私の記憶が正しければ、今日は私がお世話になった人の命日です。
あの時亡くなった人は、そのあとの大不況とかマイケルの死とか、薬物騒動とかを知らないままだったんだなぁーとか考えます。
あるいは、どこかから見ていて、知ってるのかもしれませんね。
冬ソナ好きだったなぁとか、一緒にステーキ食べたなぁとか、思い出は時に、蘇ります。
思い出している間は、ある意味、本当に蘇るのかもしれない。
私という人間が考える世界の中では。
一種の、「離れて暮らしている感覚」的なね。
だけど、やがてまた頭から離れて忘れると、私の考えの世界から消えて亡くなるのかと。
人は主観的だから、目の前にいて会える人、もしくはメールや電話、手紙などでなんらかの連絡をリアルタイムに取れる人が全て、「生きている人」で、目の前にいなくて、何の連絡も取らずに離れて暮らす人や亡くなった人は、自分の中では「いない人」という括りになるのではないかと思うわけです。
亡くなった人より、生きてても思い出すこともない人って山ほどいますよね。
なら、思い出してるってだけで、亡くなった人はむしろ生きてる感じしません?
だって、遺影見たって何したって、亡くなった事が理解できないんだもの。
いまだに。
まだ生きてるんじゃないかって。
あの生々しい存在感は、時間が経っても変わらないんです。
「今頃どうしてるかなー」って本気で考えちゃうくらい。
心に生き続けるって、こういうことなんじゃないでしょうか。
お墓でも千の風でもなく、私の心にその人はいるんです。
関わった人々の心に。
黄泉の世界ってあるのかな。
それとも、無の世界か。
ドラゴンボールみたいに頭に輪っかが浮かんでるのかな。
あ、保険に入ろう。
あの時亡くなった人は、そのあとの大不況とかマイケルの死とか、薬物騒動とかを知らないままだったんだなぁーとか考えます。
あるいは、どこかから見ていて、知ってるのかもしれませんね。
冬ソナ好きだったなぁとか、一緒にステーキ食べたなぁとか、思い出は時に、蘇ります。
思い出している間は、ある意味、本当に蘇るのかもしれない。
私という人間が考える世界の中では。
一種の、「離れて暮らしている感覚」的なね。
だけど、やがてまた頭から離れて忘れると、私の考えの世界から消えて亡くなるのかと。
人は主観的だから、目の前にいて会える人、もしくはメールや電話、手紙などでなんらかの連絡をリアルタイムに取れる人が全て、「生きている人」で、目の前にいなくて、何の連絡も取らずに離れて暮らす人や亡くなった人は、自分の中では「いない人」という括りになるのではないかと思うわけです。
亡くなった人より、生きてても思い出すこともない人って山ほどいますよね。
なら、思い出してるってだけで、亡くなった人はむしろ生きてる感じしません?
だって、遺影見たって何したって、亡くなった事が理解できないんだもの。
いまだに。
まだ生きてるんじゃないかって。
あの生々しい存在感は、時間が経っても変わらないんです。
「今頃どうしてるかなー」って本気で考えちゃうくらい。
心に生き続けるって、こういうことなんじゃないでしょうか。
お墓でも千の風でもなく、私の心にその人はいるんです。
関わった人々の心に。
黄泉の世界ってあるのかな。
それとも、無の世界か。
ドラゴンボールみたいに頭に輪っかが浮かんでるのかな。
あ、保険に入ろう。