鑑賞前はいかにもジャンル映画的な「ピカレスク・ロマンの秀作」のようなものを想像していたのだが、終わってから頭に浮かんだのは「松田優作はとんでもない」ということと「これは日本の『タクシー・ドライバー』なんだろうか」ということだった。
以前にも映画化されている大藪春彦の同名原作を村川透(監督)&松田優作(主演)コンビで再映画化。このコンビでは他に『最も危険な遊戯』('78)しか観ていないのだが、そのとき受けた「B級アクションのスタンダード」といった印象からすると、本作のクセの強さは相当のものである。その最大の要因が松田優作の怪演で、痩せこけた男になりきるため体重を落とし奥歯を抜いたという、その気概は十二分に発揮されていて、というよりも発揮されすぎていて、通常の意味での映画的なリアリズムは完全に崩壊してしまっているのだが、それと引き替えに舞台演劇的なリアリズム(というのは別に深い意味を込めて言っているわけではないが、たとえば声を張りあげた台詞がリアリティの妨害にならないとか、そういった意味だ)を獲得している。典型的なのが、雷雨の中の演説と終盤の狂気で見られる一人芝居で、「流石にやりすぎなんじゃ」と言いたくなってしまうのが評価の難しいところではあるものの、その「芸」そのものは十分以上に楽しめる。これは先の『最も~』には見られないし、後の『家族ゲーム』('83)ともまた全く異なるアプローチの演技で、ある意味では最もわかりやすく優作の凄さを伝えてくれる作品だろう。この演技を許容できるかどうかが本作を評価するときの最大の分水嶺になる。
で、そういう演技によって演じられているのがどういう物語かといえば、『タクシー・ドライバー』ではないかと思うのだ。脚本の丸山昇一が大藪の原作を全く無視してしまったらしいので、俺も未読の原作は気にせず好き勝手に書くが、これは70年代アメリカ映画への憧れを直球で表現しようとして日本映画が作り上げてしまったカルトなのだろう。60年代末からのニューシネマと、そして「ベトナム戦争後」を意識した一連の作品群と、それら70年代アメリカ映画の持っていた空気(虚無的で頽廃的で刹那的な)に憧れた日本の映画人が、太平楽の中にある自国で同様のテーマを扱いたいと思ったときに生まれてきたのが、「ベトナム帰りの戦場カメラマン」「内向的で寡黙だが狂気を宿している」という(あまりと言えばあまりに直球な)本作の主人公だったのだろう(原作でも主人公は戦争から精神的ショックを受けたという設定らしいが、その「戦争」はベトナムではなくWWⅡだし、性格はもっとハードボイルドなはずだ)。だから、終盤で主人公の人物像が急変するのは作り手たちにとっては当然のことだったのだろうし、「戦争で狂気に目覚めるなんてステロタイプだ」と批判されても「いやそういう話なんだよ」とだけ言い返せば終わるだろう。これらの「設定」が何よりも先立っているため、「相棒を見つけて銀行強盗をする」という「ストーリー」の印象は非常に弱い。このあたりも60年代までとは違う70年代以降の映画という感じがして面白い。
撮影では、シンメトリカルな構図や、白を強調した(電車も含め屋内のシーンで壁が白いのだ)鮮やかな色遣いなど、キューブリックあたりを意識したような気取ったショットが連発される。しかし同時にスローモーションや斜角や長回しのロングショット(冒頭の殴り合い)など様々な技法が節操なく繰り出されるし、その上で躍動するのが松田優作だったり鹿賀丈史だったりフラメンコダンス(?)だったりするので、ちっとも洒落た雰囲気にはならず、いかがわしいカルトっぽさばかりを増してゆく。
優作以外のキャストも個性的で素晴らしい。相棒役となる鹿賀丈史はこれが映画デビューらしいが、直情型のチンピラとしてこれ以上なく適格。鹿賀の個性のために、「相棒探し」というストーリー上の単なる一段階が「キャラクター造形の場」として最大限まで活用されている。執念深い刑事役の室田日出男もいい働きで、彼なくしては優作最大の見せ場も成り立たない。
最大の見せ場=「リップバンウィンクル」は日本映画史上の名場面として忘れられない。演劇風一人芝居ではなくアップで撮られたシークエンスだが、文句なしに素晴らしい。この場面のためだけにでも一見の価値がある(ロシアン・ルーレットの演出としては、相手から弾が見えないように銃口を額やこめかみに当てないといけないので間違っているらしいが)。
優作の演技に拒否反応を起こしたなら、もうそこから後は白けきった気分で観るしかないB級アクションに堕してしまうが、しかし一度は挑戦するべきカルトの名作だ。