舞い上がる。

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ちひろBLUESこと熊谷千尋のブログです。

4年前の書き下ろし小説 『ボケとツッコミ』

2015-01-06 11:18:48 | 小説
僕が4年前に書き下ろした小説『ボケとツッコミ』です。
これはもともと、4年前に僕が『チヒロ短編集』を初めて作った際に書き下ろしたものでした。

その後、小説の内容を何度か改変して現在の形になっています。
ブログで公開するのは、これが初めてです。

何故このタイミングで公開したかと言うと、12月の「ちひろdeアート」で加藤大輔さんに朗読してもらったからでした。
ゲストの人達の朗読が全体的に良かったので、「あの感動をもう一度」な発想から、そこで朗読してもらった小説は全部ブログで読めるようにしました。

短編集は200円、ステージは500円なのに、ブログで無料で読めるのはどうなのかという考えもありましたが、短編集にはブログに載せていない小説も入っているし、ステージの朗読はたとえ話を知っていたとしてもお金を出して聞く価値があったと思ったので、ブログで公開することにしました。





『ボケとツッコミ』

俺の大学卒業が決まった時、父に連れられて祖父に挨拶に行った。
父の実家は、俺の住む町から電車とバスを乗り継いで二時間ほどかけて向かう小さな村にある。俺は高校を卒業するまで毎年、盆と正月には必ず家族に連れられてこの父の実家に行っていた。
だから俺は、お盆の送り火の習慣も、正月のお雑煮の具材も、自分の生まれた町の伝統は知らないくせに、父の生まれ育ったその村にだけは詳しくなっているという妙な子供に育っていた。
もっとも、そんな父の実家での文化が、子供の好奇心を強く刺激した、という訳ではなかった。父の実家に帰っている間、ただでさえ子供の少ないその村で、自分と同世代の友人を作ろうというのは到底無理な話で、家族以外で自分の知る人間が一人もいない状況下において、俺の話し相手になってくれるのは、もっぱら祖父と祖母だったのだ。

祖父は口数が少ないが、一度自分が言った意見は絶対に曲げようとしない頑固な人物で、基本的に大人と話すことに慣れていなかった俺が、祖父と一分間以上会話を続けることは、困難を極めた。
対照的に、祖母は一度しゃべり出したら畑仕事の最中だろうが客人の前だろうが口を閉じることのないような人物で、話し相手が祖母だと会話は十分だろうが一時間だろうが続いた。もっとも、俺は相槌を打つのみだったが、祖母との会話は、祖父とのそれとは違った意味で困難を極めた。
そしてこの二人が、ほぼ毎日、喧嘩をすることがあるのだ。それはテレビの音量だとか夕食の献立のような些細なものから、農作業中の怪我など、一歩間違えば大事故になりかねないものまで様々だった。今思えばそれは、二人にとっては日常会話の延長戦上にあるものだったのかもしれない。けれど、二人が喧嘩を始めると、俺は全く口を挟むということが出来ずに、ただ黙って二人を見ているほか何も出来なくなるのだ。それは小学生の時から変わらないことだった。

これが、俺の祖父母に関する思い出である。ドラマにあるような楽しい思い出でもないが、嫌な思い出ということも全くなく、祖父母はそういう人物なのだと認識して育った。
けれども大学に入ってからというもの、祖父母に会いに行くことはなくなった。夏休みも春休みも長かったが、アルバイトをしていた俺は、帰省したとしても実家に数泊するのみで、祖父母の家まで行くことはなかった。最後に行ったのは、大学入学が決まった時に挨拶に行ったきりだ。盆と正月には両親に言われて電話をかけることはあったが、俺にとって祖父母の存在は徐々に遠いものになっていった。

そんなある日、祖父が入院したという知らせが実家の父から来た。農作業中に脳卒中で倒れ、救急車で病院へと運ばれたのだという。
その知らせを聞いた時、俺は提出期限をとっくに過ぎた卒論を、教授に無理を言って受け取ってもらうべく遅すぎる追い込みをかけている最中であったため、すぐに祖父のもとに駆けつけることが出来なかった。期限を一週間以上も過ぎた卒論を強引に教授に提出した直後、母から「帰って来い」と電話がかかって来た。俺はその翌日、高速バスで実家に帰り、その翌日に四年振りに祖父母に会う事となった。

父と二人、電車とバスを乗り継いで父の実家へと向かった。かつて祖父母が二人で住んでいた家には、祖母が一人で住んでいた。父と祖母の話によると、祖父はすでに退院していたが認知症を発症しており、すでに隣町の老人ホームに入居していた。
俺は父に促されるままに、祖母に大学卒業が決定した旨と形式的な感謝の言葉を伝えた。そのまま一泊して、翌日に祖父のお見舞いに行ってから実家に帰ることになっていた。

翌日、祖父の入居した老人ホームに行くと、祖父は昼食を食べた直後らしく、自室のベッドの上で横になっていた。
「父ちゃん。カオルが来たよ」
そう言って、父は俺を祖父の前に連れ出した。
「カオル大学卒業が決まったから、挨拶しに来たんだ」
しかし、そもそも祖父と話すことに慣れていなかった俺が、何も言わずにベッドに横たわる祖父に向かってどんな言葉をかければいいか分からず、祖父の顔の口元あたりを見ていた。
見かねて父が言った。
「ほら、カオル。じいちゃんに挨拶しな」
「あ、うん。じいちゃん、卒業決まったよ。ありがとう」
 何がありがとうなんだかよく分からなかったが、俺はそれだけ言うと、再び黙り込んでしまった。
「じゃあ、そういうことだから、もうすぐバスの時間だから行くわ。元気でな」
 父がそう言ったことをきっかけに、俺は祖父のベッドから離れようとした。

しかし、それを良しとしない人物が、この場に一人いた。
「ほら、じいさん! せっかくカオルが来たんだから、なんか言いな!」
祖母だった。
「ほら! 黙ってないで、卒業おめでとうって言ってやるんだ!」
祖母は、この状況で祖父と喧嘩を始めるつもりらしかった。
しかしこの時、祖父の症状は会話が困難なほどに進行しており、いつかのように祖母に大声で言い返すことは無かった。
父がやや声を荒げて祖母に言った。
「母ちゃん、病院で大声出すなよ! そろそろバス出るから、もう行くからな!」
「ちょっと待ちな! じいさん、カオルが帰る前にカオルと何か話せ!」
父の言葉も聞かず、祖母は主張し続けた。そして祖母は一つの提案をした。
「そうだ! じいさん。話せないなら、カオルに字を書いてやれ!」
見ると、祖父のベッドの周りには、祖父が書いた習字が貼られていた。前日に行われた、食後のレクリエーションの時間に書いたものらしい。もともと書道が好きだった祖父の字は、以前と比べると弱々しいものにはなっていたが、それでもかつての達筆さを主張していた。
「母ちゃん、そんな時間無いって! 早くしないと、帰りのバスが出るから!」
父の言うとおりだった。乗ろうとしていたバスを逃すと、次のバスは二時間後。そしてバスを乗り過ごしてしまうと、次に乗れる電車は四時間後だった。
しかし、祖母は譲らなかった。
「じゃあ、『カオル』って名前だけでいいから書いてやれ!」
そう言うと、祖母はベッドの横の机の上にあったメモ用紙と油性ペンを祖父に手渡した。
父が言った
「ああもう、仕方ない、それだけ書いてくれ! それだけ書いたらすぐ行くからな!」
祖父は、震える手つきで、それでもしっかりとペンを手に取ると、紙の上を滑らせていった。しかし、認知症の祖父は、かつてのようにすらすらと文字が書けるわけはないのだった。
「何してるんだ! 時間ないんだから、もっと早く書け!」
ただでさえ祖父に無理を言って字を書かせていた祖母が、理不尽に祖父を追い詰めていた。
しかし、祖父のペンが早くなることは決して無かった。けれどもペンを止めることもなかった、祖父は、『カオル』の三文字を書くだけに、数十秒の時間を要した。
すると祖母は言った。
「よし、じゃあ次は『カオルがんばれ』って書いてやれ!」
驚くことに祖母は、病床の祖父に対して、更なる試練を強いるつもりなのだった。そして更に驚くことに、祖父はそう言われた瞬間、ペンを止めることなく次の字を書き始めていたのだった。
「何やってるんだよ! もう時間が無いんだから、書いてもらったならもう行くよ!」
父はそう言うと、祖父から紙を取り上げて俺に手渡すと、
「それじゃあ帰るぞ! また来るから! カオル、帰るぞ」
と言って、急いで病室を飛び出したのだった。俺も父の後を追って走った。そして病院前のバス停から発車する直前のバスに飛び乗ったのだった。
「ばあちゃん、時間ないのにじいちゃんに無理させるなよ」
空いていた席に座ると、父がそう言った。俺は父の隣に座った。
窓の外に見える空は曇っていたが、少し開いた窓から入ってくる風は、二月にしては少し暖かかった。
ようやく落ち着いた俺は、帰りに祖父が俺に向けて書いた紙を見てみた。
そこには、弱々しくも確実な筆跡で、こう書かれていた。

『カオルが』

「カオルが何なんだよ!」
 バスの中で、思わずツッコんでしまった。
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