメールを発信することとシステムが似ている点で、
だれかに話すことに意味をおいているといえる。
ただその相手が不特定なだれかであるという点で、異なる。
「だれでもいいから聴いて欲しい、読んで欲しい」という切実な思いは
かなしいほどよくつたわってくる。
ましてや、つながった人がすぐに共感のメッセージをとどけてくれることは
望外のよろこびや安心をうむであろうこともよくわかる。
しかし、それはそれとして、
文学的に表現することとは、
もっとつきつめていえば、
この時代にむけて自己表現することであり、
やはりそこでは、
幾多の時代の屈折を経てきている< 言葉 >が、いまその詩人をとおして
文学たりうるか、詩たりうるのかをはかられることにおいて、
被災者もまた手加減されないことは自明なことであろう。
そこでツイッター詩といわれている「詩の礫」の言葉のいくつかをひろいだしてみる。
--まず、「明けない夜は無い。」という言葉が、 念仏のように頻繁にしるされている。
・・この、ひとむかし前の応援ソングのような言葉を書くほかないほどに、
詩人の言葉が衰弱していることにおもいやるしかない。・・・
--「私たちの暮らしの内側に、果肉がある。否。それはあなたの思い過ごしである。「暮らし」とは簡単に廃墟に変わる。廃墟に変わる。鹿の鳴き声。..この世に絶対は無い。果実に絶対は無い。」--
・・ここでは詩人は破壊の体験から、
虚無思想ではなくリアルな現実について語っているのである。
つまり、いまはまだ
体験から一ミリの距離をも離れがたい心的な動揺の中におしこめられた状態にある。
--「この世界はこの世界に避難するしかないのか。余震だ。否。」--
・・これもまた前の言葉とおなじようにひたすらおびえているのだが、
なんとかして言葉の普遍性のほうに向かおうとしているようにみえる。
--「後記2 今、あなたは何をしていますか? と、問いかけた時に、お答えが直ぐに返ってきて、会話をしているようで驚きつつも励まされました。その都度その都度に、素晴らしい言葉をありがとうございます」--
・・こういう言葉を読まされると、
詩人がこのツイッター詩を< 依存 >のために成しているようでがっかりさせられる。
だがマスメディアとかはこういうところが琴線に触れるのだろうなあ。
--「ここは僕ら家族の陣地 靴をなぜだか並べ直す 腕時計を1分だけずらす 死者の数が時間ごとに増えていく」--
・・このような言葉が、本来の詩の領域にあると評価できよう。
--「しーっ、余震だ。何億もの馬が泣きながら、地の下を駆け抜けていく。
ほら、ひづめの音が聞こえるだろう、いななきが聞こえるだろう。何を追っている、何億もの馬。しーっ、余震だ。
私は宇宙と世界とこの部屋の中にたった一人だ。何億もの馬と語り合いたい。それぞれの馬をなだめたい。もう追い掛けるな。人間を休ませていただきたい。
もっと一人にならなければ、馬の群れに許されないものなのか。ならば進んで、孤独になろう。だから馬よ、怒りと絶望を沈めてはくれないか。
余震。何を追っているのか、馬よ。世界の暗がりなのか、宇宙のひずみなのか、両親を亡くなした坊やの涙か。もういいじゃないか、追うな、馬よ。私たちはどんなに傷ついても、何億ものたてがみを撫でよう。泣きながら、撫でよう。優しく、優しく…。」--
・・「馬」を「余震」の比喩に表現していて、
すこしだけ、詩人に対象との距離をおく心的な回復がみられる。
呼吸も回復に向いているようだ。
--「緊急地震速報。震源地は宮城県沖。緊急地震速報。震源地は茨城県沖。緊急地震速報。震源地は岩手県沖。緊急地震速報。震源地は冷蔵庫3段目。緊急地震速報。震源地は革靴の右足。緊急地震速報。震源地は玉ねぎの箱。緊急地震速報。震源地は広辞苑。緊急地震速報。震源地は、春。」--
・・ここにはシュールともいえるが、詩人のふとした狂気があえて書きつけられている。
詩人は読者に対して
「言説に狂気と理性とが絡み合います。心配をしないで下さいね」とことわっている。
だがことわるまでもなく、
文学は狂気や悪徳や神があってもいっこうに自由でなければならないのだ。
そこに時代をつきさすような普遍的な何ごとかを表現していることが評価の基準であるから。
--「後記 「詩の礫10」いかがでしたか。感じたこと、思ったこと、好きなところ、浮かんだ詩のフレーズ…、どんなことでも大歓迎です。私の詩を大切に読んで下さったように、私も一字一字、読ませて下さい…。ダイレクトメッセージ・リツィートをお待ちしております…。」--
・・わたしは詩人といわれるひとのこのような言葉に接して、
これ以上のことをお話するのを遠慮させていただこうとおもいました。
和合亮一さんは、このような生き方をされていくのだなあとおもうほかないわけで。・・・
それはそれでけっこうだということです。
ただ・・
人が堪えることなどできない現実に直面して、なおも
いまは沈黙するほかないとおもいきめる詩人もいることを
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この記事、ツボにはまったので衝動的に紹介したくなり、
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紹介したのは「文学極道」という詩の投稿サイトのフォーラム→雑談→原発関連です。
ほんとうは先生の記事のすべてを紹介したいくらいです。
すべての発想、考え方が参考になります。