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思い出ボロボロの再会 【気まま連載】帰ってきたミーハー婆㉘

2021-12-10 05:00:03 | 【気まま連載】帰ってきたミーハー婆

【気まま連載】帰ってきたミーハー婆㉘

思い出ボロボロの再会

岩崎邦子 

 


 スマホの電話の呼び出しコールが鳴った。見れば、まさかのK子さんだ。もっぱらメールでのやりとりだったのに…。嬉しくなって、「はーい、K子さぁん」と、飛びついた。「久しぶり、久しぶり!」
 彼女は私とは一回り以上も若い人だが、知り合ったのは15年も前? いや、もっと前になるだろうか。きっかけは、パソコンのサークルのようなものを都内某所で、という新聞のお知らせ版を見てからになる。
 パソコン操作には全く自信が持てないので、何かを教わることが出来るのではないだろうか。そんな思いがあった。
 お知らせを出した主は、一人暮らしの爺様。家の中には古いデスク型のパソコンが何台もあったが、全く使われていない様子。すっかり期待外れであったが、そこでK子さんと出会ったのだった。
 それからは、爺様もパソコンのことも、そっちのけで、気の合う人たちと時々会うようになった。男性の方が多くて女性はK子さん、Eさん、私と3人であった。
 Eさんは、確か私より年上だったが、英語の勉強に熱心な上品な人であった。K子さんも英語を話すことに努力をしていた。そんな中、私は全くの落ちこぼれであったが、娘がアメリカにいることで、話の端々から出る事柄などに、興味をもってくれていたのだろう。
 何かと理由を付けては会う機会を作ってくれたのは、男性のSさん、Оさん、それにYさんたちだったのだろう。
 会えば話が弾むが、私は夕方5時には、家人に叱られるわけでもないのに家に向かう電車に乗っていた。
 と、殊勝なことを言っているが、「私は二日酔いになったこともないし、言ったことも、場面も覚えている」などと、豪語、いや失言をしたことがあった。ならばとばかり、5、6人で飲むことになってしまった。
 私は「飲める」と言っても、ビールかワインであって、他のお酒類は「ちょっと~」であった。しかし、何とか酔わせてやろうと企まれて、日本酒やテキーラとか、とにかくチャンポンを強いられてしまった。さすが、トイレに立つときは、壁に手をそえて歩くことになったが、皆のちょっと意地悪な話も笑ってやり過ごせた。
 帰りの駅に向かう階段では、流石に心配されたが、無事に我が家へとご帰還!あくる朝の目覚めも平常だった。今思えば、あの頃は若かったんだなぁと、その時の無茶が懐かしい。
 一歩家を出たら、最後の飲み会まで付き合えるK子さんは、頭も良く豪快で気風も頼もしい人である。仲間の中に生粋の浅草生まれのNさんがいて、三社祭のときにご自宅にお呼ばれしたことがあった。
 お祭りのご馳走は、「遠慮は禁物」とか言われ、どんどん食べることが礼儀でもあるかのように、エプロン姿の年配の女性が、にこにこと対応してくれた。下町ではこれが当たり前のことなのか分からないが、私には驚きであった。
 楽しかった思い出は、何といってもK子さんが所有している猪苗代の別荘に誘われて、何度か行ったことである。彼女は大宮が住まいなので、そこが集合場所になって車で出かけた。
 メンバーはK子さん、Sさん、私。その他は、時々の都合でメンバーが決まった。後追いで違う車で来る人たちもいた。途中でランチを摂るが、アルコールに関して、私は飲まなくても平気なので、そこからは私が目的の猪苗代までハンドルを握ることに。
 食料を買い込み、お気に入りのアルコールも調達、夕餉はワイワイと皆で作った事を思い出す。翌朝は奇麗な澄んだ空気の中、タラの芽を摘みに行ったりもした。
 それから、しばらくして、K子さんのご主人が亡くなった。まだ、60歳少し過ぎたばかりらしい。その後に会った時の彼女の言葉には驚くばかり。健気。豪快。そして呆れも。
「邦子さん、親戚や近所の人には言えないけどね……朝起きたら」と、前置きをし、「あ~、私は自由だ、自由だ。もう、何にも束縛されていない!と、心の底から叫ぶの」
 そこで私は返す。
「あらぁ、一度家を出たら、鉄砲玉のように自由に飛んで行ってたのに?」
 しっかり者の彼女だったが、その土地か家の事情か、複雑なことに縛られていたのかもしれない。ご主人には出来るだけの医療を尽くし、看護をしていたことだろう。それは分かっていたのだが……。
 お互いに何かと忙しくなって、会うチャンスが無くなって何年かが過ぎた。そんな折、Оさんからメールがきて、
「K子さんとSさん、一緒に暮らしているよ」
 と、教えられた。
「良かったね! お互いに独り身なんだからさ」
 そう返事を入れたが、K子さんにはそっとしておいた。
 あれから何年経ったのだろう。Оさんからのメールには、Sさんが亡くなったと書かれてあった。そっかぁ……。K子さんには「会いたいねぇ」とのメールだけは送った。彼女はたくましい人だ。人望もあって忙しくしているに違いない。
 ここ2年程は、誰もがコロナ騒ぎで自粛生活をしてきているが、その脅威にたいしては「正しく怖がること」であって、委縮して何も行動をしないことも忌々しいことだ。
 K子さんからの電話で、お互いの身に合った暮らし方をしながら元気で暮らしていることが確認できた。
「邦子さん、出て来られる? 会おうよ」
「うん、ぜひ、ぜひ会いたいよ」
 といっても、我が家から電車で出かけて分かるのは、銀座か浅草で、いくらトレンドな街だと言っても、新宿や渋谷は、チンプンカンプン。あまりにも町の様相が変わっていることが、ニュースで知らされている。
 久しぶりの白井からの10時近くの電車内は空いていて、誰もがマスクをしており、耳にはイヤホンをしている人の多いこと! 私は樋口恵子の本をバッグに入れてきた。老いの生き方が書かれたもので、短い項目別になっているので、肩が張らない。
 出かける時、夫は「走るなよ! 転ぶなよ! 駅ではエスカレーターを使え!」と、面倒くさいことこの上ない。素直になれないのは、なぜかなぁ? しっかりと、どの駅でも階段を利用することにした。
 久しぶりのお上りさんとなって、銀座4丁目辺りを歩くが、三越も和光も三愛も日産もある。我が身に縁のないブランド品の店やリニューアルしている店もあったが、ほっとさせられる街並みだ。
 目指すお店の前には、すでにОさんがいる。
「お久しぶりです」
 と、声をかけると
「えっ…若いねぇ、変わらないねぇ」
 さすが、営業マンをしてきた人だと感心してしまう。
 やや、遅れてK子さんが渋いピンクのベレー帽をかぶって、元気で晴れやかな笑顔で現れた。さすが若い!
 イタリアンのランチを頂きながら、K子さんは何枚かの写真を見せてくれた。
まず、Sさんの笑顔が写ったものだった。長くやもめ暮らしをしていたSさん。その生活ぶりを見かねて、一緒に暮らすことを提案したのだという。
 以前のK子さんの家を建て直し、リビングの大テーブルを一枚板にしたこと。そこでは、それぞれの子供たちとの賑やかな食事風景の写真もあった。二人で1カ月ほどヨーロッパのあちこちの国をレンタカーで回った事や、猪苗代でスキーを何回もしたことや、食通だったので、料理をよく一緒にしたとか。
 写真と細々した話は、過去に楽しくすごした仲間のОさんと私への報告のつもりだろう。Sさんが患って、人工透析が始まってすぐに容態が悪化したのだという。出来るだけのことをしてきたことも話された。二人は、いやSさんは、なんと幸せな日々を過ごせていたことか。
 K子さんの報告はまだあった。英語好きのEさんは施設に入って暮らしているとか。後々に知り合って仲間となって遊んだことのある人で、うんと若かったR子さんは、何か不動産関係のトラブルに遭ったらしく、全然連絡がとれないらしい。そんな心配になる話もされた。
 K子さんは、今も英語の勉強をネイティブの講師を自宅に招いて学び、放送大学のリモートが楽しいとか。次から次と前向きな姿勢に頭が下がるばかりだ。Оさんも私も近況を話す場面もあったが、ま、元気で病気らしいものは、ないことだけが、確認できた。
 また会う機会は、きっとあるだろう。一人で元気に歩けるうちに、と願いたいものである。

 

【岩崎邦子さんのプロフィール】 

昭和15(1940)年6月29日、岐阜県大垣市生まれ。県立大垣南高校卒業後、名古屋市でОL生活。2年後、叔父の会社に就職するため上京する。23歳のときに今のご主人と結婚し、1男1女をもうけた。有吉佐和子、田辺聖子、佐藤愛子など女流作家のファン。現在、白井市南山で夫と2人暮らし。白井健康元気村では、パークゴルフの企画・運営を担当。令和元(2018)年春から本ブログにエッセイ「岩崎邦子の『日々悠々』」を毎週水曜日に連載。大好評のうち100回目で終了した。


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