ある村に生まれた子供は、物心つけば
その村のお祭りの運びを学んで生きる。秋になれば祭りがある。それを当たり前として『分かっていく』……。
と同時に彼はその秋にヨーロッパで南米で行われる祭りについて学ぶチャンスを失っている……。
一つの分かった!から幾つもの無数の『分からない』を感じる事が出来るか否か?……。
それが『知識ある者』と『知識が深い者』を境区する目安なのだと思った。
学ぶ程に、『自分の知らない事』の多さを実感していく者と、仕入れた知識の量によって思考が呪縛を受ける様になる人……。
所詮……両者とも『知らない事が多すぎる状態』で死んでいくのだけれど。
知っている事の風景を、知らない事の余白を背景にみる方がその広さとか大きさとかにリアリティーを得られる。
それが『自分には知らない事がある事』を知っている人の特権なのだろう。
一度、自分にこびり付いてる常識とか観念を取り払う必要がある!
それがblogを書いて発見した思いだった。
観念とか常識は……ブラックホールの様に自己満足の中に、何でもかんでも吸い込み分からないまま消化してしまうんだな?と思った。従ってその人は『知らない事がある事』を意識して生きる事が出来なくなっているんだ!……と思った。
従って、一旦出した結論は、満足と納得の塊だから改変される事は……ない。
そういう人は『自分が間違いを犯す事がある』という概念がないからである。
……先日、永井龍雲の
『道標(しるべ) ない旅』を聞く機会があった。
✳……青春を生きてる若者よ!
君が歩けば そこに 必ず道は出来る✳
谷村新司の 『昴』でも自分の前に道はないなんて事が歌われている。
恐らく……詩人の高村光太郎の詩集『道程』の中にある一節、自分の前に道はなく、自分の歩いた後に道は出来るからのイメージなんだろうと思う。
それは未知の何かを開拓する心意気なのだが……後進の人間の為になんて思いもあるだろう。
歩いても歩いても未知が大きく広がるばかりの道……一つの未知が既知となる度に……未知のゾーンがその何倍も拡がっていく道である。
既知とセオリーなんかに捕らわれてはならない。
所詮解決しようがない未知の中にまだ見ぬ自分が居る。
観念と常識をリセットし続ける旅……それが一番素敵な人生となるのだろう。
最近の「日記」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事