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佐賀城本丸歴史館 ~佐賀はサイエンスで明治維新をリードした

2018年03月16日 | 城・屋敷・歴史遺産


本丸御殿「御玄関」

佐賀市は明治維新をリードした雄藩・薩長土肥の一つである肥前佐賀藩の城下町です。35万石の大藩であった城主・鍋島氏の本丸御殿が復元され、主に幕末の佐賀藩の歴史をわかりやすく伝えています。

象徴的な存在にすぎない天守閣とは異なり、本丸御殿は藩主が生活し政務をとっていた建物です。歴史の舞台は天守閣ではなく本丸御殿にあります。全国で天守閣の復元は珍しくありませんが、本丸御殿が現存する、復元されている例はほとんどありません。幕末の歴史を知る上ではとても価値のある復元建築です。

幕末の佐賀藩の主人公は、藩政改革と財政再建に成功した藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)です。彼が藩主を継いだ1830(天保元)年、藩は危機的状況にありました。幕府から命じられていた長崎の警備費用の重い負担や、巨大台風の被害で財政は破綻寸前でした。

1835(天保6)年に二の丸御殿が焼失するに至って、直政は父親である前藩主に近い保守派を抑え藩政改革に乗り出します。役人の削減、借金の棒引きなどの力仕事を推し進め、財政再建を軌道に乗せます。相当の行動力と知力があった人物でしょう。

藩校・弘道館での教育に力を入れ、明治維新や新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、江藤新平らを輩出します。

一方長崎では西洋列強の圧力を感じていました。西洋技術を導入して対抗しようとし、最新式の大砲や蒸気船などを自ら製造できるまでに技術を磨きました。この際に作られた造船所「三重津海軍所」は世界遺産に登録されています。オランダから輸入した天然痘のワクチンを大坂の緒形洪庵に分け与え、日本における天然痘の撲滅のきっかけを作ったのも直正です。とてもサイエンス好きな殿様だったのです。

【公式サイト】 フロアマップ

復元された本丸御殿は、直正が1838(天保9)年に建造したものをベースにしています。2,500平米(750坪)もある巨大な建物です。財政難での建築で必要最小限に抑えられたと推測できますが、それでも35万石の大藩に必要だった部屋の大きさは圧巻です。

家臣を集めて藩の公式行事を行っていた「外御書院(そとごしょいん)」は、襖をすべてはずすと320畳もの大広間になります。この部屋では幕末の藩政改革や明治維新への対応に関する展示がされています。家臣たちが整然と居並んでいると錯覚するような壮大な空間で、直正の時代を学ぶことができます。

「御座間(ござのま)」は直正の居室で、本丸御殿で現存している唯一の部屋でもあります。障壁画はなくとてもシンプルは書院です。天井の高さと障子の格子のデザインが殿様の部屋の格式をさりげなく伝えています。

【公式サイトの画像】 御座間

この博物館は、模型やジオラマなど立体的に復元した展示が目立ちます。中でも佐賀藩が明治維新時に他藩を大きくリードしていた科学技術に関する展示は、模型があることでとてもよくわかります。直正はサイエンスで佐賀ブランドを確立します。今でも佐賀の人たちの自慢です。


佐賀状の周辺には歴史を感じさせる施設がたくさん

本丸御殿の周囲には、県立博物館・美術館や、鍋島氏伝来品を展示する「徴古館」、大隈重信の生家と人生の軌跡を展示する「大隈重信記念館」があります。ゆっくり散策しながら、佐賀藩の目線で見た幕末と維新の素顔を知ることができます。ぜひお出かけください。

こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさん。



薩長より目立たなくなった佐賀の明治維新とは?


佐賀城本丸歴史館
http://saga-museum.jp/sagajou/

原則休館日:年末
※展示作品は、展示期間が限られているものがあります。


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