西南戦争・薩摩の史跡を巡る

西南戦争に関する有名な史跡からレアな史跡・薩摩の史跡を載せてます。
史跡の詳細な地図も付けています。

薩摩猫之介の散歩 西南戦争史跡63 宮崎県五ヶ瀬町・高千穂町

2024-07-06 18:06:00 | 宮崎県西南戦争史跡
宮崎県の高千穂町は三田井と呼ばれる場所でした。

三田井は馬見原(山都町)、竹田(大分)、延岡に通ずる要衝の地で薩軍はここを守備します。

総司令・池上四郎(5月4日三田井着その後延岡へ向かう)
指揮長・高城七之丞

三田井方面の薩軍
奇兵十六番中隊(隊長・小濱氏興)
正義五番中隊 (隊長・久永喜兵衛)
正義六番中隊 (隊長・肥後壮之助)
正義七番中隊 (隊長・橋本諒助)
中津隊    (隊長・増田宋太郎)
延岡隊    (隊長・大島景保)

馬見原の官軍
第三旅団(5月4日まで)
熊本鎮台(5月4日から5月16日まで)
第一旅団(5月16日から)

熊本、宮崎の県境にある鏡山に多くの塁を構築して三田井方面からの薩軍の攻撃に備えました。


明治10年5月10日

薩軍の先鋒・中津隊は江代から椎葉を抜け三ヶ所村(五ヶ瀬町)に入ります。

巡査風の人影が馬見原へ走って行ったのを見て中津隊は馬見原口に塁を構築し、擬兵を張ってここを守り中津隊本隊は三田井に入りました。

後続の隊も三ヶ所村から三田井に入り、奇兵十六番中隊は三ヶ所村の男山から広木野に兵を配置します。



『男山と男坂の場所がわかりませんでしたが五ヶ瀬町JA広報かるめごの中で室野から廻淵の経路が載っており、これによって男山と男坂の場所が判明。室野~男山越(金毘羅さん)~男坂~三ヶ所川沿い~貫原~戸の口~廻淵。征西戦記稿にも赤谷男山とあります。』



5月13日

薩軍兵力が少ないため三田井の守備は不利と判断して馬見原に向けて進軍すると各隊長の決議により決まりました。

6中隊を3に分けて薩軍は夜に鏡山に向けて進軍します。

隊の振り分けですが書籍により違いがありますので記載します。(実際の振り分けがわかりません)

【薩軍血涙史】
正義六番中隊 (笠部越)
中津隊    (岩神支道)
正義五番中隊 (鏡山)
正義七番中隊 (同上) 
奇兵十六番中隊(同上)
延岡隊    (同上)

【西南戦争延岡隊戦記】
奇兵十六番中隊(広木野から境松・岩神)
中津隊    (同上)
正義五番中隊 (中央から鏡山)
正義六番中隊 (ウツホギ越から鏡山)
延岡隊    (同上)

【西南役中津隊先陣ほぎ奮戦史】
奇兵十六番中隊(本道より境松)
正義七番中隊 (同上)
中津隊    (同上)
正義六番中隊 (鏡山)
小倉清左衛門 (同上)
延岡隊    (兼ヶ瀬から笠部峠から鞍岡)

隊の詳細はわかりませんが三方向から鏡山を攻撃したようですね。



5月14日午前6時から鏡山で激しい戦闘が繰り広げられます。

主な戦闘は鏡山中央と本道側のようでした。

左翼の笠部峠の部隊は鏡山よりも笠部集落や鞍岡(揚集落)での戦闘だったようです。

鏡山の熊本鎮台兵は薩軍の猛攻を防ぐことができず次々と塁を奪われ馬見原に敗走してしまいましたが午前9時頃薩軍の攻撃が止まります。

坂本本営より各隊長の招集命令が下され隊長は坂本に向かいました。

本営では到着したばかりの高城七之丞(延岡隊戦記では高城から派遣された大迫某)が状況報告(延岡隊戦記では三田井の守備放棄の詰問)のためだけに戦闘中の隊長を招集したようです。

小濱と増田は激怒して隊に戻りますが時既に遅し、進軍することが叶わず撤退してしまいます。

この事が無ければ少ない熊本鎮台兵を馬見原から撤退させられたかもしれません。

薩軍撤退後、熊本鎮台兵は鏡山に戻り警備を厳重にします。

5月24日

熊本鎮台と交代して第一旅団(一部熊本鎮台)が馬見原から五ヶ瀬町の男山方面に進軍します。

官軍左翼の兵は薩軍の炊事場に火を付け津花峠を越え男山の通路を絶とうとしますが薩軍の塁を抜くことができず退却しました。

官軍中央は男坂・広木野の塁に攻撃しますが守兵中津隊の右翼が高岳(男山か?)より激しく攻撃して正義六番右小隊が援隊として奮戦して官軍を退けます。

広木野の正義七番は偵察を出しましたが赤谷村で官軍と遭遇して防戦しました。

官軍は正義七番の塁に迫りますが隊長の橋本諒助が策を廻らせ地元民100名を左翼の山頂に登らせ勢援と見せかけた偽計で官軍を退却させています。



官軍は男山への進軍と同時に馬見原から椛山方面に迂回させて岩神の薩軍を攻撃、そのまま戸の口から三田井に進軍しました。



5月25日

官軍は再び男山に進軍、同時に三田井の小坂峠にも兵を進めます。

男山麓の男坂に中津隊、広木野に正義七番中隊が官軍を迎え撃ち午前9時から午後5時まで激しい戦闘が行われました。

薩軍は死守することができず中村に退却してしまいます。

三田井の小坂峠では山頂の5塁から薩軍が猛射して官軍を防ぎますが川越大尉の一隊が迂回して猿渡より薩軍の背後を突きました。

薩軍はこれにより退却してしまいます。



三ヶ所からの官軍主力部隊も27日には三田井に入り三田井は官軍に占領されてしまいますが、延岡への進軍を阻止すべく8月まで日之影町・延岡市北方町において膠着状態と戦闘を繰り返すことになります。



【西南戦争史跡】

《五ヶ瀬町》

広木野塹壕

5月4日に薩軍の構築が始まります。

ここを守備していたのは正義七番中隊でしたが石柱には中津隊増田宋太郎の名前が刻まれています。













大石越西南役薩軍塹壕跡

大石越に正義六番と延岡隊が構築して監視兵を置き、官軍の鞍岡からの侵攻を警戒させていました。













八人塚

城東会戦での負傷者は木山~矢部~馬見原~三ヶ所~三田井~延岡と運ばれました。

ここに埋蔵された薩軍8名は馬見原付近で亡くなった兵士のようです。







薩軍兵士の墓

ハ人塚近くの揚集落にある共同墓地には薩軍兵士2名の墓があります。

墓は共同墓地より一段上にあるので少し探さないといけません。

墓石には石塚順之助と(姓不詳)紀之とありました。

薩南血涙史の戦没者名簿には2人の名前がありません。

石塚姓は8名いましたが該当せず。

通称と諱の関係もあるのではと考えていますが今後の課題としておきます。

田原と彫られているので田原坂での負傷者がこの付近で絶命したのかもしれませんね。









集落から田んぼの中の細い道を進むと獣避けフェンスがあります。
フェンスの扉を開けて更に進むと共同墓地です。





薩軍坂本本営の専光寺

ここは西南戦争史跡①に載せています。



金光寺

こちらは五ヶ瀬町の戦闘ではなく、矢部浜町から椎葉村を経由して人吉に向かう途中に西郷隆盛と桐野利秋が宿泊した寺です。

4月22日 西郷隆盛宿泊
4月23日 桐野利秋宿泊





















《高千穂町》

高千穂官軍墓地

この墓地には三田井病院、可愛岳、陸地峠、黒土峠、金山峠などで病死や戦死した官軍兵士が埋葬されています。

中央には陸軍士官見習・村上清之進(8月18日可愛岳戦死)の墓が建っています。

8月18日という事は薩軍の可愛岳突囲戦での戦死ですね。























高千穂戸長役場跡(高千穂町役場)

ここは可愛岳から鹿児島に向かう西郷隆盛が8月21日三田井に入り宿泊した場所です。