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10年続くかなとおもった自分のブログ。 9年目にこちらにひっこしてきました。

追悼 04 冨田勲氏とモーグ

2020-05-10 11:31:51 | 日記
ここまでいろいろ見てくるとほとんどは既出のことですが、Wikipediaより
英語版はMoogのページでTomitaといれてページ検索してもでてこない。。
*そうでした、近年ムーグとは言わずにモーグというのでした。

Wikipedia;
日本におけるモーグ・シンセサイザー
1970年の大阪万博で未来の音楽として電子音楽が紹介されるなど、電気的に生成された音=電子音の存在が一般にも知られ始めた頃、日本でもモーグ・シンセサイザーを使用した最初のヒットレコード、ウェンディ・カルロスの『スイッチト・オン・バッハ』(1968年、日本発売は翌1969年)がオーディオマニアや音楽ファンに大きな反響を呼び、モーグはシンセサイザーの代名詞として認知度を高めつつあった。

映画音楽、NHKの大河ドラマやアニメーション番組などの音楽を作曲していた冨田勲は、大阪万博の東芝IHI館の音楽を担当した当時、3か月ほど大阪に滞在した。その時訪れた輸入レコード店で『スイッチト・オン・バッハ』と出会い、このモーグ・シンセサイザーのみで演奏されたアルバムを知ったが「せっかくモーグ・シンセサイザーを使っていながら音色の趣向を凝らしていない」と懐疑的な感想を持った。そして、自分ならば、モーグ・シンセサイザーによって「オーケストラに感じていた限界を打ち破り、実現でき得なかった夢を叶える」ことができると考え、またこれは「将来極めて重要なものになる」との予感からモーグ・シンセサイザーの購入を決意した[28]。

モーグ・モジュラー・システムの日本最初の購入顧客はヤマハ(日本楽器)で、冨田以前にも数人のミニモーグ・ユーザーが日本には存在した。モーグ社の記録によると、1971年10月頃、モーグIII-P(ポータブル・ケース型)が飛鳥貿易を経由して日本に出荷され、それが冨田勲に渡ったとされている。[29] [30]

そのモーグ・シンセサイザーについてきた取扱説明書はわかりにくく、コードをつないでも不快な音しか出ず「これはなんとかしないと、1,000万円も出して、アメリカから鉄くずを買ってしまったことになる」と、当初は焦ったと冨田は述懐している[28]が、操作に習熟すると音作りに没頭する。やがて、CBSソニーから『スイッチト・オン・ヒット&ロック』(1972年)を発表。本作は、生のリズムセクションにシンセサイザーの上モノをダビングした、俗にいう「モーグ・レコード」のスタイルだったが、その後ドビュッシーのピアノ曲をモチーフにしたRCA社から発売されたアルバム「Snowflakes Are Dancing」(日本発売題:『月の光』)(1974年)で独自の色彩的表現を開花させた。

『月の光』の完成時、日本のレコード会社からのネガティブな反応に辟易した冨田は、米国RCAレコードへの直接売り込みを敢行する。RCAとのコネクションがなかった冨田は、慶應義塾大学時代の友人関係のつてでRCAアジア太平洋地区代表だった山本徳源を紹介された。山本は、米国RCAのプロデューサー、ジョン・ファイファー (John Pfeiffer) にテレックスを打つなど米国本社との仲介に尽力した。ファイファーは、クラシックレコード界のインプレッサリオにとどまらず、自らも電子音楽作品『Electronomusic - 9 Images』(RCA Victrola, 1968年)を制作し、RCAのクアドラフォニック (Quadraphonic) システムや後のデジタル録音開発にも参与するなどテクノロジーに対する理解も深いプロデューサーであった。当初RCAで冨田を担当したとされるピーター・マンヴェス[28]と『スイッチト・オン・バッハ』の関連は不明だが、マンヴェスのRCA退社を受けて担当ディレクターを務めたとされるトーマス・シェパード (Thomas Shepard) は、1960年代コロムビア・レコードに在籍した後、1974年にRCAへ移籍、その後RCAレッドシール部門の副社長になった人物でコロムビア時代に『スイッチト・オン』タイプの作品『Everything You Ever Wanted To Hear On The Moog』も手がけている。

こうして「Snowflakes Are Dancing」(『月の光』)は1974年4月、米国で先にリリースされ[31]、米ビルボードのクラシカル・チャート1位、ポップ・チャート最高位67位を記録、1975年のグラミー賞4部門にノミネートされるなど日本人制作作品としては破格の成功を米国でおさめた。その後同作は『月の光』として日本でもリリースされ、「メイド・イン・ジャパン」「逆輸入品」という好イメージも加わり、国内でも広く一般にモーグ・シンセサイザーとその第一人者として冨田を知らしめる礎となった。以後、コンスタントにシンセサイザー作品をリリースした「世界のトミタ」の成功は、日本でのモーグ・シンセサイザーの知名度を飛躍的に高めた。

1971年頃、冨田のアシスタント業務を受け持つ「インターパック」に所属していた松武秀樹は、その後自らモジュラー・システムを購入。1974年に独立後、数々のスタジオ・レコーディング作品にモジュラー・システムをレンタルし、そのマニピュレーターとしてモーグ・シンセサイザーのサウンドを日本のポピュラー音楽に提供した。

最初期の日本人音楽家では、佐藤允彦が1971年からミニモーグを使用して作品をリリースしている。加藤和彦は1971年10月5日にミニモーグを使用したアルバム『スーパー・ガス』をリリース。渡辺宙明は1972年頃にミニモーグを購入し、『人造人間キカイダー』『マジンガーZ』等、アニメや特撮作品での楽曲に重用し、エフェクティブなモーグサウンドをテレビの帯番組を通じて毎週提供し少年達の心を躍らせた。渡辺は、現在もオリジナルのミニモーグを愛用している。

2012年9月8日放映の「タモリ倶楽部」(テレビ朝日系)では、「初期型モーグシンセ(箪笥)で音を作ろう」と題し、冨田勲と松武秀樹がMOOG III-Cを用いて実際に雑談混じりに音作りを行った。
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最期のYoutubeのタモリ倶楽部の動画、とても見てみたいのですが、リンクがみつかっても、動画はすでに消されていますね。

それから冨田さんの記事によくでてくるSwitched on Bach. チャリティー団体のところでみつけた(Salvo)LP今日また眺めてみました。。  
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