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《注目の書籍》 大学院特別研究生の[糎波電探]開発―霜田光一の海軍戦時研究

2021-11-14 17:05:33 | 書評

《注目の書籍》

大学院特別研究生の[糎波電探]開発
霜田光一の海軍戦時研究

餘家清 著

私家版(非売品)

 


昭和18年(1943)年、東京帝国大学の一学徒、霜田光一が大学院特別研究生として海軍技術研究所へ。海軍のレーダー開発に従事することになったのだ。霜田は研究成果を大学ノートに克明に書き記す。敗戦後もノートが焼却処分を免れ、市井の研究者の手に渡る。そのノートと霜田本人への取材で、当時のレーダー研究の一端が今明らかにされる!

▲『大学院特別研究生の[糎波電探]開発――霜田光一の海軍戦時研究』

 

 一冊の本が送られてきた。私家版で非売品だという。書名は『大学院特別研究生の[糎波電探]開発――霜田光一の海軍戦時研究』。「糎」はセンチメートルのことなので、マイクロ波なのか。「電探」はレーダーだから、「糎波電探」とは「マイクロ波レーダー」のことなのだろう。著者は送り主の餘家清さんだった。ああ、やっと本になったのか。嬉しい驚きであった。
 餘家さんと知り合ったのは、もう40年以上も前になろうか。私は当時、朝日新聞社が発行している医学専門誌の編集部で嘱託として働いており、凸版印刷の社員だった餘家さんもその雑誌に関わっていたのである。その後、フリーの物書きになったので、餘家さんともほとんど会う機会がなくなったのだが、年賀状やメールのやりとりだけは続けていた。だから、餘家さんが私的に帝国海軍の「電探」について調べていることを知っていたのだ。
 本の「はじめに」を読んで驚いた。なんと主役の霜田光一は餘家さんの岳父なのである。霜田の略歴をざっと見てみよう。大正9(1920)年、美術評論家で心理学者の霜田静志の長男として生まれ、昭和16(1941)年に東京帝大物理学部に入学、2年後には大学院特別研究生に選ばれて海軍技術研究所の糎波電波探信儀(帝国陸軍は「電波探知機」と呼んだ)と電波探知機(逆探)の受信機開発に従事する。
 そのときの研究を、霜田は大学ノートに毎日のように書き綴っていた。「極超短波(Ⅰ~Ⅵ)」である。もし軍人だったら終戦時にそれらの資料類は焼却されていたにちがいない。しかし、上司が霜田の身分を「海軍嘱託申請中」にしてくれたので、無事に持ち帰ることができたという。大学ノートの他にも、講演記録や日記なども残っていた。こうして、餘家さんの聞き取り調査にも的確に答えることができたというわけだ。
 他の科学者たちの研究も併せて調べ上げて一冊の本にまとめた。「電波探信儀開発の歴史」「科学者・学生を動員した開発」「射撃電探と鉱石スーパー受信機」「霜田のアメリカ軍レーダー調査」「大戦末期の各種電探開発と霜田」の5部構成。270頁だが、A4版だから普通の単行本よりも分量がぎっしり詰まっている。文章だけでなく、研究ノートに描かれた図や当時の写真などもふんだんに掲載されているので、軍事技術史としては第一級の文献と言えるだろう。しかし、この種の本にありがちな堅苦しい内容ではない。

▲研究ノートに克明に記録した霜田光一


 日米開戦の数年前、アメリカから日本の軍部にレーダーの売り込みがあったが、日本側は消極的だったという。昭和19(1944)年に長崎を空爆したB29が海に墜落し、数体の遺体と残骸が引き揚げられた。搭載レーダーを分析したところ、アメリカ側の技術が勝っているのを知って愕然としたとか。また、米乗組員の遺体は読経のうえ地元の墓地に仮埋葬されたといった貴重な情報や逸話、それに餘家さんのコラムも随所にあるので、読み始めると止まらない。ついつい時間を忘れてしまう。
 さて、念願の本を書き上げた餘家さんは今、どう感じているのか。書籍に同封されていた「謹呈」の手紙には、こんな文章が綴られていた。
「わが国海軍の首脳陣には残念ながら当初より電探が必須であるとの認識がなく、そのために必要な基礎研究、技術の開発や蓄積を行えず、結局後追いとなり、実力不足で戦争に役立つタイミングで射撃用電探を開発できなかったというのが私の結論です」
 基礎研究に重きを置かないのは、現在でも変わりはないようである。いや、もっと酷くなっているのかもしれない。文部科学省科学技術・学術政策研究所は令和3(2020)年9月に「科学技術指標2020」を公表した。それによると、以下の問題点が浮かび上がる。

■基礎研究や博士人材活用の観点から見た日本の企業の研究開発
・企業の「基礎研究」の研究開発費は増加傾向。医薬品製造業が最大、輸送用機械器具製造業で増加。
・米国と比べて、日本は企業の研究者に占める博士号保持者の割合が低い。
・製造業で博士号保持者の新規採用が増加。非製造業では停滞。
・日本の大学と民間企業との共同研究にかかる受入額と実施件数は急速に増加。
■日本の大学の学生や研究者の動向
・社会人以外の博士課程在籍者が減少している一方で、社会人博士課程在籍者は増加。
・男性研究者よりも女性研究者の方が人気有り研究者の割合は高い傾向。
・世界では約420万人の学生が、出身国・地域とは違う国・地域で、高等教育を受けている。日本は、送り出している学生(全体の0.7%)、受け入れている学生(全体の3.4%)のいずれも多くはない。
■科学と技術のつながり、技術と新製品・新サービスとの関係
・日本の技術(特許)は他国と比べて科学的成果(論文)を引用している割合が低い。日本の科学的成果(論文)が日本の技術(特許)に、十分に活用されていない可能性。
・世界では国際共同しているパテントファミリー数が増加。日本は国際共同しているパテントファミリーの割合が、主要国の中で最も低い。
・日本は技術に強みを持つが、それらの新製品や新たなサービスへの導入という形での国際展開が他の主要国と比べて少ない可能性。
 
 大学院で博士課程を修了しても、彼らのほとんどがちゃんとした就職口が見つからない。運よく大学に残って研究職に就くのは、ほんの一握りだ。そんな彼らにしても、目に見えた成果を出しにくい基礎研究は避けたがる。予算を獲得しにくいからだ。どうしても、実践的な応用研究を選ばざるを得ない。このままではノーベル賞を受賞する日本人は数年に一人かもしれないと指摘する声もあるほどだ。
 しかし、困ったことに、応用研究でも日本は世界から後れを取り始めている。とくに世界各国が血眼になって研究に乗り出している人工知能(AI)研究で日本の出遅れが目立つ。日本が2018年度予算案に計上したのは、たったの総額770億4000万円である。アメリカの5000億円、中国の4500億円と比較すると、大きく離されているのがわかるだろう。
 餘家さんは戦時中の電探研究を、霜田光一という人物を通して追跡し、基礎研究の大切さを訴えた。それは戦中の話ではあるが、基礎研究をないがしろにしつつある現在日本への警鐘でもある。

▲霜田光一氏の近影(令和3年8月4日撮影)


 ところで、霜田光一の戦後が気になるところだ。その軌跡をざっと見てみよう。昭和23(1948)に東大理学部助教授を皮切りにコロンビア大学博士研究員、東大教授、理化学研究所主任研究員(兼任)、マサチューセッツ工科大学(MIT)客員教授、独シュトットガルト大学客員教授、理化学研究所名誉研究員、東大名誉教授、慶応大学理工学部教授、東京都立科学技術大学客員教授を経て平成4(1992)年に退職した。日本学士院会員。
 郵政大臣表彰、第14回東レ科学技術賞受賞、米国光学会第9回C.E.K.Mees Medal受賞、第70回日本学士院賞受賞、勲二等瑞宝章受章、レーザー学会功績賞受賞、文化功労者顕彰、レーザー技術総合研究所泰山賞・レーザー功績賞を受賞するなど華々しい功績を遺す。令和3年現在、なんと101歳。ご健在である。(本ブログ編集人・山本徳造)
 
【餘家清さんの略歴】
昭和24(1949)年、愛媛県大洲市生まれ。松山南高等学校砥部分校デザイン科から東京造形大学へ。卒業後、凸版印刷株式会社に入社、社史編纂・医学雑誌編集・地方百科・ニューメディアの事業化、フィリップス社(オランダ)との合弁会社・DVDプレス事業販促などを担当。定年退職後、㈱シード・プランニング主任研究員、医療団体事務局を経て令和元年(2018)に退職。電子会世話人、海軍電探史編纂委員会委員、島田近代遺産学会会員、水交会会員、愛育心理研究会世話人(A.S.ニイル=霜田静志の自由教育推進)

【お問い合わせ】
同書についてのお問い合せなどは、餘家さんへのメールでお願いします。
yoke@kmj.biglobe.ne.jp
 

 


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