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アンソニー・トゥ回顧録⑧最終回  脳裏に刻まれた空襲の光景 ふたたび終戦前後の台湾について

2024-05-09 05:30:20 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

2024-04-19 「The News Lens」
アンソニー・トゥ回顧録⑧最終回

脳裏に刻まれた空襲の光景 ふたたび終戦前後の台湾について

 

杜祖健(Anthony T. Tu)

 

筆者紹介 

台湾出身の米国の化学者。コロラド州立大学名誉教授。1930年、台北市生まれ。 日本統治下の台湾で初の医学博士となった杜聡明氏の三男。台湾大理学部卒後、渡米。ノートルダム大、スタンフォード大、エール大で化学・生化学を研修。ヘビ毒研究を中心に毒性学および生物兵器・化学兵器の世界的権威として知られ、松本サリン事件解明のきっかけを作った。「毒 サリン、VX、生物兵器」(角川新書)など著書多数。


【注目ポイント】

日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、日本の統治下に置かれた。戦前から戦後にかけて台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、米国で世界的な毒性学の権威となった杜祖健(アンソニー・トゥ=Anthony Tu)氏。日本の松本サリン事件解決にも協力した台湾生まれ、米国在住の化学者が、連載のコロラドでの闘病生活のなか、連載の締めくくりとして再び終戦前後の体験をつづった。

 


3つの国籍を得た人生

私が生まれた1930年の台湾は日本統治時代であった。言い換えれば当時の台湾は日本領土の一部であったため、出生時の国籍はと言えば、当然日本人なのである。自分でも自分が日本人以外の国籍であるとは考えたこともなかった。これと同様に、同じころ朝鮮もまた日本領土の一部であり、朝鮮総督府が統治していた。結局私は日本国籍→中華民国籍→米国籍と3つの国籍を得ることになったのだ。

話を台湾に戻すと、この当時は人口が約600万人。


当時台湾は日本内地から来た日本人のことを「内地人」と呼んでいたが、その内地人は約30万人だった。


▲日本統治初期の西門。1905年に取り壊されたが市民の反発を招き、残る北門、東門、南門、小南門の4門は撤去を免れた(筆者提供)


日本統治時代の50年、日本は台湾において近代的な都市基盤をいろいろと整備し、台湾の文化も大きく発展し、生活様式も現代化した。これらが日本統治のおかげであることは否定できない事実である。

1937(昭和12)年の盧溝橋事件を機に拡大した「支那事変」を経て1941年、日本は英米との戦争に突入した。緒戦は連戦連勝で、少年時代の私は日本の強さに感心した。いや、これは私だけでなく当時の大方の感想であった。

父も英米に対して互角以上の戦いを展開している日本は偉い、とその強さに感心した。しかし1942年5月のミッドウェイ島攻略に失敗して以降、日本は守勢となり、徐々に物量に優るアメリカに抑えこまれ、そのうちに戦火は日本内地に接近し、1945年以降の日本内地の都市部はほとんど毎日のように米軍機の空襲を受けるようになった。


台湾も例外ではなかった。一番ひどい攻撃を受けたのは1945年の5月31日であったが、この大空襲をはじめ、台湾が受けた空襲について私は2021年、日本の雑誌「丸」12月号に詳しく記した。

 
小学一年生で初めて空襲を体験

実は台湾への空襲は、実は日本が米英と開戦する前から始まっている。

それは私が小学一年生だった1938(昭和13)年2月23日のことだ。

校内にいたところ、突然大きな爆発音が聞こえ、同時に校舎の窓ガラス震えた。みな何の爆発音かと思ったが、やがて教室では普通に授業が始まった。しかしその後、空襲警報のサイレンが鳴り、私たちはすぐに帰宅した。

これはソ連義勇軍と中華民国空軍第1大隊による台北・松山飛行場に対する空襲であり、日本領地内への初めての爆撃でもあった。

なぜソ連義勇軍と中国空軍が台北を爆撃したかというと、日本軍による中国への空襲への報復のためであった。

1937年の盧溝橋事件を機に始まった「北支事変」は第二次上海事変を経て「支那事変」に拡大。中国大陸で戦闘を展開する日本陸軍に海軍も呼応して航空部隊による中国各地への爆撃を行う必要が生じた。


しかし事変後の初期段階は日本陸軍も海軍も大陸に航空基地がなかった。そのため九州、済州島と台北から飛び立ち戦闘機の護衛なしで爆撃機だけによるいわゆる渡洋作戦を始めた。

台北の松山飛行場に進出した鹿屋海軍航空隊は中国爆撃のため1837年8機で松山飛行場より飛び立った。8月15日には14機、同16日には6機で中国各地を爆撃した。

当時私は台北市立樺山小学校の1年生であり、学校の屋上から皆生徒たちは爆撃に出発した飛行機に手を振って見送ったのを覚えている。

これに対する台北への報復攻撃は、ソ連義勇軍と中華民国空軍第1大隊のSB爆撃機28機によるもので、彼らは中国江西省南昌から飛び立ち、高空から台北を奇襲。松山飛行場に各機が50キロ爆弾10発ずつを投下した。しかし高空からの投下であったので、爆弾は飛行場に命中せず、無慈悲にも付近の農家で数人が爆死した。

後日、私は母と一緒に被害を受けた農村を訪れた際には、多くの日本人が被害を受けた農家に見舞金を寄付しているのを見た。

2005年に北京を訪れたとき、中国の薬物研究所の所長から「どこか見たいところはあるか?」と聞かれたので、私は「北京は何回も来ているので名勝地よりも盧溝橋近くにある中国人民抗日戦争記念館を見たい」と言った。入館すると67年前に台北を襲った爆撃機の乗員らの写真が展示されており、驚きをもって少年時代の体験を回顧した。


▲日本統治初期の小南門。門自体は日本統治時代を通じて撤去を免れたが、上部構造物は戦後国民党政権によって建て替えられた(筆者提供)
 

脳裏に鮮明な1944年の空襲

1941(昭和16)年12月の、日本軍による真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発したが、しばらくは台北への空襲はなかった。しかし1944年になるとフィリピンを占領した米軍による台湾各地への空襲が始まった。空襲は台湾南部の都市から始まり、最後に台北や基隆も爆撃を受けるようになった。

次第に激しくなる空襲に台湾も疲弊し、内地同様、都市部に住む多くの住民たちは田舎へ疎開するようになり、我が家も台北北郊に位置する北投に疎開した。

小学生で初めて体験した空襲よりも、長じて体験した1944(昭和19)年10月12、13、14日のハルゼー提督による台湾大空襲や、1945年5月31日の台北大空襲の方が脳裏により鮮明に刻まれている。

このうち1944年10月の空襲は、米航空母艦から発進した艦載機による空襲だった。台北のみならず台湾全島にある飛行場が攻撃されたが、私は台北の状況しか実見していない。それ以前は、空襲警報は時々あったものの、実際の空襲はなかった。

当時、私は台北一中の二年生。空襲のサイレンが鳴ると授業はただちに中止となり、学生は下校させられるので、サイレンが鳴ると皆大騒ぎをして喜んだものだが、担任の先生は、「敵機が来るのに何がうれしいのか」と一喝し、学生たちはたちまちおとなしくなった。

10月の台湾空襲は朝8時から警報が鳴ったのだが、今までとは違った時間であった。サイレンには2種類あり、ひとつは敵機接近を告げる警戒警報で、もうひとつは敵機来襲を通知する空襲警報だった。このときはこの2つのサイレンの間隔が非常に短く、30分位であったように記憶している。

12日の空襲は朝8時半から午後4時ごろまで続いた。このとき私は初めて米軍機を肉眼で見た。日本の戦闘機も飛び立って応戦したが、空をながめるのは危険なので、庭の防空壕に隠れていた。園芸好きの父は庭に奇麗な花畑を作っていたのだが、それを壊して頑丈な防空壕を設けたため爆弾の直撃を受けない限りは安全であった。

事実翌、1945年4月に米軍機の夜間爆撃を受けた際、爆弾は我が家の塀に命中し、塀から玄関まで破壊された。防空壕は塀と玄関の間にあり、直撃場所からわずか1メートルの距離だったのにもかかわらず、壕に損傷はなかった。父が作らせた防空壕はそれほど頑丈であった。

1944年10月の空襲に話を戻すと、日本の高射砲が米軍のグラマン機を狙い撃ちしていた。空には破裂した高射砲の爆発が白い煙となり、あたかも空に綿の塊が浮かんでいるかのようであった。

高射砲は敵機を撃墜するためにあるのだが、たいていは当たらずその破片はやがて地上に落ちる。破片にあたれば致命傷を負う可能性もあるため、上空での米軍の飛行機を眺めるのは危険なのである。

防空壕の中で怖いのは、米軍機を撃つ日本軍の機関砲の音で、タター、タターというものすごく大きい連続音である。高射砲の場合は遠いところで花火が爆発するような小さい音しかしないので、聞いてもそんなに恐怖感がなかった。

このとき当局からの命令で木の枝を折って燃やし、市街地全体に煙幕を張ったのをよく覚えている。ただ米軍の主目的は市街地よりも飛行場などの軍事施設の破壊なので、煙幕はさほど役に立つとは思えなかった。

台北の北約20キロに淡水という町がある。淡水河が台湾海峡に流れるところで、日本海軍の水上飛行機基地があった。水上機が水面を滑走して飛び立つ瞬間を何回か見たことがあるがなかなか壮観であった。だが、このときの空襲で徹底的にやられ、以後は水上機の発進を見なくなった。

淡水では米軍機の機銃掃射もあったと、そこに住んでいた親戚から聞いた。淡水には清朝時代に作られた要塞があり、太平洋戦争中台湾に移った関東軍がそこに駐屯していた。米軍が台湾を攻略する際は淡水が上陸地点になると想定していたのである。

この空襲の背後では、「幻の戦果」で知られる台湾沖航空戦が展開されていた。当時の米海軍司令官はニミッツ提督で、マッカーサー大将らのフィリピン・レイテ島上陸を援護するため正規空母9隻、軽空母8隻、戦艦6隻、巡洋艦14隻、駆逐艦58隻、給油艦3隻という大艦隊で、1400機近い艦載機を用いて空襲にあたったのだが、九州、沖縄、台湾の航空基地から迎え撃った日本側の大本営発表では、航空母艦、戦艦、巡洋艦計15隻撃沈、戦艦や航空母艦など28隻撃破という大戦果だった。

当時台湾ではこの発表を信じて、日本はすごいなと思ったりした。大戦果を祝うため台湾沖航空戦の軍歌まで作られた。しかし、実際には米艦隊の損害は軽微で、空母1隻小破、巡洋艦2隻大破のみであり、レイテ湾上陸にも成功。開戦以来熟練パイロットの多くを失っていた日本側の損害は大きく、戦果も誤認が多かったという。フィリピンを奪還した米軍は以後、台湾への空襲を日常的に行うようになった。

 
そして5月31日、台北大空襲

私は毎年、自分のスケジュール帳の5月31日の欄には「台北大空襲〇〇周年」と書いている。今年5月ですでに79年前の出来事になるが、私にとっても、多くの台湾の人にとっても忘れられない日なのである。

1944年10月は米艦載機による空襲で、初めてグラマン戦闘機を見たが、1945年5月の大空襲では爆撃機B24が主力で、それらを護衛するP38戦闘機を初めて見た。

当日は午前10時段階でかなり暑かった。もう台北は危ないというので、父は台北北郊の北投や、さらに北方の三芝庄(現新北市三芝区)に疎開先を用意してくれた。父の職場である台北帝大も台北西郊の大渓(現桃園市)に疎開しており、私も通学用の北投の部屋で過ごすことが多く、時々は三芝庄の家にも行っていた。

その北投で午前10時、ラジオ放送を耳にした。「台湾軍司令部発表。敵機多数は台湾海峡を北上中なり、台北は警戒を要す」。これを聞いてすぐに注意しないといけないと思っていたら、空襲警報のサイレンが鳴った。

サイレンが止むと同時に、いきなり聞きなれない飛行機の爆音が聞こえたので、すぐ庭に出てみた。胴体が二つの、見たことのない戦闘機が猛スピードで低空のまま私の頭上をかすめて行った。これが初めて見たP38で、米軍機の空襲だと知った私はすぐに鉄兜(ヘルメット)と双眼鏡を持って付近の丘に行った。

B24の大群は台湾海峡から淡水河に沿って台湾島に侵入し、私のいた北投上空から台北に向かって行った。大編隊のB24は初めて見る米爆撃機だった。日本軍機と違って機体に迷彩色はなく、ジュラルミンの地肌のままなので太陽光を反射し、まぶしくなるほど鮮やかであった。

ほどなく台北は黒煙に包まれ、その光景よりほんの少し遅れて鼓膜が破れそうなものすごい爆撃音が聞こえてきた。B24の大編隊の上下と左右に高射砲の破裂した茶色の煙が綿のように空中に浮かんでいたが、なかなかB24を撃墜することはできなかった。

ちょうどこの日は朝から母と弟の祖信が何かの用事で台北に行っていたため心配になり、米軍機が見えなくなった午後3時ごろ、台北に母と弟を探しに行った。最初に父のいる台北帝大医学部に行ったところ、解剖学教室の建物は全部破壊されており、薬理学教室も窓ガラスは木っ端みじんの状態で人影がなかった。

私は日本人繁華街、城内に向かおうとして、大学病院を通った。精神病棟が爆撃ですっかり壊されていた。商店街近くの新公園(現二二八和平公園)の地面は爆弾による穴だらけで、園内の防空壕は跡形もなかった。

台湾銀行を覗いてみると2階フロアがすっぽり落ちて、紙幣がいっぱい散らばっていた。すぐ隣の台湾総督府(現総統府)は爆弾と焼夷弾でやられ、音を立てて火炎があがっていた。徹底的にやられた台北の繁華街を後にして北投に戻ったところ、入れ違いに戻っていた母と弟の姿を見て安心した。母は父の薬理学教室の階段の下に隠れていたが、爆弾の破裂でビル全体が大きく揺れ、今にも壊れそうなので生きた心地がしなかった、と語っていた。


疑われた米人教師

米側の記録ではこの日はB24が200機で高度3000メートルから爆撃し、P51とP38戦闘機が護衛。日本側は飛行機を温存するため高射砲のみで迎え撃った。

当時台湾では、この大空襲は以前台北高等学校で英語を教えていたアメリカ人教師のジョージ・カール先生が指揮したのだろう、と噂された。台湾に住んでいたアメリカ人は米国領事館関係以外ではカール先生くらいであった。

その噂の根拠は、彼の教えていた台北高校は無傷であり、彼が兼任で教えていた台北一中はひどくやられていたためである。カール先生は台北一中の日本人教員に侮辱され殴られたことがある、という噂があった。また台湾人居住地区はほとんど無傷なのに対し、日本人の商業地区や総督府、軍司令部等はやられており、こんなにピンポイントで爆撃できるのは台北の街に相当詳しい人が指揮したに違いない、と思われたのだ。

1956年、私がスタンフォード大学で勉強していた時、カール先生がスタンフォード大フーバー図書館に勤務していると聞いたので、電話して会いに行った。彼は私を見るなり、「君はお父さんに似ている。お父さんは元気か」と気さくに声をかけてくれた。私は単刀直入に「1945年5月31日の台北大空襲は先生が指揮したのですか」と聞いたところ、彼はただ微笑して何も言わなかった。

彼は「台湾の空襲はみなフィリピンのクラーク飛行場から出発した。爆撃に出る前に私はこの地区は台湾人の区域だから爆撃しないように、と搭乗員に注意した」と話してくれた。

大空襲の翌日の6月1日、私は台北の被害を見に行った。新公園の所に来ると人体の腐敗した悪臭が鼻にツンと入ってきた。この辺りは、ここにあった多くの防空壕が500キロ爆弾の直撃で破壊されており、大勢の人が地面を掘って死体を探し、「これは●●さんじゃないか」などとつぶやいていた。死体は炎熱と腐敗で身元を判別するのは容易ではなかった。

台湾銀行の方へ歩くと、そこには憲兵が銃に剣をつけて散らばった紙幣を守っていた。総督府前へ行くとまだ燃え続けていた。


▲1945年5月31日の空襲で一部が破壊された直後の台湾総督部(筆者提供)

 

日本の降伏と台湾人の幸福

しかし、それでも私は日本がまさか降伏することになるとは思はなかった。ただ、いずれは台湾に米軍が上陸する日がきて、否応なく私たち市民も戦火に巻き込まれるのではないか、という不安と覚悟のようなものが漠然と胸中にあった。

それゆえに8月15日の日本の降伏は、私は全くの予想外の出来事だった。降伏の条件は即座に一般人にも知られるようになった。

特に台湾人にとって一番大事な事は、台湾を接収するのが中華民国であるという事であった。

日本の敗戦とともに中華民国は戦勝国になった。

それに乗じて台湾人も、「自分たちも戦勝国民になった」という気分を持つようになっていった。ついこの前までは日本の植民地の民であったことをすっかり忘れてしまい、日本人を軽視する空気も流れ始めた。

台北の街にはいたる所に「歓迎国軍、恢復失地、歓迎台湾光復」などと書かれた布製の横断幕などがかかっていた。

日本時代の台湾人は中学校にもなかなか進学できなかった。

台北の公立中学を例にとると毎年200人が入学するが、このうち台湾人は台北第一中等学校が2~5人、二中は100人、三中は20人、四中は30人ほどであった。つまり二中こそが台湾人の中学というわけで、毎年受験者数は1000人以上にのぼっていた。


もちろん受験者の中心は台湾人で、日本人で二中を受験する人は、学力やその他の事情から、あえてここを選んだという人が多かったように思う。とにもかくにもこの二中を除く、一、三、四中の台湾人学生を全て合計しても50人ほどしかいなかったのだ。

日本の降伏後のある日、一級上級生の黄君が私に言った。

「これから台湾人の学生は日本人学生と一緒でなく、台湾人学生だけで勉強することになったからお前も日本人と一緒に勉強してはいけない」。

そのうち本当に永楽国民学校(旧永楽公学校)の校舎を一部借りて、台湾人学生だけでの勉強が始まった。

勉強といっても新たにやってくる中華民国の学校制度は全く分からなかったので、とにかく台湾語(ホーロー語)で三字経を勉強して、これが中国語なのだと思っていた。

やがて大陸から本物の中国人の教員が大勢やってきて、それから北京語による正式な標準中国語(普通話)の勉強が始まった。

 

日本統治時代、台湾人学生の数が大変少なかったことは先に述べた通りだが、それにもまして少なかったのは台湾人教員の数だった。

戦後はあっという間に教員のほとんどが大陸からやってきた教員で埋め尽くされた。この現象は中学だけに限らない。台湾社会全体の組織、機関全てで、良いポジションはすべて大陸からやってきた人たちによって独占されてしまった。

 

終戦当時、台湾人は自分たちが台湾のいろんな正式な良い職業につけるものだと思っていたが、あっという間に台湾中の良い地位は、大陸の人に独占されてしまった。

台湾人が気づいたときには、日本時代に日本人の下で働いたのと同様、今度は大陸から来た人の下で働くようになった。


敗戦国民のみじめさ

終戦と同時に台湾に君臨していた日本人は一夜にして敗戦国民になってしまい、今までの職業を失い、市街を歩くのにもおずおずと遠慮がちになった。日本人で職につけるのは「留用日本人」として、新しい台湾で必要な人材だけが採用された。

たまたま町で台北一中の日本人クラスメートに会うことがあった。

その旧友は私に敬語を使って話すので、こちらが恐縮してしまった。一夜にして敗戦国民となった日本人クラスメートは、立場が変わった台湾人クラスメートである私に対して恐怖心を感じていたことの表れだろう。

また別の折には学徒兵になった時の分隊長にもお会いした。

私は「猿渡」という彼の姓をよく覚えていた。終戦後、旧日本兵は溝の掃除人夫として使用されていた。猿渡分隊長も私をまだ覚えており「や、杜君も元気かい」とたずねてきた。


終戦前は上官であった分隊長に、こんなかたちで再会することになるとは予想だにしていなかったので、むしろこちらの方が気まずくなり、「分隊長もお元気で」と、形式通りのあいさつもそこそこに、私の方から逃げ出した。このとき、「権力」の力や、それが状況によって簡単に移ろう空しさを痛感した。

 

日本人に対する台湾人の評価

ついこの間まで反日だった台湾人が日本人に対しての見方が変わったのは1947年に起こった二二八事件からである。終戦後、わずか1年半で台湾人の心情は親中から反中へと変化した。

為政者として君臨していたと日本人と較べても、大陸から来た中国人の態度ははるかに横柄で、台湾人を2等国民扱いし、「自分達中国人が台湾人を解放してやったのだ」という鼻持ちならない姿勢を前面に打ち出して台湾人と接していた。

台湾人は、日本人が統治者として横柄であった部分よりも、中国人と比べて、公務のうえなどではとても清廉で、国や社会のために奉仕するという信念をもって勤勉に暮らしていた部分を懐かしく思い出すようになっていった。

今でも多くの台湾人は親日であるが、その根源は、実に1947年の台湾人弾圧、白色テロの始まりである二二八事件が起点なのである。

私見では親日感の始まりは1947年以後で、同胞だと思って接していた大陸から来た中国人は、実際には日本人よりはるかに悪いと思うようになった。(おわり)

(2024-04-19「The News Lens」からの転載)

 

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