退屈に紛れてふと思い出すのは、過去の面々……。下手にまた関わりを持とうものなら過去の苦いビデオテープが再現されるなんて事にもなる。
それはその人間がどうのこうのじゃなく、自分のメンタルが弱っているからに他ならない。
それに気付いた人間が陥るのは、無理から元気の『ポジティブ演技』である。少し元気を勘違いしている体育会系や単純短絡思考の人は先ずコレをやる。
少し冷静に考えると……人間には誰にも『進化の因子』って奴が埋め込まれているんだと思う……。
犬や猫や猿は……素直?に自分まんまを生きるから……その因子は生きてく道すがらでその通りに実現されていく。
人間だけは、遠慮や気後れ、劣等感とか僻みなどなど様々な後天的なマイナスなメンタルを囲う。それが人工的にその因子にブレーキをかけてしまうのである。
『自分に対する余計なお世話』を自ら演ってしまうという不思議な習性を持っているんだと思う。
多くの人がそういうメンタルを持っている以上、それは人間であることの一部だと思う。
それは自分自身を考える前に、先ず一緒に群れている他者が目に入る環境があるからだと思う。
『自らの意思で自分を隔離』してやらないと自然にあるべき自分を思い出せないのだと思う……。
一人孤立する事は……何をおいても避けたい恐怖である。
しかしまた自分を確立せずして群れる事は……自分を見失い、みんなという塊に埋没してしまうという、もっとリスキーな環境となる……。
人多く、他人研究家の大家だけど、自分研究は皆無といっていいほど疎かにしている場合が多い。
全ての物事の発露は……『あの人がどう考えてるか?』ではなく、『私がどう考え何を望んでいるか?』から始まるのだという事だ……。
少なくとも自分に意義ある出来事はその順番で始めないと気苦労ばかりを稼ぎ虚しさは増すばかりといった事になる……。
ドキドキワクワクな人生はトンでもない努力をしないと叶わない?なんて事は……ないのである。
自分に妙なブレーキをかける事なく、メンタルを解放し、『無理のない自然な流れ』に自分を放置してやる事なのである。
辛さや虚しさにやられ『お馴染みの友』の誘いにのって一時を紛らわして見ても……一人になると『お馴染みの土地』に相も変わらぬ自分が立っているだけ…… 。
過去に解決策が無かったから……今ここに居る。ここにまだ見付からぬならずっと前の向こう側……解決策を持つ未来へ辿り着くしかないのである。