先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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三越呉服店洋服部の争議 1920年主要な労働争議⑥ (読書メモ——「日本労働年鑑」第2集 1921年版 大原社研編) 

2021年07月26日 08時26分29秒 | 1920年の労働運動


写真・ビラ


三越デパート(日本橋1920年)

 26日正午より、三越デパートの大殿堂では連日、開店以来の未曾有の不祥事が頻発した。
日ごとに数千枚の「罷工団」の宣伝ビラ、「一言も回答もないまま一方的に工場を閉鎖し、
技工を威圧した三越と労働者側の切実な要求のどちらが正しいか、我らは社会の公平な判断を求める」

がデパートの高楼の内外から大々的にまかれたのだ。
その上、デパートの店内に、日ごろはあまり見かけない労働服が、
やたらに徘徊するのは、労働組合同盟会の各労働組合の闘士たちであった。

『労働』は書く、「楽隊の奏でる洋々たる音楽の代わりに、ドス黒い労働歌が湧き起こる。
突然万歳の声が上がる。演説が始まる。
幾人かの巡査は、剣をガチャつかせ、泥靴のまま階段を駆け上がったり、駆け下ったりする。
人々の目は、異様に輝く行列が館内を練り歩く姿を見る。
歓楽と虚栄の巷(ちまた)は、一朝にして不安な殺気だったものすごい光景に変わってしまった。
29日には7人、30日には27人もが、巡査によって館の内外から引き立て検束された。
そして三越名物の孔雀のような女の姿も、役者のような男もみんな影を隠して、
広い館内はガランとしてしまった」と。

1920年主要な労働争議⑥  (読書メモ——「日本労働年鑑」第2集 1921年版 大原社研編) 

9、三越呉服店洋服部の争議
   世間では3月の戦後恐慌の勃発による不景気もあり、労働界でも意気消沈のままこの年を閉じようとしていた12月20日、三越呉服店洋服部に突発した争議は、その舞台の華やかさとその運動方法が過去に例のないやり方で、万都の耳目を集めた。争議自体は決して大争議とは言えないが、『三越』なる有名な名と、その『三越』に反抗した労働者の闘いは、甚大な影響を世間の人々に与えた。

 12月19日午後、三越の洋服部技工の107名労働者は、20名以外はすべて請負制で、特に今年の年末は仕事がなく、背広一つを約3日で作るとその後2日は仕事がなくなる。こうして毎日工場に出勤していながら一銭の収入もない状態が続いた。そのため、労働者は以下の要求を決めた。
 
 要求
 一、請負者に保証日給2圓30銭を支払うこと。
 一、20人の日給者に50銭を賃上げすること。
 一、身元保証金300圓の半額を払い戻すこと。
 一、退職金を増額すること。

 しかし三越は、21日正午、この要求を全く拒絶したばかりか、なんと技工労働者全員を何の理由もなく一方的にクビにし、その100名に職場からすぐに出て行くように迫った。100名は東京駅待合室、その後神田松本亭に集合し協議した結果、「罷工団」を結成して会社の挑戦に応じる決意を固めた。友愛会本部及び東京連合会に応援を要請した。東京市社会局労働課にも調停を依頼した。
 
 21日より25日にかけて東京市労働課は三越と話したが、保証金の半額払い戻し以外は全く不調に終わった。結局罷工団は、今後の運動を友愛会東京聯合会に一任することとした。

 友愛会は三越に平和的に話し合いで解決したいと申し入れたが、三越側からはついに一言の連絡もない。三越の向こう見ずがむしろ気の毒だ。しかし、こうなったら戦闘宣言しかない。友愛会が戦闘宣言した以上、普通では済まない事は、こちらは初めからわかっているのに、資本家はいつも労働者との交渉にいろいろと駆け引きをしたがる。その駆け引きこそが大怪我の原因であることに資本家は気が付かない。

 26日正午より、三越デパートの大殿堂では連日、開店以来の未曾有の不祥事が頻発した。日ごとに数千枚の「罷工団」の宣伝ビラ、「一言も回答もないまま一方的に工場を閉鎖し、技工を威圧した三越と労働者側の切実な要求のどちらが正しいか、我らは社会の公平な判断を求める」がデパートの高楼の内外から大々的にまかれたのだ。その上、デパートの店内に、日ごろはあまり見かけない労働服が、やたらに徘徊するのは、労働組合同盟会の各労働組合の闘士たちであった。
 
「労働」は書く、「楽隊の奏でる洋々たる音楽の代わりに、ドス黒い労働歌が湧き起こる。突然万歳の声が上がる。演説が始まる。幾人かの巡査は、目の色を変えて腰剣をガチャつかせ、泥靴のまま階段を駆け上がったり、駆け下ったりする。人々の目は、異様に輝く行列が館内を練り歩く姿を見る。歓楽と虚栄の巷(ちまた)は、一朝にして不安な殺気だったものすごい光景に変わってしまった。29日には7人、30日には27人もが、巡査によって館の内外から引き立て検束された。そして三越名物の孔雀のような女の姿も、役者のような男もみんな影を隠して、広い館内はガランとしてしまった」と。

 なんと、はるか大阪の三越支店にも同時にストライキが勃発したのだ。かくして三越は東西から迫られることとなった。ついに三越は屈服し、堀留警察署長の仲介で罷工団に会見を申し入れてきた。30日午後、三越は労働者側の要求をすべて認めた。しかし、翌31日、あきらめが悪い三越は、協定の一部を改悪しようとあがいてきたため、すわ!ストライキ継続かと緊張が走った。労働者側の断固としたストライキ継続の決意を知った三越はあわてて改悪を撤回してきた。

 こうしてこの争議は全面勝利で終了した。時に1921年(大正10年)1月1日午前2時。

『労働』は歓声を上げて言う。
「争議大勝利解決と、迎年の喜びは惨憺たる悪戦2週日の技工の上に一時に復活してきた。『元旦の朝の2時まで集合所に立ち籠った技工団の堅忍と、各組合団体の熱烈なる応援ぶりと労働階級解放の戦闘に喜び勇んで犠牲たらんとする勇気とすべてのものが、労働運動前途の光明を証拠だてた』と。

 そしてこの争議の直接の結果として生まれたものは、同店洋服部、加工部、電気部、その他労働者300名よりなる、三越従業員同盟会であった。



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