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明治二十二年、羽貫村・小針新宿・小針内宿・大針の四か村を合併し、小針村が成立した。村名は小針の名が最も著名なことによるものである。大字は旧村名を継承し、大字羽貫に役場が設置された。
当社は、明治四十年に小針村内に鎮座していた三三社を遷座統合し、村の中心的な社として創建された。社地については、羽貫の村社であった八幡社の境内地が選ばれた。これは、羽貫地区に小針村の役場が置かれ、行政的な中心地であったことによるものである。翌四十一年に社号を八幡社から小針神社に改めた。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
氏子区域は、羽貫・小針新宿・小針内宿・大針の四地区である。この範囲は明治四十年の合祀によって成立したもので、それ以前は各々の地区で相当規模の鎮守を祀っていた。神社合祀とは複数の神社を合わせ祀ることであるほかに、財産を集約することでもあった。当地の合祀では、その中心となった八幡社を除く各社の境内や立木は売却されたほか、社殿などの施設の多くは八幡社に移され改築などが行われて利用された。例えば、小針新宿の稲荷社の本殿は小針招魂社とされて明治三十七、八年の戦没者の御霊が合祀された。また、小針内宿の氷川社の拝殿のように村役場に利用されたものもある。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
日本煉瓦製造株式会社の旧煉瓦製造施設
ホフマン輪窯六号窯
重要文化財(建造物)
平成九年五月二十九日指定
ドイツ人窯業技術者フリードリッヒ・ホフマン考案の大量生産用煉瓦焼成窯である。全長五十六・五メートル、幅二十メートル、高さ三・三メートルの総煉瓦構造で、内部には十八の焼成窯がある。各室には煉瓦の搬出入口、燃料の石炭投入口、排煙口が設置されている。この燃焼室を窯火が巡りながら常時煉瓦を焼成することにより、月産約六十五万個の煉瓦生産高を実現していた。操業当時、窯は地上三階の木造上屋に覆われ、二階は燃料投入室、三階は煉瓦乾燥室とされた。
本窯は、明治四十年に建造され、昭和四十三年までの約六十年間生産を続けた。現在上屋は撤去されたが、残った柱材、二階床面と燃料搬入用のトロッコレールが創業時の様子を伝えている。
煙突も当初煉瓦造だったが、関東大震災により倒壊、現在の鉄筋コンクリート構造となった。
深谷市教育委員会
日本煉瓦製造株式会社の旧煉瓦製造施設
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所
重要文化財(建造物)
平成九年五月二十九日指定
建物は明治二十一年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たったナスチェンテス・チーゼ技師が住宅兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていた。
日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。工場建設地は、当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原度を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免 新井に決定された。チーゼは娘クララと友に明治二十二年十二月に帰国するまでここで生活し、彼の帰国後は会社事務所として使用された。
文化庁
埼玉県教育委員会
深谷市教育委員会
和田はかつて条里制水田が広がっていた地域で、現在も水田の中に位置する。
『風土記稿』和田村の項には「伊森明神社 村の鎮守とす宝珠院持、蔵王社 同持、宝珠院新義真言宗、上之村一乗院末、和光山と云、本尊地蔵を安ず」と載せ、このうち「蔵王社」が当社であり、往時、蔵王権現と称していたという。
明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治二年に村社となった。同四一年、字北屋敷の八坂神社及び境内社八幡社を合祀し、社号を和田神社と改めた。八坂神社は『風土記稿』に載る「伊森明神社」である。
大正一二年の震災により本殿・幣殿・拝殿が全壊したため、これを機に従来の社地が偏狭なことから、和田の大地主竹田恒太郎所有の地が和田の中心地であるとして、この地を求め大正一四年社殿を新たにし一段と尊厳を加えた。この移転及び造営のために要した費用は七千八百円余りといわれ、氏子一同がこの再建に尽くした並々ならぬ熱意がうかがえる。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)