心理カウンセラーの眼!

孤立無援の・・君よ、眼をこらして見よ!

「武士の一分」と現代日本人

2006-12-14 15:13:29 | 現代日本および世界
「武士の一分」を観ましたー!

残念ながら席は五分の一しか埋まっていませんでした。
もうキムタクにも、さほどの魅力が無くなっているのか、
あるいはこの町が文化と無縁の風土をもつためかは
わたしには分かりかねますが、・・

ともあれ山田洋次監督が伝えたかったものは何だったでしょう?

・「日本の下級武士の生活と生き方」
・「現代日本人が失くした一分というものの価値意識」
こんなところでしょうかね。

映画の中では、
下級武士たちの言葉遣いが現代風に擦り寄って表されています。
そのぶん本当に伝えるべき「武士のもっとリアルな秩序文化」が描かれていないことになる。

つまり現代人にとっては、もっともっと窮屈な作法・礼儀であったはずだという事。

それが果たして何の価値を示しているのかと
疑問に思われるでしょうが、
実はそこだけが武士の価値であったと言ってもいいくらいです。

つまりその後の明治以降になって、

自由、民権、平等意識の恩恵を享受したはずだった
武士階級以外の人々に、

「新しい社会参加での意識形成」を個々に迫られることになったけれども、

ほとんど誰もがそのような対人意識を立てることができないままに、

「社会での対人不安」を常習的にあらわしてきたことが

当時の婦人雑誌などの「身の上相談」に観察されます。


その不安をなくそうとして
「社会でも相手に家族のような関係意識で接する」ことが

日本人の対人意識の特異な点となって現在に至っています。

するとここからは、
「親のように分かってくれて当然だ」
「わたしを無視している」
「いつもルーズな仕事ぶりでトラブル」
「やたら上司風ををふかして横柄な態度を取る」

などといった
人間関係の様々なトラブルやうまく行かなさがお互いに発生します。

それは、家族意識を持ち込んだ結果の
やたら「密着」、「依存」し合う心のトラブルということなのです。

社会の中では「家族意識の関係」ではなく、
「社会性のある」人間関係を構築しなければならないのですが、・・


話を戻しましょう。

「武士のとても窮屈な作法・礼儀」はもちろん言葉遣いにも関わってきます。

ですがこの文化があってこそ、たとえ下級武士といえども
毎日を安穏に、

少なくとも「心の持ちよう」には「泰然自若」でおれたわけです。

誰も、武家社会の基本的な人間関係に不安や疑念を持ったりはしないのだ。

あるのは、この映画にも登場してくるような
個人対個人のトラブルだけに限定されるということです。

明治以降では、
対人関係の不安が「日本人のほとんど」というところに
大きな心の病理の「原因」があり、

それが見過ごされてきていることに、
大きな現代的な「問題」が今も横たわっているということだ。







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