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かつて世界を席巻した日本の半導体企業 【連載】半導体一筋60年③

2024-06-06 05:25:12 | 半導体一筋60年

【連載】半導体一筋60年③

かつて世界を席巻した日本の半導体企業

釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

 

▲筆者が入社後に配属された三菱電機北伊丹製作所


ウエスティングハウス社と技術提携
 
 パワーデバイスの技術者として体験したことを踏まえ、且つ半導体マーケティングを担当した者の視点から歴史を振り返りたいと思います。
 私が三菱電機に入社した昭和39(1964)年当時、米国ウエスティングハウス社(以下=ウ社)と技術提携を結んでおり、パワーデバイスの開発はウ社からの技術導入により行われました。
 入社後に北伊丹製作所(半導体工場)に配属され、最初に任されたのが、ウ社の技術仕様書を日本語に翻訳する事でした。部品の寸法はインチをメートルに換算するので、23.1センチなどと端数のついたまま使っていました。先輩技術者達がウ社半導体工場を視察した調査結果を報告書にしたり、説明会を開いたりして情報をみんなで共有しましたものです。装置や材料も可能な限りウ社と同じものを使うようにしました。まさにデッドコピーをやっていた訳ですが、なかなか思うような結果は得られませんでした。日米の技術差は歴然としていましたが、米国に追いつこうと必死でした。
 1960年代後半になると、米国の半導体に掛けられていた高い関税が引き下げられるという話も出て、「弱い日本の半導体は押しつぶされるのではないか?」という強い危機感が業界に漂っていた時期です。

通産省主導の超LSI技術研究組合

 こうした状況を打開すべく、昭和51(1976)年に「超LSI技術研究組合」がスタートしました。LSIというのは、Large Scaled IC、すなわち大規模集積回路のことです。この研究組合は通産省(今の経産省)が主導し、国の研究機関である電子技術総合研究所と日立、東芝、三菱、NEC、富士通の5社によるプロジェクトで、5社から100人の技術者が参加したと言われています。
 昭和55(1980)年までの4年間で大きな成果を上げ、日本の半導体製造技術は飛躍的に向上しました。1980年代になって日本が世界最大の半導体生産国へと飛躍する礎になったと言えるでしょう。この成功体験は今でも半導体OBの間で語り草になっています。
 しかし、時代が進んで1990年代に入りと、日本の半導体が落ち目になってきました。そこで「夢をもう一度」とばかりに経産省主導の様々なプロジェクトが立上げられましたが、今ひとつうまく行きませんでした。
 国としては一定の成果があったと言いたいでしょうが、日本の半導体が再浮上しなかったのだから失敗だったと言うしかありません。超LSI技術研究組合がスタートした時はうまく行ったのに、何故90年代以降のプロジェクトは失敗したのでしょうか? 
 世の評論家の間で諸説あるようです。あの時は各社から精鋭が集まったが、90年代の場合は各社共エースを温存し、自社でも同じ開発をやっていたのだと言う人もいます。つまり自社優先(ある意味、当然ですが)で、共同プロジェクトは「お付き合いだった」というのです。要するに、危機感が足りなかったのかも知れません。

80年代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」だった

 さて、話を1980年代に戻しましょう。
 米国においてパソコン市場が本格的に立ち上がります。パソコンのメインメモリとしてDRAMが使われたので、ここに大きなDRAM市場が生まれました。DRAMとは半導体記憶装置(半導体メモリ)の一種で、「Dynamic Random Access Memory」の頭文字を取っています。

 さらに大型コンピュータ(メインフレーム)に加え、ミニコン、オフコン、ワークステーションなどの各種中・小型コンピュータが登場したので、当時は「コンピュータのダウンサイジング」と呼ばれていたほどです。
 もちろん、ここにも多くのDRAMが使われるようになりました。この米国のDRAM市場に日本の大手半導体メーカが雪崩を打って参入します。この時、日本の半導体は性能・品質・価格といった面で米国を凌駕するようになっていましたので、たちまち米企業のシェアを奪ってしましました。
 特に日立、東芝、NEC、富士通の各社は、DRAMの世界シェアナンバーワンを競い合ったものです。このように米国市場において日本企業が熾烈な価格競争を展開しました。
 その結果、DRAMの価格は急速に下がります。たまりかねたインテル、テキサスインスツルメンツ、モトローラなどの米企業はDRAM市場から撤退しました。インテルはDRAMを最初に世に出した企業ですが、さっさと見切りをつけてマイクロプロセッサ(MPU)に力を入れ始めます。インテルは今や世界最大の半導体メーカになりました。

 日本のメーカは大企業の一事業部が半導体を製造していたのに対し、アメリカは半導体専業かそれに近い企業が大半でした。日本企業は半導体が赤字になっても、他事業部の収益でカバーできるのに対し、米企業は半導体事業での赤字がそのまま全社の赤字につながる訳です。
 設備投資においても日本企業は他の事業で得た利益を半導体設備投資に回すことが可能だった、つまり日本の半導体企業はこの当時米企業より体力があったという事です。
 当時は半導体事業規模が全社から見ればそれほど大きくなかったからだとも言えるでしょう。1980年代はカラーテレビ、ビデオテープレコーダ、各種オーディオ製品などの家電の販売も好調で、輸出も大いに伸びました。
 この好調な家電製品の伸びも半導体の伸びを加速させて、世界最大の半導体王国を築いたのではないかと思います。当時はバブル経済が発生した時期でもあります。昭和54(1979)年にアメリカの社会学者、エズラ・ヴォーゲルが書いた『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版されてベストセラーになったこともあり、日本全体が自信に満ちていたように思います。

 

▲ベストセラーになった『ジャパン・アズ・ナンバーワン』

 

日本の半導体が世界の半分を占めたときも

 上述のように1960年代から70年頃までは三菱からウ社に技術調査に行っていたのが、もはやウ社から学ぶことはないと思われるようになっていました。むしろウ社から調査にくるようになっていたのです。

 1989年には、日本の半導体生産が世界の半分近くを占めるようになりました。因みに、この時の世界の半導体企業のランキングは下記の様でした(調査会社のデータによる)。

1位 NEC(44.89億ドル)
2位 東芝(43.1)億ドル)
3位 日立(36.22億ドル)
4位 モトローラ(31.83億ドル)
5位 テキサスインスツルメンツ(27.87億ドル)
6位 富士通(27.7億ドル)
7位 三菱電機(25.00億ドル)
8位 インテル(24.3億ドル)
9位 松下電器(18.04億ドル)
10位 フィリップス(16.43億ドル)

 さらにランキング20位以内に、三洋、シャープ、沖、ソニー等も入っていました。まさに日本の半導体企業は世界を席巻していたのです。この事態に米国は強烈な危機感を抱いたのは言うまでもないでしょう。そして日米半導体摩擦が始まります。一体、日米の間に何が起きたのか。

 

 

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】

昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)


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