新京極通に面した立派な三門
誓願寺(せいがんじ)は、京都のど真ん中の繁華街・新京極通り沿いにあり、和泉式部ゆかりの誠心院のすぐ北側に位置する。世阿弥の作と伝えられる能の謡曲「誓願寺」が江戸時代に有名になって以来、芸能関係者の参拝が絶えない。また江戸時代初期には住職・安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が笑いを交えた説法を行ったことで知られ、落語の祖と言われている。繁華街の中心に合って、女性と芸能にゆかりの深い寺である。
寺伝によると、飛鳥時代に奈良で創建された後、鎌倉初期に京都に移転し、法然上人によって浄土宗の寺となった。以来「浄土門の聖地」として信仰を集め、現在は浄土宗西山深草派の総本山となっている。
豊臣秀吉の都市計画で現在地に移る際には、秀吉・側室の松の丸殿(京極竜子)の援助で大きな伽藍を整えた。現在の約4倍の敷地で、三条通と六角通の間を占めていた境内は、その大きさゆえに明治維新後の都市計画で時の京都府参事・槇村正直に目を付けられてしまう。京都随一の繁華街になっている新京極通は、誓願寺と近隣の金蓮寺がねん出した土地に通した道だ。明治から昭和50年代にかけて様々な芝居小屋や映画館が立ち並び、松竹の発祥の地ともなった。失った境内も立派に「芸能」に貢献することになったのだ。
能の謡曲「誓願寺」は、この寺で亡き娘の菩提を弔った和泉式部が往生後に菩薩として現れ、寺の縁起を語りながら歌舞を舞うストーリーだ。境内には灯篭の形をした「扇塚」があり、芸能関係者にとっての信仰のシンボルになっている。灯篭に扇をあしらったデザインがとても興味深い。
安楽庵策伝は、1613(慶長18)年にこの寺の法主(=住職)になり、小堀遠州・松花堂昭乗といった当時の一流の文化人との交流が深かった。彼は初代飛騨高山藩主で茶人としても著名だった金森長近(かなもりながちか)の弟だとする説もあり、文化を愛する血が騒ぐ人物だったのだろう。笑い説法で有名になった策伝は、時の京都所司代・板倉重宗の命で、自らの知識となっていた笑い話を書き下ろした「醒睡笑」を著している。この書が後世、落語のネタ本となったことで「落語の祖」と呼ばれるようになったのだ。このため芸能の中でも落語関係者の参拝が非常に多い。
寺は和泉式部と松の丸殿のゆかりから「女人往生の寺」として現在も信仰を集める。街の繁華街にあって、気軽に念仏を唱えることができる道場としても長らく人々に親しまれてきた。そのためか、境内には入りやすく、気さくで温かみがある。
山門に「迷子みちしるべ」の石柱が立っている。右側面に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、落し物・迷子をした人は「さがす方」へ、拾った人は「教しゆる方」へ紙に書いて張り出し、情報交換をした。警察がなかった江戸末期から明治にかけて深刻な社会問題となった迷子の対策に、各地で人が集まる盛り場や寺社に多く建てられたそうだ。誓願寺が町の中心として親しまれてきたことがわかる。
誓願寺では、毎年10月初旬の日曜日の「策伝忌」の法要の際に奉納落語会を催している。厳かな法要の後に落語が聞けるとは、この寺の奥の深さを感じさせる。
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日本の世界の、唯一無二の「美」に会いに行こう。
京都で生まれ育った著者が冬ならではの京都の楽しみ方を伝授
誓願寺
原則休館日:なし
※仏像や建物は、公開期間が限られている場合があります。