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サンチョパンサの憂鬱

最高の積極策……『諦めること』

何かの意味があるのか?

最近度々……自分の限界を諦める事について大切さを説く文章によく出会す。

仏教のいうところの『諦める・明らかに極める事』の重要性を説くものばかり……。
自分は必ず死ぬんだ!という諦めの大切さ。
ハイデカーの死の先駆的覚悟……死への存在などなど……だ。

思えば……人生は諦めの連続で出来ている。

自分の限界を知る事(諦める)から自分に可能性のあるテーマに対する足掻きが始まる。
諦める事しかない事に連綿としてしまうのは執着であり自己評価は『自分は駄目だ!』の連続となってしまう。

五木寛之さんの本には現代に『自殺者が多いのは諦めの悪い人が増えたから……』という指摘があった。

恵まれない自分。不遇を抱え込んだ自分。閉塞感の中に閉じ込められた自分。挫折してしまった自分などなど……惨めな境遇にある自分を『コレが自分なのだ!』と『受け入れ許す事』が重要なのであると。

『諦める事』は消極策に非ず……反転攻勢への『超積極策』なのである。

例えば酷いイジメに追い詰められてる自分を何より自分が許し受け入れその状況を仕方ないコレが自分と先ず……諦めてやらないと嘆き悲しみの極致に進んだ結果……自分が自分を追い詰める事になってしまうのである。

そしてそれでも諦めきれず最後には自殺をチョイスするという運びなのである。

不遇と惨めと窮地には事欠かない人生を歩んで来た僕が編み出した呪文を教えます。
『仕方ない……今はね』である。
未来まで腐らす気はないぜ!という実に気迫のこもった呪文でしょ?……。

『明らかに極める……諦める』は未来を自分のユートピアに導く思考なのである。
その時の状況を諦めてる訳で……決して自分の存在を損なわず自分の魂を守り抜く姿勢なのである……。
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