第八芸術鑑賞日記

評価は0.5点刻みの10点満点で6.0点が標準。意見の異なるコメントTBも歓迎。過去の記事は「index」カテゴリで。

採点基準について

2007-05-29 04:32:46 | 雑記
 いわゆるレビューというものを分類するならば、俺は大きく二つに分けられると思う。それはすぐに思いつく「主観的なものと客観的なもの」だとかそれ自体が主観的な分類ではなく、もっと形式的なものだ。採点しているかいないか、である。
 採点をつけるタイプのレビューサイトには必須のことを書いていなかったので、今ここに記そう。


 採点するという行為は、傲慢だ。偉ぶっている。しかし同時に、「面白かった」「つまらなかった」と一言で済ます感想も全く同様に傲慢である。にもかかわらず、採点という行為が一見したところ「つまらなかった」の一言よりも傲慢であるように見えるのは、それが客観性を装っているためだ。点数化という作業は、採点される個別の例それ自体によらない物差しを使って、絶対的にではなく相対的に行われる。一方で、「面白かった」「つまらなかった」という表現は絶対評価であり、はじめから主観的であることを表明している。だから清清しい。
 ということは、採点を行う人間がそれを傲慢さから救うためには、主観的であることを宣言すればいい。しかし、主観的な採点などにどれだけの意味があるのか。採点に使う物差しが客観的でなく主観的であるなら、それによって計られた長さを信頼することなどできるはずがないではないか。
 そこで肝心なのは、その物差しがどれだけ「自分にとって」正確であるかということである。採点者にもっとも求められるものは客観性などではない。一貫性である。自分と正反対の物差しを持っているレビュアーがいたとしても、その物差しが正確でありさえすれば、立派に信頼できるのだ。評論家という人種のアイデンティティは、自分の物差しをどれだけ磨けるかということの中にある(芸術家という人種のアイデンティティは、自分の物差しをどれだけ信じられるかということの中にある)。精進したい。


 採点の方法にも色々あって、日本人に馴染み深いところでは「五つ星評価」がある。一方で、その感覚で海外の批評などを見ると、満点の作品が全く存在しないことに気づく。それもそのはずで、「四つ星評価」が主流なものの一つだからである(五つ星と四つ星で決定的に違うのは、「普通」という評価を許されているか禁じられているかという点だ。四つ星評価では、どんな作品に対しても「良い」か「悪い」かを答えなければならない)。半分に欠けた星、あるいは白い星を使って、実質的な十段階評価にする方法もよく見られる。星でなくABC...などを使う手ももちろんあるし、学校のテスト式に100点満点で刻むというのも当然ある。
 俺は0.5点刻みの10点満点という二十段階評価を採用しているが、これはスポーツのジャーナリズムから拝借したものだ。その特徴は、6.0点という「標準」を明確に設定してしまうことにある。その標準を上回るか下回るかが、最大の分水嶺である。当然、6.0点を中心にして5~7点台がもっとも多くなる。4.5点以下はかなり厳しい評価だし、8.0点以上はかなり高い評価である。


 最後にイメージとしては。
 【10点】 ……基本的につけない。自分の映画観に土台から影響を与えたり、あまりにも思い入れの強い作品限定。
 【9.0点】 ……大々傑作。年に一本出るかどうか。
 【8.5点】 ……大傑作。これ以上の点数は基本的に絶賛しまくる。
 【8.0点】 ……傑作。年間ベスト級。
 【7.5点】 ……極めて優れた作品。年間ベストテン級。
 【7.0点】 ……優れた作品。佳作~名作ぞろい。
 【6.5点】 ……一歩抜きん出た魅力のある作品。ただし大々的に褒めるまではいかない。
 【6.0点】 ……標準。
 【5.5点】 ……やや不満。何らかの明確な弱点があるか、ややパンチが足りないか。
 【5.0点】 ……不満。
 【4.0点】 ……凡庸な作品、もしくは残念な失敗作。
 【3.0点】 ……見るべきところが皆無なわけではないが失敗作。
 【2.0点】 ……見るべきところのない失敗作。
 【1.0点】 ……個人的にはもはや「嫌い」な部類だが、映画ではある作品。
 【0点】……映画ではない。


マリアの受難(3/24公開)

2007-05-24 23:12:52 | 07年3月公開作品
 4/19、シアターイメージフォーラムにて鑑賞。4.0点。
 本国ドイツでの製作は93年だというからすでに十数年前の作品だが、監督トム・ティクヴァの新作『パフューム』にあわせ、国内初公開された。原案から脚本、製作、音楽にまで名を連ねるトム・ティクヴァの長編映画監督デビュー作だ。
 夫からの暴力と、寝たきり老人の父の介護とに日々を追われる主婦マリア。その日常生活と鬱屈した精神世界を描く……という筋立てを聞けばわかるように、テーマ論的には限りなく辛気くさいお話であり、それを監督らしい才気走った演出で見せるわけだ。
 しかしいかんせん、人間の嫌な部分だとか、閉塞した状況からの解放だとか、そういった題材の選び方にいかにも気鋭の新人らしいあざとさがあり、それを彼流の大仰な演出で見せられると少々辟易する。『ラン・ローラ・ラン』のようにゲーム感覚で突っ走ったり、『パフューム』のようにファンタジーとして昇華したりした方が、深いドラマを描こうなんてするよりも余程芸術性は高いと(俺には)思える。

スパイダーマン3(5/1公開)

2007-05-21 20:53:35 | 07年5月公開作品
 5/1、渋東シネタワーにて鑑賞。7.0点。
 この『スパイダーマン3』を観て最も強く感じたことは、映画は進歩するのだ、という事実である。といっても、本作における何かが映画史に全く新たな頁を記すような革新性を持っていたというわけではない。そうではなくて、むしろこれだけの大作があまりにもさり気なく作られてしまっているという事態への驚きである。
 このシリーズ三作目は、139分という長尺にもかかわらず「詰め込みすぎ」と批判される程に多数の要素が注入されている。『スター・ウォーズ』さながら人間をダークサイドへ堕ちさせる黒い蜘蛛。破壊されてもすぐに自己修復し果ては巨大化までする砂男(サンドマン)。主人公を父の仇と思い込んでいるかつての親友は、空中を飛び回るエアボードで襲いくる。本作でスパイダーマンが対峙することになるのは、これら3人の強敵である。それぞれをメインの敵に据えてじっくりドラマを描けば、3本の映画が撮れるところだ。しかし全ては139分で消化される。物語は早いテンポで進み、無駄なシーンは皆無、わかりにくくもなければ説明過多でもない。では何が犠牲にされているのかといえば、人物描写をはじめとするドラマの深さである。特に、親友ハリーが記憶を取り戻し、主人公が「黒く」なる中盤の展開は、これが低予算のB級映画だったならカルト的扱いを受け(て爆笑され)かねない迷走ぶり。終盤で執事が吐く台詞も衝撃的な唐突さを誇る。
 しかしそんなことは娯楽映画として玉瑕に過ぎない。真に驚かされるのは、スパイダーマン+三人の敵が次々と登場して戦い、ハイレベルのVFXを見せつけることに対して、(俺も含め)現代映画の観客はそれをごく自然なこと、当たり前のこととして捉えているという事実である。映画の売り手側も、驚異の映像をウリになどしない。スパイダーマンという人気ヒーローシリーズの見せ場として当然の仕事をしたまで、といった程度の気負いしか感じられない。
 ちょうど本作を観た日、俺はその直前に2本の映画を観た。キム・ギドクの作家性が強く発揮されたアート志向の『悪い男』と、フランスの低予算インディーズ映画『ザメッティ』とである。ミニシアターを二つハシゴした後、公開初日の本作上映劇場を訪れたわけだ。映画が始まって間もなく、主人公が蜘蛛の巣をハンモックのようにして恋人と寝そべっているシーンがある。カメラはそれを俯瞰で捉え、それからグルッと横から回り、ハンモックの下から見上げる。すると空に何か飛来するものが……というのを、ワンカットで見せてしまう。先に観た2本の映画で同様の表現をしたければ、俯瞰のショットと仰角のショットとを編集で繋いだだろう、間違いなく。こんな何気ないシーン一つで、俺は何か愕然とした気分になった。
 もし百年前の映画人たちが、四人の超人が入り乱れる本作クライマックスのアクションシーンを目撃したなら、その驚愕はいかばかりだろう。少なくとも、優れた映画人ならば、「映像技術は進歩したかもしれないが、物語が酷い。こんなのは進歩ではなく退化だ」などとは、決して言わないだろう。映画はもともと技術の進歩によって生まれた産物だ。技術に支えられてハードウェアが進歩することは当然である。表現しうる領域が増えたということは、まぎれもなく映画という容器が大きくなったことを意味する。もちろん無意味に無駄にVFXを使用することが必ずしも正しいわけではないが、使うことで優れた表現が可能になる場合は確実にある。それを認めないことは誤りだ。別の言い方をしよう。映画は進歩する。それを拒否することは罪である。

バベル(4/28公開)

2007-05-17 04:49:31 | 07年4月公開作品
 5/2、渋東シネタワーにて鑑賞。8.0点。
 (結局は作曲賞の受賞のみに終わったものの)オスカーに六部門ノミネート、作品賞の有力候補として騒がれた話題作。賛否のわれる作品であることは確かだが、少なくとも『ディパーテッド』よりは本作に与えてほしかったし、同じ群像劇という形式でも昨年の『クラッシュ』より断然こちらを推す。監督賞は年功の差でスコセッシでもいいが、作品賞はねえ……
 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。長編デビューから僅か数年で現代映画を代表する人物の一人になった気鋭の若手監督である。同じく彼の監督作である『アモーレス・ペロス』『21グラム』が好きな人なら、本作も間違いなく観る価値がある。
 三度コンビを組んだギジェルモ・アリナガの脚本は、前二作と似ているが微妙に異なる手法。『アモーレス~』は三つの関連するエピソードを順に繋いだオムニバス風作品であり、『21グラム』は一つのドラマを時系列をぐちゃぐちゃにした編集で見せる作品であったが、本作は複数のエピソードを(時系列を若干操作しつつ)並行して描くというもの。
 結局どれも奇を衒っただけの作風じゃないか……と反感を持つ人も多いだろうが、これら三作の手法はいずれも各作品に最も適した形であろうと俺は考えている。『バベル』について言えば、相互のエピソードに関らない登場人物たちを「一つの群像劇」として同じ世界観の中に配置するためにはこの編集によるしかない。『アモーレス~』のように個々のエピソードの魅力が蓄積することで完成する作品ならオムニバス形式でじっくり見せた方がよいし、登場人物たちが互いに密接に関りあう『21グラム』では時制をいじった編集こそが物語を重層的に見せることに寄与していた。彼の脚本に基づく編集は、単なる奇抜なコケオドシではなく、作劇上の要請として必然的な手法だ。


 このことに関連して、本作に対する批判の一つを駁したい。『バベル』はモロッコ、メキシコ、東京と三つの舞台で繰り広げられる物語だが、このうち「東京」のパートに必然性が薄い、というものである。曰く、モロッコで起きた事件で使われた銃のかつての所有者が日本人だった、というだけでは、三つのエピソードを繋ぐ上であまりに貧弱で、とってつけたかのようだ……というのである。
 これはしごく当然の批判であるが、だからこそあまりにも本質を見誤った非難であると言わざるをえない。なぜなら、エピソード相互の関連が「薄い」ということの上にこそ本作のドラマツルギーは成り立っているからだ。「薄い」というなら、東京以外のパートでの関連性も非常に薄い。モロッコの少年がアメリカ人観光客のバスを撃つのは「単なる遊び」であり、そのことで少年とその家族に起こった悲劇と、撃たれたアメリカ人夫婦の悲劇とは全く別個のものである。メキシコに連れていかれたアメリカ人の子供たちが国境周辺で行き倒れることになったのは、単に「運転手の男が短気な性格だった」というだけのことであり、その子供たちがモロッコで撃たれた夫婦の子供であったというのは運命という名の偶然の悪戯にすぎない(夫婦が事件に巻き込まれたために家政婦は子供たちをメキシコへ連れていくことになったのだが、しかし二つの事件そのものに直接的な因果関係はない)。
 これがたとえば、次のような強い連関性を持った一繋がりの事件だったとしたらどうか。日本人ハンターは人間一般への悪意を抱いており、だからこそモロッコに銃を置いていった。それを手にすることになった少年は、或るアメリカ人夫婦に対する怒りを持っており、明確な人殺しの意図のもとに引き金を引いた。撃たれた夫婦は、異人種への強い怒りに燃え、電話で母国の家政婦に理不尽なことを述べ立てた。家政婦はそれに反発し、危険を承知で預かっていた子供たちをメキシコへ連れていった……こんな筋立てにすれば、感情に基づいた人間の行動が引き起こす(通常の意味での)ドラマが完成する。
 しかし、『バベル』は敢えてそれをやらなかったのである。人間の感情が意図を持ってドラマを作り出すという(能動的な)構図ではなく、偶然に支配された事件から様々な感情が(受動的に)生まれてくるという世界一般の悲劇の構図を描いたのである。関連はあるが、あまりにも薄い。そのギリギリの線上で複数のエピソードを組み立て、一度起こってしまったら互いに関りあわない個別の事件を(しかし並行して)描くことで、世界と人間の縮図を描き出してみせたのである。感情から起こるあらゆるドラマは、それが悪意や敵意によるものであっても、(他者への強い意識ゆえに)決して本作のテーマとして喧伝される「コミュニケーションの断絶」とは結びつかないのだ。


 また、並行して進行する三つの舞台での四つのエピソード(モロッコでは少年の家族の物語と撃たれた夫婦の物語とが別個に展開される)は、映像叙事詩としての側面を持つことで映画的高揚をも最高点に持ち上げてゆく。一面の土と岩がスクリーンを覆う荒野としてのモロッコ。生命感に溢れた街としてのメキシコ。空々しい距離感を持って万物が配置された都会としての東京(日本)。三つの全く異なる風景を映像として交互に突きつけてくる編集は、それ自体がひとつの感動的なドラマである。
 それからキャストについて。名実共にハリウッドスターたるブラッド・ピットとケイト・ブランシェットに、『アモーレス~』で監督と共に長編映画デビューを果たしたガエル・ガルシア・ベルナル、そして本作のために見出された菊池凛子を加えたメンバーは、イニャリトゥ流群像劇の集大成とでもいうべき布陣。脚本ありきの作品であるし、互いにぶつかり合うシーンが少ないのでアンサンブルというには語弊があるが、皆印象的な姿をフィルムに刻んでいる。


 ひたすら褒めてきたが、もちろん難点もある。特に、「バベルの塔」をタイトルにまで使ってテーマ性を強く打ち出したことは、もともと脚本に凝ってきたコンビの作品だけに、ややしつこい印象を受けてしまう。『アモーレス~』の頃にあった勢いが削がれた感は否めない。このテーマのあざとさは、そのまま各エピソードの作為的な臭みにも通じる。しかしそれでも俺には、イニャリトゥという監督は(『クラッシュ』の)ポール・ハギスあたりと比べると……というか世界全体を見回しても、映画的高揚というものの本質を掴んでいる稀有な才能のような気がしてならない。
 前二作より良いのかと問われると難しいところで、総体としての出来はあまり変わらない。この監督、平均打率の高さは凄いが、次作ではもう一つ突き抜けた評価のできる大傑作を期待したい。ま、急がなくても時間はまだまだあるはずだ。


神童(4/21公開)

2007-05-15 01:45:00 | 07年4月公開作品
 5/6、シネマライズにて鑑賞。6.0点。
 さそうあきらの原作漫画は99年度の文化庁メディア芸術祭優秀賞および手塚治虫文化賞を受けており、最近の『のだめカンタービレ』が大ヒットする以前にすでに音楽漫画の金字塔として高い評価を受けていた作品。であるが、個人的には過大評価のように思えてならない。漫画という視覚のみに頼ったメディアにおいて、いかにして「音」を表現するかという試みが高く評価されているのだが、必ずしも優れた成果をあげているとは思えず、純粋な作劇上の要請による画作りが多いように感じる。とはいえ、作者自身が「エピソードによって音楽を表現する」ことを目指したと話しているので、ストーリーテリングの素朴な魅力をこそ讃えるべきかもしれない。
 以上は原作の話だが、この映画版はどうなのか。原作がエピソードで音楽を表現していたのに対し、映画では実際に音がでる。この当然の相違が、あまりにも決定的である。実際に音が出る以上、「奏者の精神状態によって奏でられる音が変わる」とか、単純に「上手い人と下手な人」とか、そういった違いも実際の音によって説得力を持たせなければならない。だが、この作品は一般人向けの商業映画だ。クラシックの素養を持った人ばかりを観客として想定するわけにはいかない。だから当然、素人でもわかるレベルで演奏の巧拙を変えてしまわなければならない。しかし素人というのは厄介な存在で、自分にもわかる範囲でレベルが変わったらそれはデフォルメされすぎだ、ということは頭で理解しているのである。だから、松山ケンイチ演じる青年の、音大入試での演奏と授業での演奏とのあまりにも明白なレベルの違いは、うそ臭く見えてしまう。
 そして、「神童」という言葉をタイトルに持ってきたにもかかわらず、成海璃子演じる天才少女の演奏が「神業」であることを実際の音によって説得力をもって表現することなど不可能だ、という根本的な問題が立ち塞がる。だから、彼女の演奏が神童によるものであることを表現するのは、「彼女の演奏を耳にした人々が周りに群がってくる」といった映像による記号的な演出でしかありえない。実際に音を出せない漫画というメディアを使った原作も困難な挑戦だったろうが、実際に音が出せてしまう映画というメディアでそのストーリーを再現しようとした本作もまた困難な挑戦だったに違いないのである。
 その意味で本作は、根本的、本質的に原作とは別物でしかありえない。そして、単体の作品として観るならば、どうしても高い評価は与えにくい。前述のように記号的な演出が多く、また全四巻の原作を丁寧になぞるでもなく大幅に変えるでもない脚本からは未整理な印象を受ける。一昔前の邦画に多かった(ような気がする)妙な間をおいた編集(台詞が終わったあと意味深げにカットをしばらく割らないというような)が多発するのも個人的にあまり好きでない。
 ただし、陰影を濃くした画面作りのシックな佇まいは非常に良い。また、終盤の展開において、言葉で解釈できるストーリーの枠をはみ出し、秘密の聖域を探す一種のファンタジーのように趣を変えるあたりも(一種の「逃げ」ではないかという反省は必要だろうが)映画版ならではの世界観を提示していて良い。

明日、君がいない(4/21公開)

2007-05-13 00:56:49 | 07年4月公開作品
 5/2、アミューズCQNにて鑑賞。6.5点。
 ムラーリ・K・タルリなる若手監督がオーストラリアから突然現れ、カンヌで絶賛を浴びた……というところまでは「衝撃のデビュー」を宣伝文句にする作品としてありがちなお話である。続いて、その物語は「自殺」をめぐる監督の実体験に基づいたものである……と、ここまでもまだ(誤解を恐れず言えば)「貴重な体験を恵まれた」作家の処女作としてありそうなことである。で、さらに続いて、物語の冒頭で誰かが自殺したことが示された上で、一日前に遡って六人の登場人物を追っていくというサスペンス/ミステリ的なプロットになっている……と聞いたところで、俄然観なくてはと腰を上げることにあいなった。
 19歳で本作に取り組んだという監督は、友人が自殺し、その半年後自らも死のうとした……というハードな過去を持っているという。その体験を私小説よろしくシンプルなドラマ作品にしてしまったのなら話は簡単で、彼が今後も活躍できるかは甚だ怪しい。しかし、そんな実体験をもとにしてこのようなプロットの映画を作り、商業ベースに乗せてしまったという事実が、末恐ろしいものを感じさせる。核となる物語そのものは単なる陰気な青春ドラマであって(と敢えて言おう)、それを「見せきる」のは「ストーリー」ではなく「語り口」である。登場人物のうち誰が死ぬのかわからないというプロットが観客の興味を最後まで持続させ、時系列と視点を細かくいじった編集が個々のシークエンスを情報量溢れたものとし、擬似ドキュメンタリー風にインタビューを挿入したりする手法がフォーマリストの注意を喚起する。
 ここには、実体験を基にした扇情的人間ドラマを作る私小説家ではなく、バランス感覚に秀でた映画作家の姿がある。このことにまずは拍手を贈りたい。
 しかし悲しいかな、そうした試みの全てに既視感がつきまとう。とりわけ、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』('03)は本作の上に終始影を落としている。学校を舞台にし、個々の登場人物の視点でカメラを回し、同じシーンを視点と時系列を変えて複数回見せるという編集をし、ラストで誰が死に誰が生き残るのかわからないという構造を持ち、擬似ドキュメントタッチの演出をし……と共通項はあまりに多い。
 そして、物語を彩るキーワードがあまりにもあざとい。ゲイとか身体障害者とか、性とか暴力とか、若者のコンプレックスを描くための便利な道具でありすぎる。監督にとって大事なテーマだったのだと言うなら、なおさらもっと丁寧に描くべきであって、このような群像劇タイプの作品で個々を掘り下げずに扱うべきでない。いたずらに陳腐さばかりが目についてしまう。
 なお、最後の自殺のシーンには素晴らしいリアリティがあり、映像の力で観る者に痛みを突きつけてくる(実際に目の前で人が死ぬのを見たことなんてないから、これはまさに「リアリティ」の問題でしかないのだが)。若者たちの悩みの内容が映画的にベタなのと比べて、この即物的な描写はずっと訴えるものを持っており、喪失感を抱かせる。
 そしてまた、「誰が自殺者だったのか」という答えも非常に納得できる(わからないという人も多いようだが……)。次の括弧内はややネタバレだが、[俺が上で批判した陳腐さが、もしもこの自殺者との対照をなすためのものであったなら、監督の意図は凄すぎると思う。そうであれば評価はもっと上げねばならない。
 原題は『2:37』。作品冒頭で示される「誰かが自殺する」時刻である。

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン(4/14公開)

2007-05-09 16:57:02 | 07年4月公開作品
5/3、渋谷シネパレスにて鑑賞。6.5点。
 はじめに述べておかねばならないのは、「泣ける映画すなわち優れた映画」ではないということだ。人が「泣ける」ために必要な条件はごく些細なものでしかなく、たとえば自分の思い出と密接に結びついたアイテムやシチュエーションがふっと出てきたらそれだけで思わず涙腺が緩んだりする。だから、「母親」を扱ったこの映画が多くの人に涙を流させたとしても、それはごく当然のことである(逆に、誰もがまずもって体験しないような「物語」を創り、それによって「泣かせ」ることのできる映画ならば、それすなわち優れた映画と呼ぶことにやぶさかではない)。
 とはいえ、この映画がそのコンセプトだけで「絶対に」人を泣かせられる作品であるなどという暴論は成立しない。男は誰もがマザコンだなどとまことしやかに囁かれることも多いが、だからといって母親をテーマにしたお話にあらゆる男性が涙できるわけではない。観客の素直な感動を阻害しないだけの力量が必要である。その意味で、本作には及第点以上の評価が与えられると感じた。
 もっとも大きな働きをしているのは樹木希林であり、彼女のうそ臭くない存在感にずいぶん助けられている。また、彼女の若き頃の姿に扮した内田也哉子は、樹木希林の実子だというだけで完璧なキャスティング。オダギリジョーはいつも通りソツなく巧みな出来。
 しかし、(キャストのおかげで高水準の作品になってはいるが)基本的にはごく凡庸な作品である。映画史に何かを残すというような意義は全く無い。素朴なドラマとしては142分の尺は長すぎるし、(原作は未読なのだが)タイトルにもなっている「東京タワー」というアイテムが中途半端にしか活かせていなかったり、葬式後にオダジョーの枕辺に内田也哉子が現れるといった演出のベタさ加減は尋常じゃないし(『さよなら、クロ』の松岡錠司監督だからなぁ)、松竹は国民的ヒットを狙ったようだがそれにしては(原作者のリリー・フランキーがもともとサブカル方面の出身であることもあってか)下ネタが地味に多かったり、なにかと粗はある。
 でもまぁこの映画はそれでいいのだろう。上京して一人暮らししている男として、個人的にもそれなりに思うところはあった。

13/ザメッティ(4/7公開)

2007-05-07 02:39:24 | 07年4月公開作品
5/1、シネセゾン渋谷にて鑑賞。3.0点。
 秘密裏に行われている闇賭博に巻き込まれることになった青年の悪夢体験を描くインディーズ作品で、いかにも単館系の一本。13人の人間が輪になって、それぞれ前の人間の頭に銃を向ける。徐々に人数が減りながらも続けられていくロシアン・ルーレットである。
 ありていに言ってしまえば、13人でのロシアン・ルーレットというこのアイデア一発勝負の作品である。流石に肝となるその場面はよく出来ていて、緊迫感溢れる演出がされている。
 しかしそれ以上の広がりはなく、個人的にはかなり期待外れであった。というか、賭博場へゆくまでの導入が無駄に長すぎて退屈で、そこで早くも睡魔に襲われたのでウトウトしながらの鑑賞だったことを白状せねばなるまい。それにしても妙に観づらい。カットとカットの繋ぎ方の問題なのか、そもそも無駄なショットが多いせいなのか、情報量の無い余白が多すぎて観ていて苛々してくる。半ば自主製作のようだったというから無理もないのだろうが、どうしても洗練されていない印象を受けた。
 ハリウッドで監督自らリメイクすることが決まったという。職人的な技量を身につけてくれたらグッと面白くなる……かなぁ……

ブラッド・ダイヤモンド(4/7公開)

2007-05-05 10:37:10 | 07年4月公開作品
 4/28、新宿ミラノにて鑑賞。7.5点。
 昨年の『ナイロビの蜂』を思い出させるような、非常に良質な社会派エンターテイメント。先進国の小金持ちが喜んで買い求める宝石の裏には、原産国での悲惨な内情があった……という業界の暗部を暴く社会派的な背景のもと、広大なアフリカを舞台にした一大活劇が繰り広げられる。
 テーマの深刻さと矛盾なく娯楽性がしっかり追求されているあたり、二週前に公開の『ブラックブック』とも共通する。このレベルの作品が続出するというのは素晴らしいことだ。
 143分という長尺(これも『ブラックブック』とほぼ同じだ)を意識させないテンポのよさ。ダイヤ業界に関する説明をさりげなく、しかも手際よく上手い具合に前半で済ませ、後半はひたすらアクションとドラマで引っ張っていく。観客に意図が伝わりすぎるくらいに性質の描き分けられた三人の主要登場人物も、それぞれキャラクターの強さで画面を作り上げられる力がある。また、ダイヤを密輸する際に生きているヤギの皮の下に縫いこんでおくといった細部のリアリティが、作品に厚みを与えている。そして、アフリカの広大さをフィルムに焼きつけたロケ撮影が最高に素晴らしい。
 それからこの映画で何より記憶に残るのは、クライマックスの場面、丘(山か?)でディカプリオが腰を下ろし天を仰ぐショット、その構図の一枚絵としての見事さである。「いい映画を観た」というときに、その印象と共に鮮烈に記憶に残っているショットがあるかどうか、それが決定的に重要な意味を持っている。その意味では、ラストシークエンスがあまりにも美しかった『ナイロビの蜂』とやはり共通する。
 監督のエドワード・ズウィック(『ラストサムライ』など)は作家主義的に語られることの少ない人だと思うが、ある意味でそれが『ブラックブック』との最大の違いだろう。悪くいえば「普通」の作風でつまらないのだが、観ていて変に引っかかるというようなところがなく、妙な作為を感じさせないので、このような社会派エンタメを撮る上では最適の演出をしている。堅実な作りゆえの力強さに溢れており、「軽さ」が無いのだ。
 主演のディカプリオもいい(なお、『ディパーテッド』ではなくこちらでオスカーにノミネートされている)。
 鑑賞後、実に満足した気分になれる秀作。

ブラックブック(3/24公開)

2007-05-04 08:40:15 | 07年3月公開作品
5/2、テアトル新宿にて鑑賞。6.5点。
 予告編が実にシックな作りの映画を思わせた本作だが、良くも悪くもヴァーホーヴェンはヴァーホーヴェンだった。
 まずは何が良いって、どこまでもエンターテイメントであろうとしていることが素晴らしい。戦争、ナチス、ユダヤ人、レジスタンス……というキーワードから連想されるような(誤解を恐れず言えば「辛気くさい」)作品とは全く異なり、本作から主だった要素を抽出していくと娯楽映画のそればかりが出てくる。「女スパイが敵の部屋に盗聴器を仕掛ける」シーンでのサスペンスの盛り上げ方なんて、スパイ映画のそれとしか思えない。ラストではミステリーのような二転三転する展開を見せるし、『氷の微笑』のヴァーホーヴェンだけあって随所にサービスシーンがあるし、優等生的な戦争ドラマの枠組みからぐいぐいとはみ出してゆく。そしてテンポのよさ。次々と新しいイベントが起こり、ピンチが連続する。144分という長尺をまるで飽きさせない。
 しかし以上のような長所は、全てそのまま裏返って短所に転じる。戦争映画であり、恋愛映画であり、スパイ映画であり、アクション映画であり、ミステリー映画であり、社会派映画である……という多面性は、その各々がことごとく中途半端であることをも意味する。テンポの良さも手伝って、ヴァーホーヴェン映画にはどうしても「軽さ」がつきまとう。それは人物描写の甘さに最も端的にあらわれており、主人公の造形が非常にいい加減なものになってしまっている。[家族を皆殺しにされたことがどの程度心の中で重みを持っているのか]よくわからないし、[ドイツ人将校になぜ惹かれたのか]という肝心な部分もわからない。[人が人に惹かれる理由なんてどうせ合理的なもんじゃないのは確かだが、だからって「いい人よ」の一言で済ませてしまうのはあまりに適当ではないか]と思う。
 しかしそれでも、終盤で主人公が次々と窮地に追い込まれていく展開や、そこで[排出物をかけられる]シーンなどには、有無を言わせぬ力がある。ヴァーホーヴェンのエンターテイナーとしての力と題材の重厚さとが強烈な市松模様を描き出した力作だ。難点も多いが個人的には好き。