「体罰の復権」という、戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏氏の一文が新潮45の七月号に掲載されています。
彼の主張は
「今のように体罰が容認されない社会のままでは、日本の教育は滅亡に向かってすすみ続けるであろう。」と要約されています。
ということならば、「体罰が容認されれば」、日本の教育が「立ち直る」と考えていることになる。
文中では、「静岡のケース」が「体罰か虐待か」という問題の例証として取りあげられています。
その概略は、
再婚相手の連れ子の態度が目に余るので、何とかしないといけないと思い、
義父が躾を厳しくし、ときには体罰を加えることもしてきたこと。
小学校ではその一年生の児童のあざを見て、
「児童虐待の疑いがある」と児童相談所に通報したこと。
この児童は家では、義父が叱ると、「親と子供は同等のはず」と言い返していたという。
それは、その小学校の教育指導の中で、
「君たちと親は同等なんだから、親の言うことを聞く義務はない」と教えていたためだという。
にもかかわらず義父の体罰が直らないので、児童が学校側に親を告発したという次第。・・
このあと、この義父と学校側で議論したが、結論を得られず、
翌日、いきなり児童は児童相談所に送られたという。
その後に裁判にまでなって、戸塚ヨットスクールの顧問弁護士でもある義父側の弁護士が
「体罰の定義」「体罰と虐待はどう違うか」について論戦した挙句、
「向こうもこちらの言い分を認めるようになり、私たちの論理で裁判官を説得できたいい例だ」と、戸塚氏は言う。
さらに戸塚氏は、
「体罰はあくまで進歩を目的とした有形力の行使で、虐待や暴行は自分の利益が目的で、
相手を支配しようとするもの。両者は目的が正反対」と主張する。
* まず、ここまでの「静岡のケース」の経過の中で疑問におもうことは、
この小学校では、
「親と子どもは同等なのだから、親の言うことを聞く義務はない」という指導がなされている点です。
いわゆる児童教育の理念が抜け落ちた、子供の権利・悪平等論者の横行と見なされます。
これが本当であれば、大きな間違いを犯していることになります。
どういうことかといえば、
家の中で子供の権利論をふり回すような、子どもの「発達」ということについて無知な考え方では、
家庭の育児・教育が成り立たないことになるからです。
乳児期の母子の愛着と会話の形成にはじまり、
幼児期には発達に見合った、社会性の獲得のための親の側からの教育ということが放置された場合、
子どもは生涯、社会参加の局面で立ち往生し、人間関係から疎外されたまま、
さまざまな心的不全をあらわすことが予見されます。
少なくとも神経症を病むことから、ほとんど免れないとかんがえられます。
教育の場で子どもの権利を振りかざす教育者?など、自己矛盾を呈した夢想家にすぎないのではないでしょうか。
それを言った瞬間から、
子どもにとって、「教育」がゲームや遊びと同様の恣意的な世界に認知されていくことになるわけだから。
それこそ、何を成すまでもなく始める前から教育が崩壊していることになります。
この小学校もおかしな教育?をおこなっているとおもいますが、
そのことには反論を見せないで、体罰と虐待の違いを主張する戸塚氏もおかしいとおもいます。
体罰が子どもを進歩させるという論証の中で、戸塚氏は、「恥」「開き直り」「怒り」といった概念を用いています。
しかしこれらの概念は個人の感情に属する、恣意的な概念で、とても普遍性を持つとはいえないでしょう。
「体罰で死ぬのは、仕方に問題があるだけで、『進歩、進歩』だと思いながら体罰すれば冷静に体罰を行えます。」という。・・
これでは、まるで念仏を唱えるごとし。・・何をかいわんや!
わたしは、体罰復権論者の人たちもまた、子どもを指導することの困難に翻弄され続けたことをおもわずにはおれない。・・
ただ、
「子どもの発達」について正当な考え方を取らずに、自己流の解釈を弄するようになったことに失望を禁じえない。
一方の子どもの権利論者は、おそらくこういった戸塚氏のような指導者の恣意的な思考の危うさに対して、
的外れな間抜けな位置からでも、懸命に子どもを守ろうとしたのだろうけど。・・
双方ともに、裁判官を含めて「子どもの発達、教育」ということについて、無知であるだけでなく、
人々をミスリードしているという点で、罪作りでもある。
ここで断言しておきますと、
体罰を進歩のためと信じる戸塚氏も、
良かれと思って叩いてしつけをする親も、
同様に子どもを支配しようとする無意識が必ずはたらいています。
ここでは「教育」が成り立っていません。
いくら善意から始まった行為であっても、
子どもにとっては「抑圧」でしかないわけです。
また「しつけ」はペットにも使われるとおり、
教育とは違い、親の感情に左右される恣意的なものといえるでしょう。
「虐待」がいきなり虐待として起こされるものではないこと。
「言うことを聞かない」子どもに対して、善意の暴力的しつけから始まることに気づいていただきたい。
「児童教育」とは、社会参加(この場合は学校)する中で「人間関係」を学ばせ、
「社会性・秩序・ルール・約束」の「意味」を教育・指導することが主たる目的です。
この教育の有無が、自我の形成をささえるか、それとも子供の生涯にわたっての不安を形成するかという、
重要な心的影響を左右することを肝に銘じてほしいものです。
この大きな本質に無知で、「ほめるのか?しかるのか?」までマニュアルに頼ろうとする者は
教育者の任に堪えがたいと、言わざるを得ない。・・・
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彼の主張は
「今のように体罰が容認されない社会のままでは、日本の教育は滅亡に向かってすすみ続けるであろう。」と要約されています。
ということならば、「体罰が容認されれば」、日本の教育が「立ち直る」と考えていることになる。
文中では、「静岡のケース」が「体罰か虐待か」という問題の例証として取りあげられています。
その概略は、
再婚相手の連れ子の態度が目に余るので、何とかしないといけないと思い、
義父が躾を厳しくし、ときには体罰を加えることもしてきたこと。
小学校ではその一年生の児童のあざを見て、
「児童虐待の疑いがある」と児童相談所に通報したこと。
この児童は家では、義父が叱ると、「親と子供は同等のはず」と言い返していたという。
それは、その小学校の教育指導の中で、
「君たちと親は同等なんだから、親の言うことを聞く義務はない」と教えていたためだという。
にもかかわらず義父の体罰が直らないので、児童が学校側に親を告発したという次第。・・
このあと、この義父と学校側で議論したが、結論を得られず、
翌日、いきなり児童は児童相談所に送られたという。
その後に裁判にまでなって、戸塚ヨットスクールの顧問弁護士でもある義父側の弁護士が
「体罰の定義」「体罰と虐待はどう違うか」について論戦した挙句、
「向こうもこちらの言い分を認めるようになり、私たちの論理で裁判官を説得できたいい例だ」と、戸塚氏は言う。
さらに戸塚氏は、
「体罰はあくまで進歩を目的とした有形力の行使で、虐待や暴行は自分の利益が目的で、
相手を支配しようとするもの。両者は目的が正反対」と主張する。
* まず、ここまでの「静岡のケース」の経過の中で疑問におもうことは、
この小学校では、
「親と子どもは同等なのだから、親の言うことを聞く義務はない」という指導がなされている点です。
いわゆる児童教育の理念が抜け落ちた、子供の権利・悪平等論者の横行と見なされます。
これが本当であれば、大きな間違いを犯していることになります。
どういうことかといえば、
家の中で子供の権利論をふり回すような、子どもの「発達」ということについて無知な考え方では、
家庭の育児・教育が成り立たないことになるからです。
乳児期の母子の愛着と会話の形成にはじまり、
幼児期には発達に見合った、社会性の獲得のための親の側からの教育ということが放置された場合、
子どもは生涯、社会参加の局面で立ち往生し、人間関係から疎外されたまま、
さまざまな心的不全をあらわすことが予見されます。
少なくとも神経症を病むことから、ほとんど免れないとかんがえられます。
教育の場で子どもの権利を振りかざす教育者?など、自己矛盾を呈した夢想家にすぎないのではないでしょうか。
それを言った瞬間から、
子どもにとって、「教育」がゲームや遊びと同様の恣意的な世界に認知されていくことになるわけだから。
それこそ、何を成すまでもなく始める前から教育が崩壊していることになります。
この小学校もおかしな教育?をおこなっているとおもいますが、
そのことには反論を見せないで、体罰と虐待の違いを主張する戸塚氏もおかしいとおもいます。
体罰が子どもを進歩させるという論証の中で、戸塚氏は、「恥」「開き直り」「怒り」といった概念を用いています。
しかしこれらの概念は個人の感情に属する、恣意的な概念で、とても普遍性を持つとはいえないでしょう。
「体罰で死ぬのは、仕方に問題があるだけで、『進歩、進歩』だと思いながら体罰すれば冷静に体罰を行えます。」という。・・
これでは、まるで念仏を唱えるごとし。・・何をかいわんや!
わたしは、体罰復権論者の人たちもまた、子どもを指導することの困難に翻弄され続けたことをおもわずにはおれない。・・
ただ、
「子どもの発達」について正当な考え方を取らずに、自己流の解釈を弄するようになったことに失望を禁じえない。
一方の子どもの権利論者は、おそらくこういった戸塚氏のような指導者の恣意的な思考の危うさに対して、
的外れな間抜けな位置からでも、懸命に子どもを守ろうとしたのだろうけど。・・
双方ともに、裁判官を含めて「子どもの発達、教育」ということについて、無知であるだけでなく、
人々をミスリードしているという点で、罪作りでもある。
ここで断言しておきますと、
体罰を進歩のためと信じる戸塚氏も、
良かれと思って叩いてしつけをする親も、
同様に子どもを支配しようとする無意識が必ずはたらいています。
ここでは「教育」が成り立っていません。
いくら善意から始まった行為であっても、
子どもにとっては「抑圧」でしかないわけです。
また「しつけ」はペットにも使われるとおり、
教育とは違い、親の感情に左右される恣意的なものといえるでしょう。
「虐待」がいきなり虐待として起こされるものではないこと。
「言うことを聞かない」子どもに対して、善意の暴力的しつけから始まることに気づいていただきたい。
「児童教育」とは、社会参加(この場合は学校)する中で「人間関係」を学ばせ、
「社会性・秩序・ルール・約束」の「意味」を教育・指導することが主たる目的です。
この教育の有無が、自我の形成をささえるか、それとも子供の生涯にわたっての不安を形成するかという、
重要な心的影響を左右することを肝に銘じてほしいものです。
この大きな本質に無知で、「ほめるのか?しかるのか?」までマニュアルに頼ろうとする者は
教育者の任に堪えがたいと、言わざるを得ない。・・・
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