執着し求め続けなければならない欲望?
ただひたすらに相手の事を思い(愛し)その人の幸せを願う事が愛……愛と渇愛……似て非なるモノである。愛を気取って自分の中に居座る我欲の極致……ソレが渇愛である。
瀬戸内寂聴さんに関する記述に出会わない日はない。
若き日々……世の中の煩悩を一手に引き受けソレを求め続けたかの様な彼女…それ故に『手放す事』が出来た人なんだろうなぁ?……と思う。
欲望を手放す事は中々難しい。
しかしその前段の『執着』を手放せれば欲望も消える?なる一文があった。
ならば執着はどうやって?手放せばいいというのか?……『執着しているのに』である。
ここまで生きて来て……僕もその一端となる方法が分かった様な気がする。
それは『その執着にトコトン執着する』のである。何事も中途半端はイケない。
『何故?俺の思う通りにしてくれないんだぁ!』とばかりに執着の限りを尽くして悪足掻きの極致に生きて見るのである。
当然……成就などあり得ない独り善がりの望み故に報われることは無い……。
しかし、必ず『執着自体も疲れ弱る』のである……コレが僕の人生の一大発見だった。
あれほど強かった『望み求める力(執着)』が弱り疲れ果てて虫の息となった時……『コリャ?無理なのかもね?』という『諦め』の心境が芽生える。
出来もしない観念的な『自己説得』で早々と断念したポーズを取ったって無駄なのである。
この様な『にわか悟り人間』が蔓延してるけど……自分のオドロオドロしい執着心を舐めているだけ……。
『演った事にする処理』は公務員の十八番だけど……ソレと同様に何の効果も得ることは出来ないのである。
執着といえど……折角、自分の中に芽生えた自分の感情である。トコトン付き合って見て上げたら良いのである。
死ぬ思いをしてやっと得る『僕の望み無理だったのね?』っていう『諦め』は実に多くの学びをくれるのである。
執着を経て得る諦めの何より大きいご褒美は……『自分はナンボのモンか?』を知ることである。
執着は……怒り、嫉妬、僻みありとあらゆる自分の湿度高い悪徳を掘り出し心の表面に連れ出すのである。
ソレを駆使し尽くして見て初めて知る自分自身の正味。
『過去を思うな!』、『未来に願うな!』……今の自分の目の前に専念せよというシンプルなセオリーは……『自分の執着を乗り越えた先』にしかない境地なのである。