サンチョパンサの憂鬱

群れの中の孤独

群れの中の孤独は一人で居る事の孤独より何倍も不健全、不健康である……。

一人で居る事を、寂しいと感じるのは状況を正確にそのまんま捉えており、感性は極めて正常に機能している。

群れている孤独は、メンタルが感じている孤独を恣意的に作為的に麻痺させようと試みながら、それでも誤魔化しきれない痛みだ……。

自分の本意が何とかして欲しいと切に願っている状態に、当の本人がソッポを向いているという自分。
自分の主観からも社会という客観からも突き放されて『孤立』しているのである。

随分前に……孤独は生まれながらに人間に付いて回るモノだから仕方ないけれど、孤立させてはならないと書いた。孤立は自分からの援軍さえ期待出来ない状態だからである。

孤独には自助という自分の意志が存在する。しかし孤立となれば、自分を何とかしたいという意志さえもが放棄されている状態だ。

人間は基本、自分が自分を見捨てなければ大丈夫だ……。むしろ孤独は有意義な思考にはもってこいの環境なのである。
群れの雑音がシャットアウトされ、メンタルが自分の奥深くにまで切り込めるからだ。

僕は、三十代初め迄、中途半端に孤独と向き合い、その結果パニック的に、『疑似友人』を求めてかき集めてた。
それは単なる知り合い、顔見知りより質(たち) が悪いものだった。

その人、その人用にイイ人を演技しなければならず、自分で自分が何を求めているのか?さえ判然としなくなってしまった状態だった……。

僕は、誰に取ってもイイ人だから、様々な難題が当たり前の顔をして僕に割り振られた。その結果、膨大な負債を残して疑似友人達は居なくなった。

僕は、それこそが今迄の自分の集大成なんだと思った。
それ以降、自分の心に照らして拒絶するべきあらぬ要求を毅然と拒絶する様になった。

厚かましく、忘れた頃にまた何とかしてくれと、疑似友人の一人がやって来た。
追加要求するそいつの顔を見て、ゴミ箱をしつこく荒らしに来る野良犬の様だ……と思った。
それが……やっと正常に周囲が見える様になった兆候だった。

僕は孤独だったけれど、孤立からは抜け出していたのだった。
『今、君が立っている土俵に僕も降りて君の性根にお似合いの対処をしようと思う……』と彼に言った。

その要求はもう見せ掛けの友人でもない。犯罪の領域だから……ここからは弁護士と警察の仕事だ……と。
彼は立ち上がりいきなり握手を求めた。頼む、友人で居てくれ!……と。

500万自分にくれ!と追加の理不尽を言った直後に、拒絶されたら立ち上がり握手?……友人で居てくれ?……それが僕の疑似友人の正体だった……。彼はそれまで見たこともない笑顔を作っていたのだった。

逃げる様に帰って行ったその背中を見ながら……自分が自分を蔑ろにしていた事を僕は遅まきながら理解したのだった。

自分の本物の心……本意を見付けるのは中々難しい。それに自分を従わせるのは尚のこと難しい……。
しかし、自分の本物たらんとするメンタルを何とか維持するから……自分にとって本物たる人間を見出だすことが出来るのである。
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