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新編武蔵風土記稿 第十一冊-頁五十一 荒木村
江戸からの行程十六里で、太田庄に属し、北河原用水を引き注ぐ事は上新郷村に同じ。家屋二百三十戸余り。東は上新郷村、南は小見・若小玉の二村、西は斎条村、北は須加村である。広さは東西二十五町、南北十八町。 ある書に「武州荒木の住人安藤駿河守隆光が法心して親鸞の弟子となり、名を源海と号した」と載っている。武蔵国内に他に荒木という地はないので当村のことであり、古くから開けていた地と分る。
家康公御打入の後、天正十九年(1591)六月六日松平主殿頭家忠に賜り、文禄元年(1593)家忠が下総国上代の城へ移ると、同年二月十九日左中将忠吉卿に賜った。それも慶長年中に幕府領となり、寛永十年(1633)に須田儀左衛門・新見七右衛門・大澤左近・正木左馬之丞・駒井太郎左衛門の五人に分け賜ったが、寛永十六年に須田の知行は幕府領となり、阿部豊後守に賜り、その後元禄十一年(1698)には村内全て阿部豊後守に賜って、今も変わっていない。検地は慶長十四年(1609)大河内孫十郎が改め、その後元禄十年十二月酒井河内守が再び検地した。
高札場は村の中程にある。
小名 八王子 郷地 横町 上宿 中宿 下宿 はひ塚 行人塚
星川 村の西南を流れる。川幅八間から二十間に至る。南の方の屈曲する所へ見沼用水路が落ち合う。これより下流を見沼代用水ともいう。
長善沼 村の東。いまは殆ど開発して水田になっている。昔ここに荒木兵衛尉長善が住んでいたので長善沼と呼ぶという。
天神社*忍名所
八王子権現社
愛宕社
鷲宮社
熊野社
三十番神社
天洲寺*忍名所 太子堂
東福寺 薬師堂 閻魔堂 観音堂
旧家者益次郎
伝えによると、先祖荒木兵庫頭は伊勢新九郎長氏と共に関東へ下った七人のうちの一人で、子孫荒木越前のとき、荒木村に住んで忍城主成田下総守に属し八十貫文で処遇されていたことは成田分限帳にも載っている。その子兵衛尉(はじめは四郎と云う)長善は、天正十八年(1590)下総守氏長と共に小田原城に籠って討ち死にした。後に忍城も落ちたので長善の館も破却された。村内にある長善沼はその館趾と云う。長善の遺腹の子を村民らが養い、長じて八左衛門と名乗り、氏を北岡と改めた。この八左衛門は天洲寺を開基した。これより子孫が荒木村に土着し、今の益次郎に至ると云う。しかし旧記など無く、ただ言い伝えだけなので、それが確かかどうか分らない。
褒善者五八
親に孝があったので安永元年(1172)領主阿部豊後守が褒賞した。その時五十一歳だった。五八の姉も同じく孝養を尽くしたので同時に褒賞した。五八は八年前に病死して跡が絶えたと云う。
当地は、槻川と都幾川の合流点にある。隣村の大蔵には源義賢の居城と伝える大蔵館跡があり、菅谷には畠山重忠の館跡がある。鎮座地は都幾川と境を接し、西に塩山を望む景勝地である。緑豊かな参道を進むと、清水が大竹の樋を通って手水鉢に注ぎ込む。この清水は、義賢婦人が駒大丸(木曾義仲)誕生の際に、七か所の清水を集めて産湯に使った「七清水」の名残と伝える。当社の西南には義仲が出生したという木曾殿屋敷の地があり、いずれも、源家とゆかりが深い。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
嵐山町指定建造物 鎌形八幡神社本殿
正面の建物は拝殿を兼ねた覆屋であり、本殿はその中に納められている。
本殿は、簡素な一間社流造りで、装飾的な彫刻は、正面扉両脇・脇障子・蟇股・向拝木鼻・向拝蟇股などに限られている。彩色もこの彫刻部分にのみ施されている。
本殿の建立年代は、棟札に「奉再建立正八幡宮御神殿于時寛延二己巳暦三月朔日遷宮」とあり、寛延二年(一七四九)である。しかし、新材がかなり含まれ、何度かの修理を経ているものと考えられる。いっぽう、身舎部分に付けられた蟇股、頭貫の木鼻などの形状は、簡素な整ったものであり、古式を踏襲したものか、あるいは棟札の年代よりもさらに古いものではないかと思われる。
昭和六十ニ年三月 嵐山町教育委員会
鎌形八幡神社は、平安時代初期の延暦年間に、坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると言い伝えられている。武門、武将の神として仰がれ「源頼朝及び尼御前の信仰ことのほか厚く」と縁起の中にある。
源義賢、義仲、義高三代に関する伝説がこの地には多く、源氏の氏神として仰がれていたという。
また、嵐山町指定文化財である懸仏が二枚保存されている。
安元二年(1176年)の銘がある懸仏は径十八センチメートルで、中央に阿彌陀座像が鋳出されていて、「奉納八幡宮宝前 安元二丙申天八月之吉 清水冠者源義高」と陰刻されている。(但し、源義高は安元二年には生まれていない。)もう一つの貞和四年(1348年)の銘がある懸仏は、径十七センチメートルで、薬師座像が鋳出されていて、「渋河閑坊 貞和二戌子七月日施主大工兼泰」と刻まれている。
その他、木曽義仲産湯の清水や、徳川幕府歴代将軍の御朱印状などの多数の文書がある。
昭和五十五年三月 埼玉県
植物は土を食べると云います。おいしい苺を作るため土づくりは大量の有機肥料(わら、木の葉、もみ殻、大豆)を投入し、シーズンオフに熟成、太陽熱消毒をして、お彼岸の定植を待ちます。
新潟の津南より無菌苗を買い定植にこぎつけ活着したら、10月の末に保温開始、最初から二種類の天敵を入れます。
何年か前までは、ここでダニの防除をしたのですが、昨年からは二種類の天敵を入れるので、その必要はなく、お客様には全く安心して食べていただけます。
(保温開始前に1回だけヨトウ虫の防除をし、収穫期は一切防除は致しません)
お正月には超大粒の苺が赤くなり、見事です。
ぜひ大勢の御来園をお待ちしております。
木村いちご園HP「ごあいさつ」より