アセンションや日月神示など

タイトル通りです。特異な能力の持ち主というわけではないですが、考えるところを綴りたいと思います。

2012年10月22日は旧暦9月8日

2012-10-19 17:11:35 | Weblog
久々の更新となりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今月22日は旧暦の9月8日に当たるようですね。
『旧9月8日』とは、日月神示によく出てくる日付です。
それが本年では、10月22日に当たります。
私には数字の謎解きはできませんが、『十』(10)や『二十二』(22=富士)も神示によく出てきます。
また来年は伊勢神宮や出雲大社で、遷宮が行われるようですね。
ご存知のマヤ暦では2012年12月21日でその暦が終わっている、とあります。

各々の情報の信憑性は皆様ご自身で測っていただくとして、
主観的には、この時節いかにお感じになられ、日々の生活を送られているでしょうか。
私の事を申し上げれば、従来通り、日常を経済的に支えなければと会社勤めする一方、
アセンションや神示に関わって行動を起こしている方々に、
実際に会わなければという気持ちが、はっきり出てきました。
自分の『ハラ』は決まっているつもりですが、それは受動的な意味が主であり、
危機に際しても『霊止』(人)であり続けようという信念です。
いざとなったらどうすることやら・・・という感情は、他人に対して抱くところであり、
私もそう思うところが無いわけではありませんが、
先ず自分自身(身=心=信=真=神)がどういう意志を持ち、どう行動し、
どういう風に世界を創っていくのか、その主体性が肝要と思われます。
私は過去の苦い記憶の一つに、自分が身勝手で独り善がりな振る舞いを重ねた挙句、
当時に属していた集団や組織、親族や周囲に少なくない迷惑をかけただろうということがあります。
その当時と比べて今は、人として、多少なりとも確実に変われたという感慨があります。
周囲に迷惑をかけ続けていた当時は、同時に自身が地獄を味わっていた時でもありましたが、
それと比べ今は、日々しんどいことがあったとしても、明日に希望を抱いて向上心を持てる日々でもあります。
そういう状態の中で現在は、独立就農を目指しつつも、農業とは無関係な仕事で生活の糧を得ております。
そして、そんな毎日を過ごす内に、自身の若干曖昧だった部分にも、
よりはっきり向き合うべきかという気持ちになってきました。

私は、今皆様が目にされているような、インターネットを通じての、匿名のブログにより、
ほぼ一方的に、自分の思いを気まぐれに語るものでしかありませんでした。
それから一歩踏み込んで、従来の常識から考えれば荒唐無稽と思えるような感覚を
他者と共有しようとすることには、正直恐怖心を感じてしまいます。
厳密にいえば、いわゆる恐怖心とは違うのかもしれませんが、気軽でないことは確かです。
ですが、この時節に前向きに対している方々がおられる一方、焦燥感に駆られている方達もおられるように感じます。
それこそ話半分に聞いていただきたいですが、『霊がかり』の極まった方達はそのようだと思われます。
私の生きる環境の中にもそう思われる御仁がおられますが、
ちょっとどうなんだろう・・・と、あまり表現したくない挙動を示されているように感じています。
社会に対しての、より積極的な(そして地道で確実な)活動に参加したいという選択は、
そういう状況で自身を護りたいという気持ちが先にあるという動機から、というほうが妥当なのかもしれません。
あまりにも価値観?が違う方達と、日々、身近に向き合うのは相応にストレスがたまります (;´д`)
過渡期にあたり、私個人の信念と真逆の感覚を持つ何かと衝突し続け、消耗し続け、
そのことが思考や行為の中心になってしまうかのような日々の生活のリズムを整え、流れを変え、
自身の意志に沿った軌道に正すべく、より価値観の近いと思われる方々との交流を求め、
協力し合える関係を築き、より信頼できる方々との時間が生活に加えられれば、と想っています。

マヤカレンダーや日月神示にとっては今は時節でありますが、
焦って予言や霊能者を求めるような行動は、いかがなものかと思います。
日月神示も結局は予言といえなくもないでしょうが、
しかし神示に書かれている、このような行いをせよという言葉に対して、
何の実践もなく、ただただ災害の日時を知る事や一方的に恩恵を受ける事ばかり探そうとすれば、
偽者に外道へ誘導されてしまうように思います。
現代的な感覚に「自由と責任」、「権利と義務」というものがあろうかと思います。
日月神示に書かれている内容と必ずしも合致しているとはいい難いかもしれませんが、
『悪平等』というキーワードとは、関連する感覚であると考えます。
私はもう40代になりましたが、この歳になって「身のほどを知る」「分相応」という感覚を分かりつつあるつもりです。
「無知の知」「汝自身を知れ」という言葉は、過去の記事にも挙げていますが、
これらも関連する感覚、というか気づきであると思います。

最近、近隣国と領土をめぐるトラブルが発生していますが、経緯を長期的スパンで見る時、
相手国が行為の根拠とするところの事もあるように思いますが、
こういうタイミングで、こういうやり方で干渉してくるだろうかという思いは禁じえません。
いずれも事の核心は、相手国政府の内政事情にあるようですが・・・。
国というものを一人の人格に置き換えれば、このような人間関係は
実際の社会のそのものの人間関係にもあるように思います。
基地の場所や新型飛行機の配備の問題が生じている国や、最北の領土問題が横たわり続ける国との
関係も楽観できはしませんが、先ずは何より自身のこと、自身の周囲や地域のこと、自身の社会国家のことです。
神示にも書かれているはずですが、それを優先することが強みです。
自身の潔斎があり、物事の判断基準が定まり、世界を精確なものさしで測ることが可能になります。
真があれば、神が現れると思います。
決意は他人にどうこう言うものではなく、自身の胸に手を当てて己に誓うものです。
私自身の行く先がこれからどうなるかなどと、絶対的に見極められることはありません。
私は人間的な多種多様さを否定する気はないですが、それでも許容範囲を超えるような行いは、
度を過ぎた甘えは、自由があっても無責任、権利は主張しても義務は果たさない態度は、
許されないと思っています。
ただ、誠実な行いには、必ず報いがあると信じています。
その報いは穏やかで、たいへん大きいため、気づきにくいかもしれません ( ´ー`)







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