心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

色川武大の旧約聖書

2010-07-05 18:08:24 | マインドケア 今週の言の葉
こんにちは、テツせんです。
うだる季節の夜に、しっかりと眠るのも仕事のうち。
みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

今日もメディアの報道で、野球賭博のかどでお相撲さんが非難され、騒動になっています。

そんなときに、
若い頃に博打うちだった色川武大氏のことをとりあげるのも天邪鬼なはなしですが(えへへ)、
色川氏はごぞんじのように阿佐田哲也の名前で「麻雀放浪記」を書かれています。

その粋な遊び人のほうではない、作家色川武大氏には「私の旧約聖書」(1991年.中公文庫)という
およそイメージとはかけ離れたタイトルの著書もあるわけです。(失礼!)

しかし、なるほど読んでみればペンネームの両者が無理なく自然体で
ひとりの人間を通底していることがわかります。

作家色川武大としての照れがあって、
この本もしょっぱなは「博打のセオリー」の薀蓄から入るわけですが、
これがサッカーのセオリーにおどろくほど似ていておもわずうなずいてしまいました。

要約すると、
-- 「どんな戦争(博打)でもとにかく最も肝要なところは前哨戦なんです。
つまりとにかく1点とればいいんです。
この最初の態勢がその後のすべてを作ってしまうんです。」

「逆に1点勝ったときのポイントは、なんにもしないでいることなんです。
つまり得点が入らなくてもいいからエラーをしちゃいけないということ。」

「それから態勢の悪いときにどのくらい早く切り換えるかというと、
1点ビハインドのときに、五分に戻すことが第一なんです。」

「一手の違いが、実はすべてなんで、相手がエラーするか、風が変わるのを待つわけですね。
こちらが戦う(攻勢に出る)のは、たった1点でも有利になっているときに限るので。」

「学校で教えない浮世のことには、
広い意味での例外で埋まっているということを思わないとまずいんですね。
そうだとすればそれに対して、
反射的にセオリーにのっとった行為ができるようにしておく必要があるわけ。」 --

こんな博打の心得をさっそうと説いて、やおら本題に入るかとおもいきや、
「 はじめにちょっとおことわりしておきますけれど、
私、ただのはずれ者でありまして宗教人とか、教養人とかの立場から、
旧約聖書を語ろうというわけでは、もちろんありません。」と、
いたってお控えなさって、念の入った口上をのべています。

「 私には信仰がありません。心の底から信頼する他者がいないし、造ろうともしません。
いうならば私の神は、私の身の内にあるのです。」・・・

フォイエルバッハやマルクス哲学が言うように、
『 神は、人間が自己意識を無限であり、至上であると考える意識の対象化されたもので、
もともと人間の自己意識のなかにしか住んでいない 』
ということに照らせば、
色川氏が遠慮がちに語っていることには、ある意味では理があるようにおもえます。

そこには『神 』を至上物として外化しえない現代人の苦渋と孤立意識がうかがえます。

おなじ旧約聖書(ヘブライ聖書)の創世記を読んだ山室静氏は、
「すばらしい考え方だと思いませんか。書き方もきびきびしているうえに、
すじがとおっていて、すっきりしています。」と天地創造話を賛美してやまない。・・・

はたしてこのひとは、色川氏とは逆向きに、
神を至上物とすることで、現代の苦渋と孤立意識から 『救われている 』とみられるべきなのか?

しかしそのように手ばなしに賛美する山室氏の姿は、
現代社会そのものから解離逃亡した自己放棄の選択において、
みずからにたいして自覚的であるようにはみえないのだが。・・・

( こんなにかろやかに賛美されると、
ユダヤ教との死闘のなかで新約聖書まで書きあげたマチウ書の作者も
「ほんとうにちゃんと読んだのかい?」とおもわず苦笑いしているのではないでしょうか!)

色川氏のように、どこまでも自分に正直に、私流に生きるしかなかったとすれば、
神を押し戴くということは、ラチの外にすぎないでしょう。・・・

でもちょいとイェホバさんのそばに近づいて、かまってみようとおもったのは、
当時初老にちかづいた色川氏が、
ゼッペキ頭の生き方にもそれなりに矜持をもった故かなと、推察するのですが?・・・

ゼッペキ頭というのは色川氏が「幼年期いらい抱きつづけた畸形意識 」であり、

「 劣等感というものは非常に主観的なもので、またそれだから根強いんですね。
私などは、前述したように、自分の身の内に神さまを住まわせているものだから、
その自分の一部が劣悪だということは、もう解決しようがないんです。
ゼッペキ頭が直らないかぎり、自分は何をしても、優等や洗練にほど遠い存在なのだ、
と思えてくるんです。」・・・

「 自分はゼッペキ頭の生き方というものを創造しなければ」この先いきていけない。

すると、戦争期に少年期がかさなった自分としては、
「 国家とか、天皇の子といった集団の規則になじめない。」

なぜなら、「ゼッペキ頭の自分に対する自己愛でバランスをとっているから」
集団の規制からそれを守りつづけるしかなかったということで、「ズタボロになって」、
「当時の未成年者には珍しい戦争非協力のかどで中学無期停学」となる、孤立をあじわうことになる。

「思想なら転向もありえましょうが、発端がゼッペキ頭では、転向のしようがありません。」・・・

「この世というものは結局、自分の生命の側からしか眺められません。
戦争が、どれほど大きな影響をもたらしても、それは上着のようなもので、
私のような男は、上着よりも、自分だけの身体的特徴の方にずっとこだわってしまうのです。」・・・

色川氏の生き様には、
おおかたの小賢しい似非インテリ学者や口先だけの文化人などが束になってかかっても、
とても歯が立たないゼッペキ流が貫徹している。

マタイ伝第一九章にある、
「 富める者の神の国に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかたかえって易し」
という有名な挿話をとりあげて、色川氏は言う。

「この富める者は、ひょっとしたら執着を捨てて、イエスに従ったかもしれません。
その気になれば資産を捨てることも可能でしょうから。

だけれども、たとえば盲目の人が盲目意識を捨てるのはむずかしいでしょう。
それと同じく私に、ゼッペキ頭(の意識)を捨てろといわれても、むずかしいと思います。
私はゼッペキ頭にのっとった生き方を身につけていますから。

おや、そうすると、ゼッペキ頭が、私の神のようなものになるのですかね。」・・・

そろそろみなさま、
色川氏の肝心の旧約聖書に登場する神と人間との確執についての、
絶妙なゼッペキ流の語りにふれないままに時間となりました!

それではまたのお愉しみに、
今日のところはこれにてご免こうむりますー~
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1 コメント

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いろかわぶだい (sjt)
2010-11-17 13:17:36
こんにちは、はじめまして
私も10代のころに阿佐田・色川節のとりこになりました。
色川作品では
「無職無宿虫の息」の
惚れて通うは千里も一里
振られて帰るはまた千里
ぐれてはまぐりゃ千里も一里
足を洗うにゃまた千里

という文章に楽しさを覚える今日一日です。









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