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飛鳥宮跡 ~日本の国の原点はここだと感じさせるところ

2018年03月02日 | 城・屋敷・歴史遺産


復元された飛鳥宮の跡

歴史上の時代区分である「飛鳥時代」とは、現在の奈良県の飛鳥エリア(明日香村)に都が定着するようになった時代を指します。推古(すいこ)天皇が593年に豊浦宮(とゆらのみや)で即位した年に始まり、元明(げんめい)天皇が平城京に遷都した710年までの期間を指すことが一般的です。

川原寺址から近い「飛鳥宮跡」は、大化の改新の舞台となった「板蓋宮(いたぶきのみや)」だと地元では永らく伝承されてきました。しかし近年の発掘調査で「岡本宮(おかもとのみや)」「浄御原宮(きよみはらのみや)」も置かれていたと考えられるようになってきました。平城宮跡のように建物の復元はされていませんが、1,400年の時間が積み重なった日本という国の原点の場所を目の当たりにすることができます。

推古天皇より前の時代、天皇の住まいである「宮(みや)」は、現在の奈良県・大阪府・京都府・滋賀県の各地を、天皇の代が変わるたびに転々としていたと考えられています。それも奈良時代に編纂された日本書紀・古事記に記されているだけであり、正確な場所もわかっていません。

推古天皇以降は飛鳥エリアに集中して宮が置かれるようになり、宮が置かれた都市である「京(きょう)」としての風貌も整うようになりました。そのため仏教寺院や工房跡など、飛鳥エリアでは当時の遺構が多く発掘されています。

飛鳥エリアに宮が置かれるようになっても、宮そのものは頻繁に移転しています。大阪の難波宮(なにわのみや)や滋賀県の大津宮(おおつのみや)など、飛鳥から少し離れたところに宮を置いた時期もあります。

こうした頻繁な移転の理由にはいくつか説があります。政治的な思惑以外にも天変地異に際し人心の刷新を図った、というのが最もよく知られています。しかし現代では建物の耐用年数の要因が大きいことが重視されています。建築技術が未熟で、暴風で倒壊したり、火事になったことは記録にも多く残っています。伊勢神宮など定期的に社殿を立て直すしきたりも、元は建物の耐用年数が要因だったと考えられています。


飛鳥~奈良時代の都の変遷

  • 在宮年は異なる説もあります。
  • 明日香村に所在する宮名は、頭に「飛鳥(あすかの)」を付けて呼ぶ場合もあります。
  • 一般的に用いられる「藤原京」は、藤原宮のあった一帯を指す、後世の学術用語です。
天皇 (西暦) 宮・京
代)名 読みかな 在位 在宮・在京 読みかな 現所在
33)推古 すいこ 593~628 593~603 豊浦宮 とゆらのみや 明日香村
603~630 小墾田宮 おはりだのみや
34)舒明 じょめい 629~641
630~636 岡本宮 おかもとのみや
636~640 田中宮 たなかのみや
640~642 百済宮 くだらのみや 桜井市?
35)皇極 こうぎょく 642~645
642~643 小墾田宮 おはりだのみや 明日香村
643~645 板蓋宮 いたぶきのみや
36)孝徳 こうとく 645~654
645~654 難波長柄豊碕宮 なにわながらのとよさきのみや 大阪市中央区
37)斉明 さいめい 655~661 655 板蓋宮 いたぶきのみや 明日香村
655~656 川原宮 かわらのみや
656~661 後岡本宮 ごおかもとのみや
661 朝倉橘広庭宮 あさくらのたちばなのひろにわのみや 福岡県朝倉市?
中大兄皇子 なかのおおえのおうじ 661~668      
38)天智 てんち 668~672 667~672 近江大津宮 おうみおおつのみや 大津市
39)弘文 こうぶん 672~672
40)天武 てんむ 673~686 672~694 浄御原宮 きよみはらのみや 明日香村
41)持統 じとう 690~697
694~710 藤原宮 ふじわらのみや 橿原市
42)文武 もんむ 697~707
43)元明 げんめい 707~715
710~740 平城京 へいじょうきょう 奈良市
44)元正 げんしょう 715~724
45)聖武 しょうむ 724~749
740~743 恭仁京 くにきょう 木津川市
743~744 紫香楽宮 しがらきのみや 甲賀市
744~745 難波京 なにわきょう 大阪市中央区
745~784 平城京 へいじょうきょう 奈良市
46)孝謙 こうけん 749~758
47)淳仁 じゅんにん 758~764
48)称徳 しょうとく 764~770
49)光仁 こうにん 770~781
50)桓武 かんむ 781~806
784~794 長岡京 ながおかきょう 長岡京市
794~ 平安京 へいあんきょう 京都市


現在の「飛鳥宮跡」にあったと考えられる宮の1つ「板蓋宮」は、皇極天皇が築いた宮です。大化の改新のスタートとなる、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した645年の「乙巳の変(いっしのへん)」の事件現場が板蓋宮です。「飛鳥宮跡」のすぐ北にある小高い「甘樫丘(あまかしのおか)」に蘇我氏の邸宅があり、入鹿の父・蝦夷が事件後に自決したところとされています。

「浄御原宮」は、大海人皇子(おおあまのおうじ、天武天皇)が壬申の乱で弘文天皇に勝って政権を奪い、672年に宮を大津から飛鳥に戻したものです。それまで天皇が変わるごとに宮も移されていましたが、天武・持統と二代にわたり、22年間の長きにわたって使用されました。

浄御原宮の時代は政治的に安定し、白鳳文化が花開きました。初めて「天皇」と称した、国名を「日本」と定めた、古事記・日本書紀・律令の編纂を始めた、伊勢神宮の式年遷宮を始めた、薬師寺を建立した、これはみな天武天皇によるものです。

続く持統天皇は天武天皇の皇后だった女帝です。持統天皇は天武天皇の政策を継続させ、手狭になった浄御原宮から藤原京に都を移転させます。存命中に文武天皇に譲位したため、日本で初めて上皇になった天皇でもあります。二人は仲睦まじかったようで、天武天皇の陵に合葬されています。

浄御原宮の時代は、日本に初めて訪れた平和で文化が栄えた輝かしい時代だったような気がしてなりません。日本の原点は飛鳥にある、それを象徴するのが飛鳥宮跡とその上に広がる大きく青い空です。

こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。



日本の国の原点をしっかり復習


飛鳥宮跡
https://asukamura.com/?page_id=347

※拝観・見学に条件はありません。いつでも無料で拝観・見学できます。


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