九州の入り口にあたり、倭国を構成する三十国の中のひとつでもある4千余戸の末盧国についての記述です。
1、
末盧国に官や副が居たか、居なかったのか・・・記述されていない理由は、記述漏れなのか?、それとも、元々ここには官も副も居なかったのか?と、問えば
「郡の倭国に使するや皆、津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に訪らしめ差錯するを得ず」と記述されていて、この「津」でもある末盧国の港にあって、目録を基に船から降ろされた「文書・賜遺の物」をチェックして確認したはずである。
この役割を果たしているのが邪馬壱国から派遣された「漢字読解能力」のある役人ではないか。
倭国内において外交交渉権や交易利権ため入船や出船の厳しい監視機構を持った「大倭」を当時の国際港である末盧国にも派遣して監視していた。とすると末盧国は邪馬壱国の直轄領であるが故に官・副が不在であった、と思われるのだが、如何だろうか?・・・・・
末盧国の津の所在地は「呼子」。東西・北への監視が容易であって大倭をして「交易利権」を確保しやすい。←これってかなり重要です。
2、
さて、この末盧国の津及び伊都国(常に郡使が留まる所)を地図にプロットしてみた。
①「~一大国に至る~また南北に市糴す。また一海を渡る千余里、末盧国に至る~四千余戸あり。山海に浜うて居る」
②「~草木茂盛し、行くに前人見ず」
③「好んで魚鰒を捕え皆沈没してこれを取る。
④「東南陸行五百里にして伊都国に到る。~」・・・・・以上魏志倭人伝から
これをプロット図から検証します。
AD238年に来倭した郡使の報告書をもとに陳寿はこの倭人伝を記述していますが、その記述内容②は地図では②に、記述内容③は地図上で③のところの記述ではなかろうかと思いプロットした。その問題点を下に記す。
1、末盧国から伊都国は東南陸行と記すがその位置関係は直線方向で東となる。これは倭人の案内を受けてまず、陸路進行方向が東南へと進み、それから先は海岸に沿って(道並みに進んで)曲りくねってはいる 一本道を進めば自然と伊都国に到着する。ということを意味している、のだろう。
2、1を補強する考えに一大国からの水行して末盧国に到る行程があります。一大国から末盧国へは直線方向では東南になりますが、実際の進行方向は南(南北に市糴す)となっています。
これは進行方向に対して側面から対馬海流の流れが加わるために、南に進まないと東南方向にある末盧国に至らない。
すなわち、進行方向を南に取れば自然と末盧国に到着するってこと。そのことを記述してあるわけです。それが「南北に市糴す」の意味です。
末盧国・伊都国とも位置関係は直線方向ではなくて進行方向を記している。
以上によって、④の「東南陸行五百里にして伊都国に到る。」が矛盾がないことになります。
先に記した「倭人の漢字読解力」については別に記したい。