西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡㉟ 人吉・球磨①

2023-03-28 05:14:00 | 熊本県西南戦争史跡
人吉による西南戦争

薩軍は熊本城東会戦での敗戦により浜町から人吉へ撤退し、官軍を迎え撃つ作戦をとります。

明治10年4月27日西郷隆盛は人吉土手町の永国寺に入り本営とします。

桐野利秋は人吉の北東約25kmにある江代に入り出張本営を置きました。

人吉城には弾薬製造所が設置され1日2000発を生産しています。

薩軍は江代出張本営でこれまでの10個大隊から
奇兵隊(大隊長・野村忍介)
振武隊(大隊長・中島健彦)
破竹隊(大隊長・別府晋介)
雷撃隊(大隊長・辺見十郎太)
正義隊(大隊長・河野主一郎)
行進隊(大隊長・相良長良)
干城隊(大隊長・阿多壮五郎)
常山隊(大隊長・平野正介)
鵬翼隊(大隊長・淵辺高照)
と隊を編成しました。

4月28日江代出張本営で軍議が開かれ、今後の戦略方針が決定。

人吉の要害を堅守し、左翼は大口・水俣をうかがい、右翼は豊後へ進出して官軍を牽制、一方鹿児島にも部隊を派遣し確保につとめます。

豊後方面⇒奇兵隊
江代方面⇒正義隊・干城隊
神瀬方面⇒常山隊
大口方面⇒雷撃隊
佐敷方面⇒鵬翼隊
鹿児島方面⇒振武隊・行進隊

それに対して官軍は5月6日に人吉攻撃を決定します。

主攻部隊に山田顕義少将率いる別働第ニ旅団、助攻部隊に黒川通軌大佐率いる別働第四旅団(15日に別働第ニ旅団に編入されます)が人吉へ進出しました。

人吉に通じる7道を並進し、要所にある薩軍を撃破。

徐々に包囲網を狭めて人吉に迫ります。



6月1日官軍は人吉の薩軍を攻撃。

薩軍も官軍を球磨川を挟んで迎え撃ちますが圧倒的な兵力と火力にどんどん劣勢になりました。



要害の地と思われた人吉も1ヶ月でに薩軍は人吉の南東側の大畑・田代に撤退します。

6月2日薩軍は再び官軍と対峙するも、官軍の攻勢に抗えず飯野(宮崎県えびの市)へ撤退して人吉は陥落しました。




【人吉隊】

薩軍の党薩諸隊には人吉隊がありました。

3月3日神瀬鹿三を総長として人吉一番隊を結成します。

3月6日人吉一番隊は熊本隊と合併し川尻の警備任務に就きました。

3月21日植木にて初めて戦闘に参加するも総長の神瀬鹿三と数名の隊士が戦死します。

その後は木留、吉次峠にて戦闘を展開。

薩軍が熊本撤退を決した時に人吉へ向かうことを提案しました。

薩軍が人吉に入ると人吉隊はニ番隊、三番隊も編成され、五木口方面で1ヶ月余の戦闘を展開します。

しかし、人吉が陥落すると官軍参謀・新宮簡(人吉出身)の降伏勧告を受け入れ6月4日に降伏しました。

降伏1ヶ月後7月4日に罪を問わない事を交換条件に薩軍を裏切り官軍の別動第ニ旅団付属ニ中隊に配属され、宮崎にて薩軍を相手に戦闘を行いました。



永国寺

薩軍の本営が置かれた寺です。



案内板



山門



本堂内部



西郷隆盛の掛け軸



官軍の砲弾



お寺内にある西南戦争の錦絵














永国寺は幽霊寺でも有名です。





永国寺本堂横に建てられている西郷本営跡碑です。





人吉2番隊士の碑








西郷隆盛塩蔵跡




























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