『魏志倭人伝』には裴松之(372-451、南朝宋の歴史家)の注釈が加えられています。魏略白「其俗不知正歳四節、但計春耕秋收為年紀」 と。
上の文は春から秋までを1年・秋から春まで又1年春から春までを2年と数える倭国の二倍年暦ですが「其の人の寿考或いは百年或いは八、九十年」・・・・(魏志倭人伝)と、記述されていて、これと対のなる記事のその痕跡が『日本書紀』・『古事記』でも記すように歴代の天皇の””長寿”記載だと思う。(例えば、応神130才・仁徳64才・允恭78才・雄略124才・・・・古事記)
仲哀天皇崩御52歳、在位9年
神功皇后崩御100歳、在位69年・・・・・以上「日本書紀」記述
この、年齢からして当時(仲哀時代)は倭国固有の二倍年暦が採用されていたと思われ、実年齢は仲哀は26歳、神功は50歳で崩御した。
応神天皇の出生に関しても、この二倍年暦で解けば仲哀天皇の死から5ヶ月経って誕生したことになり、何ら不思議とするものではありません。この様に日本の古代では二倍年暦が実際に使用されていた。
この二倍年暦の発見者は正始8年(247)に来倭した魏使の張政が共立された13歳の女王壱与の後ろ盾(後見人)として、壱与と深く関わりの中から、その13歳の少女が成長していく過程で、倭人の暦は二倍年暦となっていると発見した。その張政の『倭国報告書』類のものが情報源となった可能性は極めて高いと思われる。(以下1~3が理由)
1、張政の来倭が正始8年(247)、帰国が泰始2年(266)で、20年間倭国に滞在し、倭王壱与との関わりを持った。
2、『日本古代国家の成立』直木孝次郎著72ページでは張政の帰国と壱余の朝貢は250年ごろとしているが、その根拠は示されていない。壱与の朝貢が魏朝ならば魏志倭人伝に年号記載がないのはいかなる理由なのか?の説明は必須でしょうね。
3、特に張政が帰国の際には、使者二十人つけて送っていることからも壱与の張政への係わりの深さが偲ばれる。壱与13歳に出会って32歳での別れである。
今でも、この二倍年暦は各神社の主要な行事として行われている6月30日、12月31日の晦日に行われている大祓えにその残像が今日まで引継がれています。
それでは、何時ごろまで二倍年暦が使用され、太陰暦に切り替わったのは何時ごろか?を検討してみます。
5世紀宋との交流は「倭王武の上表文」によっても覗えますが、その交流の結果、暦についての認識とその必要性が生じた。
倭王武は「ひそかに自ら開府義同三司を仮し」と、云っているわけですから、その実行には暦を宋に合わせなくては三司の義を同じくすることはできません。左の必要性から倭国サイド自ら二倍年歴を捨て宋で使用していた元嘉暦に踏み切ったものと考えれます。
以上のように『魏志倭人伝』は二倍年歴で紐解く事が重要です。