横川町の激戦地跡
現在この地には堡塁が残っています。
明治10年8月30日延岡から九州山地を越えて鹿児島を目指す薩軍と宮崎細島から海路で鹿児島の姶良市重富に着いた政府軍第2旅団が横川で戦闘を繰り広げました。
8月29日重富にいる政府軍に薩軍が栗野地方に突出した報を得ると第2旅団の三好少将は野崎中佐、野津大佐を横川、溝辺へ向かわしました。
対する薩軍は貴島清が率いる振武隊が交戦します。
両軍勝敗が決まらない中、貴島清は一分隊を分けて小久保新助に政府軍の背後を撃つように命令しました。
これにより政府軍は敗走しています。
薩軍の死傷者20名、政府軍の死傷者42名を出す激戦でした。
堡塁跡
堡塁の内側
もう一つの激戦地跡は少し離れた場所にあります。
元々ここは民部塚があった場所でなんと!
薩摩では嫌われ者最上位2名の内の1人川路利良の銅像が建てられています。(もう1人は想像にお任せします)
現に川路は別動第3旅団を率いて水俣、大口方面に出撃してましたが薩摩の一般市民からも嫌われていたため、市民の暴動が起こる不安から川路は旅団長を解かれ東京に戻されました。
しかし、時間の経過と共に鹿児島市内にも2名の銅像が建てられています。
川路利良は民部塚での北原氏末裔ということで銅像が建てられたようですが他のブログには広島原爆ドームにトルーマン大統領の銅像を建てるものだとありました。(ちょっと納得)
この地に葬られた薩軍兵士が怒っていると…
薩軍兵士の怨念で亡霊が現れるとちょっとした心霊スポットになっているみたいです。
実際はともあれここは激戦地だったようです。
案内板が消えかけているので載せておきます。
【西南戦争激戦地 明治十年(1877)8月30日午前5時頃薩軍の隊長貴島清の指揮する先鋒隊ニ百数十名は此の地、民部塚に於いて加治木方面から北上中の官軍第ニ旅団中崎中佐の一隊と遭遇し直ちに馬渡川をはさんで両軍東西に展開し、翌31日午前2時まで21時間に亘って激戦を交えた。この戦斗で大西郷は、まさに危うく官軍の重囲を脱出し薩軍の中隊長、山田泉之介・官軍伊吹杢三郎少尉等両軍合わせて62名が戦死した。】
これからも精進していきます。