気の向くままに

卒寿過ぎた私の日々の行動と昔の思い出の掲載です。北海道日本ハムファイターズのファン~元祖東急セネタース時代から

76年前を思いだした

2024-05-17 11:10:01 | 日記

1948年(昭和23年)5月17日は、私の人生を決めた当時の逓信省の機関の一つであった東京逓信講習所普通部電信科に入所した日です。逓信省はその後分割し電気通信省、日本電信電話公社となりました。

 

入所した時は14歳でした。住まいは小田原市に住んでいて駅までは歩いて約30分で通学は小田原駅発1番列車で4時40分頃発で品川駅に7時30分頃に着き、そこから都電の四谷3丁目行に乗り広尾停留所で降り直ぐの所にありました。講習所では当初2年の通学の予定が、占領下であったのでマッカーサーの指令とかで9ヶ月となり、主に電報を送受するモールス信号と和欧文のタイピングを覚え、9ヶ月をまたずに翌年の1月31日に卒業し平塚郵便局電信課に配属されました。この頃から昭和30年代は通信の中では電報が一番花形でしたが、通信の発展はもの凄く今の社会になっています。

修学旅行で日光 1948年10月

修学旅行で 中禅寺湖 1948年10月

そして私は昭和24年7月に小田原電報電話局電報課に転勤しました。

昭和24年10月 有線で電報受信(音響通信)15歳

昭和27年10月 無線通信で電報受信(18歳)

小田原には昭和36年6月から昭和38年2月の箱根局勤務を除き昭和48年2月迄いました。小田原の大部分は仕事をしながら労働組合の活動をしていました。その間上部の指示でストライキの拠点となり停職3ヶ月もありました。又、選挙活動も市会議員、県会議員、参議院議員、衆議院議員と選挙運動では頑張り候補者から頼りにされる組織でした。国会議員では地元選出の社会党の平林剛さんへの活動でした。

その後昭和48年2月に神奈川電気通信部運用課電信係長に転勤し、其所でも組合活動をしながら部内で昭和51年2月に契約係長となり昭和53年1月に日本電信電話公社を退職し、労働組合出向で電気通信共済会に退職翌日に再就職の人生でした。退職の翌月にOB組織である当時の全電通退職者の会神奈川支部協議会の会長を45歳で選出され、その後事務局長となり77歳まで世話役活動をしていました。

今ではカタカナの電報もなくなり、通信の世界では、ソフトバンク、KDDI、楽天等々と競争をしているNTTです。

 

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