サンチョパンサの憂鬱

昼下がりのサンチョパンサ(2)……『忘れること』は救済である

12回目の3・11が巡ってきた……。

先日テレビで東北大震災の『語り部』活動しているグループのドキュメンタリーを観た。
二人の青年が……活動グループの構成員が日を追って減っていくことの焦燥感を話していた。

辞めていく切っ掛けは進学とか就職のタイミングが大きいと。
しかし、『何があっても語り継がなきゃいけないと思う……』思い詰めた表情が印象的だった。

失った人が……どんなに濃密な関係の人だったとしても……時と共にその印象は薄れていく……。
鮮明だったその人の記憶が少しずつ 少しずつ確実に薄れていく。

『大切な人・関係』は失った瞬間にそこで歩みを止める。
何回チャレンジしても『その時点までのその人の変わらない同じ記憶』に辿り着く。

僕は土砂災害で大切な知り合いを失った。
今もその人を思い出せば涙を避けられない。

しかしその人の笑顔とか?
僕が救急車で運ばれ入院した時に、『だから……身体には気を付けて!私がいつも言ってたのに!』……と本気で怒って睨んだ彼女の顔は変わってはくれない。

彼女が亡くなった当初……カミさんと日々彼女の話を繰り返ししては涙ぐんていた二人だったけれど……。
僕達にとっては彼女の大切さは変わらないけれど……思い出す頻度はかなり減った。

それからも僕達は……彼女のいない時間を何年も生きて過ごした……。
彼女が知っていた僕達には彼女の知る由もない様々の新たな体験が加わっている。

何より彼女がよく買ってくれてた僕達の衣料品のお店は2年前に整理閉店して今は存在しない。


『どんなに衝撃的な出来事』でも少しずつ 少しずつ『人は忘れその記憶を失っていく』のである。
『起きたことを起きたまんま』に『そのリアリティ』を寸分違(たが)わず思い出し……ましてや人に伝えるなんてことは不可能なのである。

『忘れる事は非情でも薄情でもない』と思う…。

問題は『忘れ方』なんだと思うのである。

その悲惨な出来事を……これから始まる新しい時間の中に『どの様に生かして行くか?』それこそが生き残り、今を生きている人間の『使命』だと僕は思う……。

韓国人留学生の方が勇敢にも我が身を顧みず、線路に転落した人を助けんとして亡くなったことがあった。その方のお母様が葬儀の際に泣き崩れる映像を先般テレビで観た。

その後…彼のお母様は基金を創設し、アジアからの留学生を支援するプロジェクトを立ち上げた。
亡くなった息子さんの願い……『僕は日韓の架け橋になりたい!』という『意志を引き継ぎ』未来に繋げられたのである。

その基金が援助したアジアからの留学生は千数百人に及ぶという。
『今は亡き彼の意志』はその後も『生き続けるお母様の悲しみ』によって『未来を創り続けている』のである。

『失った悲しみを忘れること』によって今も尚、お母様は息子さんの意志を携えて未来に向かって『彼と共に生きている』のである。
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