心理カウンセラーの眼!

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断崖に迫るグローバリズムの洪水

2010-08-23 16:27:45 | 現代日本および世界
こんにちは、テツせんです。
あまりの暑さに蝉も声なく、生きものすべてが息もたえだえといった具合ですが、
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

さて、すこし前の日経紙コラムに、
韓国最大手企業サムスン電子が、私学に学部、学科を設けて、
生活費まで会社持ちという待遇で、全国から優秀な学生を集めようとしているとありました。
担当教授はこれを、「注文型教育」といったといい、
コラムの書き手は「まさか、ここまではと思うのだが」と結んでいる。・・・

まさか、というとぼけた言い方も、いまさらですが、
まちがいなく企業目的に沿った人材を大学の授業段階から育成するという発想は、
企業のもっとも合理的な人材獲得の方法としては理想的なものにちがいない。
米国ではかなり以前からさかんにとりいれられているわけで、
産学協同というより、「産学一体」という、
世界のグローバル経済に組みこまれた、各国のナショナルな資本の側の要請に、
大学側が積極的にこたえようとする構図である。

もっともこの構図は、経済エリート社会のなかのエリート学生育成というきわめて限定されたもの。

日本では明治時代に国家的要請のもとに西欧近代の諸学修得の目的から、
帝国大学を設立して、日本の「西欧的近代化」に邁進していくことになる。

それならば、いまさら産学協同をいうのも妙な話だが、
これは、帝大がおもに官僚養成を第一義としたために、
「産」より「学」が上位に立つことになっただけのことであって、
「学問の自立」は、いってみれば近代化を急ぐ日本の揺籃期の姿そのものをしめしている。

しかし百年の時が移り、
そういうややこしい経緯をかかえる大学の「学の上位」にたいして、
グローバル化のなかで日々たたかわされる「産」側から、
あからさまな懐疑と要望が出てくるのはむしろ必然というものかもしれない。

大学側も「就職氷河期」「大学の存廃」を生き抜くために、
苔のはえた「学問の自立、大学の自治」の看板をおろして、
企業にすりよることしか頭にないようだ。

それぞれが資本の要請にあわせて、ミニ米国式の
○○ビジネスカレッジや△△大学エージェント講座のように様変わりしている。・・・

・・ここまで書いてきて、
大学という学園にとって重要な構成員であるはずの、
肝心の「学生」の存在がどうもはっきりと見えてこないことに気づく。・・・

もちろん以前のように、
よく遊んで、部活をして、のんびりと卒業していく学生さんが、
即戦力を求める企業から歓迎されない状況はわかりますが。・・・

しかし、たいがいの「ふつう」の学生諸君は本当のところは変わっていないのではないだろうか。
妙な言い方ですが、「あまり勉強しない」「のんびりして」いるのが、
むしろ日本の学生のいちばん良い気風といっても、まちがいではないはず。

そうやって就職し、仕事を覚え、退職するまで働いてきたのが、いまの団塊の世代であり、
良いも悪いも、つづくみんなも、前にならえでやってきたはずだから。・・・

つまり、ほどほどに大学のおしつけカリキュラムにつきあって学問して、
あとは学生生活をそれぞれに楽しむことが、日本の大学の中での「作法」であり、
管理側と学生との《 何事もない関係 》が70年以降、暗黙のうちにつづいてきた。・・・

だとすると、いま、いったい何がどうして、強迫的に変わろうとしているのか?

- 企業は、世界の産業・資本動向にとりのこされまいとして、早くから社員をしめつけ・・
- 大学は、理事会の主導権のもとに産学一体化に舵を切り、・・
- (ふつうの)学生は、就活のために真剣に鼻白む面接セミナーにかよったり、・・
という、一連の日本的変化とは、どんな強迫性につきうごかされているのだろうか?

この、日本の「産・学」の変化を強いたものこそ、先にでてきたグローバル化、
すなわち、《グローバルリズム 》という世界を席巻する思想的潮流にほかならない。

それは、行きづまりつつある《 超消費資本主義 》の矛盾を解決する方向ではなく、
矛盾を先取りして、より先鋭化させ、
世界の富(それにともなう権力)を総取りしようとする意志と理解されなくてはならないものである。

そうした国際的資本の権力の寡占化の意志と覚らせないで、
むしろ世界中に歓迎される「高級な自立・自助思想」として情報流布させた手法はさすがに手なれたものだ。

お人好しの日本人が、いまだにひきずる欧米コンプレックスのために、
グローバリズムを 「あらたなモダニズムの到来 」と誤解して、
底なしの淵に引きこまれていく、救いのない光景がくりひろげられようとしている。・・・

この世界のグローバル化に、産業としての実需が反映されているならばまだよいのだが、
世界中の(元は実需)市場が、証券化された市場に組み替えられたために、
つねに市場を不安定で、投機の対象でしかないものにおとしめてきた元凶のシステムに変貌している。

おそらく、わたしたちがいま選択しなければならない、すなわち「ふつうに生きるための回路」は、
会計評価システムや為替変動制を、「聖典」気取りでおしつけて、
大手上場企業の首までしめつける、グローバルシステムではありえないだろう。

どの勢力が悪であるとかいうことよりも、
このグローバル思想自体には、

“ 実際に創造価値を産んでいる生産者 ”個々 が、《生存の尊厳 》を喪失させられ、
『 軽視 』ないし『 無視 』 される扱いをうけていることが決定的に容認できがたいことにある。

実体産業(サービス業を含め)を尻目に、
金融工学による投機とインサイダー情報操作にあけくれるグローバリズムの金融の権化に
未来など託すわけにはいかないだろう。

オバマ米大統領派が金融制度改革法案に力を入れても、ザル法となって、
多勢のネオコン派にしっぺ返しをくらうのは避けられそうもない。

さらなる問題は、
これらのグローバル世界経済に蹂躙されている実需産業全体の経営・資本が、一段と内攻して、
ますます価値生産の現場に立つ者が、無価値な代替可能な者としておとしめられていることに、
世界中が去勢されたようにほとんど無反応であることだ。・・・

しかし、団塊の世代をたとえるまでもなく、
日本中で産み落とされたあらゆる価値は、
物質的な生産物、精神的な創造物をとわず、いっさいの価値は
汗水して働いた肉体と精神労働によって築かれてきたものである。

すべての価値は
社会にはたらくすべての人々とそれを支える人々によって築き上げられてきたのであれば、
すべての人そのものの価値も、その尊厳性も、
率直に、ふつうに、おたがいに認められなければならないのではないだろうか?

それでは、グローバリズムを 《 解体 》し、
おたがいの尊厳を回復させる道は、どこに求められるのか?・・・

それは、
世界的には、「反グローバリズム宣言」(固有文化の尊重、反投機 )であり、

国内では、
「既成の制度をくつがえして、あらたな価値意識を共有する」ことから、はじめることであろう。

個々の尊厳を回復するために、

育児・教育・医療・食料の分野において、

その意義を根底から問い直し、既存の思考を転倒、克服し、

あらたな価値をうみだしていくことが、

いま、ほんとうに求められている内需振興政策でもある。

(以前のブログ「非正規社員解雇のグローバル思想・続」ならびに「異常報道メディアと草薙剛くん」もぜひご参照ください。)

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