第八芸術鑑賞日記

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街のあかり(7/7公開)

2008-08-29 00:17:08 | 07年7月公開作品
 08/2/14、早稲田松竹にて鑑賞。5.5点。
 7/7公開といっても去年の7月だが……名画座にて。
 カウリスマキ自ら命名の「敗者三部作」の最終章とのことだが、確かに見事なまでの負けっぷりである。警備会社で夜勤をしている主人公には、家族も友人も恋人もいない。いつかそんな状態を抜け出そうとセミナーに参加したり、銀行に融資を受けに行ったりするが、何一つ実を結ばない。しかも、それは「映画の主人公が見舞われるドラマチックな悲劇」としてではなく、またカウリスマキらしいコメディタッチの演出によってでもなく、「どこにでもいる敗者の姿を淡々と映したもの」として描かれる。この描写における容赦のなさは素晴らしい。
 不満は二点ある。ラストと主演女優だ(といっても、どちらも主に脚本の問題ではある)。
 簡単な方から述べてしまうと、まずカウリスマキがファム・ファタールとして自信を持っていたらしきマリア・ヤンヴェンヘルミの描き方である。なぜ彼女の視点を入れてしまったのか。彼女が[やむなく騙しはしたものの、主人公に対して後ろめたい]気持ちを持っていることを表現しているかのようなショットを入れてしまったために、[結局主人公の「あかり」には関わってこない]のみならず、ミステリアスなキャラクターともなりえず、実に中途半端な存在になってしまっている。また、心情描写を僅かでも入れてしまったがために、彼女自身が[その後どうなったのか]についてフォローが無いことが違和感として残ってしまう。単なる[主人公が青い鳥を探す途中での路傍の石ころ]として捉えられるような作りになっていてほしい。まぁ、そもそもマリア・ヤンヴェンヘルミという女優が全く魅力的に見えない……というのは単純に好みの問題だろうが。
 それから問題のラストである。徹底して負け続けてきた主人公がようやくかすかな「あかり」に出会うわけだが(タイトルからもわかるようにネタバレではない、と思う)、ここで[ソーセージ売りの女と手を取り合う]というのはあまりにも説得力がないように思われる。それまでの課程において、[あまりにも身近なために意識していなかっただけ]といった描き方がされているならともかく、[手紙を破り捨てるという積極的な拒絶]をしておいてその結末はどうなのか。[もう彼女にすがるしかなかった]という意味でならリアリティもあるしわからなくもないのだが、それならあざとく感動的な演出で見せられても困る。
 ただし、このラストについてはもう一つ別の解釈の可能性も考えていて、それならばアリだと思っている。それはカウリスマキが本作をチャップリンの『街の灯』('31)へのオマージュとして作ったという話からの思いつきなのだが、つまり本作の主人公こそが[盲目の花売り]だったのであり、[ソーセージ売りの女がチャップリンすなわち浮浪者であって、彼女こそが真の主人公だった]というものである。そのような物語として観るならば、本作に対していくらかの愛情を覚えなくもない。
 ともあれ、全体としてはいかにもカウリスマキといった印象である。78分の尺で「無駄が少ない」のは確かだが(上述したマリア・ヤンヴェンヘルミの心情描写などがあるため皆無とは言いたくない)、満腹にもなれない。常に腹八分目をゆくカウリスマキ節なのである。

天然コケッコー(7/28公開)

2008-06-27 02:55:38 | 07年7月公開作品
 08/1/30、目黒シネマにて鑑賞。7.0点。
 一度はスルーしていたがあまりの高評価に名画座で落穂拾い。
 確かに観ないなら観ないで済ませてしまえるが、さりげなさを装いつつ驚異的な映画のセンスを見せつける山下敦弘という監督の手腕には、ひたすら惚れ惚れさせられる。あと完成と同時に夏帆の生涯の代表作になることも決定。
 くらもちふさこの少女漫画が原作(未読)。田舎町を舞台に、全校生徒六人の分校でのんびり暮らしてきた主人公の少女と、東京からやって来た転校生男子との思春期の淡い恋愛もの……という紹介の仕方をすると、ありふれた癒し系青春ドラマにしか思えないが、そして実際そう観てしまうことも可能だが、しかしそれだけを見て取るのではあまりに勿体ない。
 否応なしに想起させられるのは、同年公開の『松ヶ根乱射事件』。同じく田舎を舞台にした同作で閉鎖的な共同体ならではの嫌らしさを描き尽くした山下は、本作でもその毒を封印したわけではない。「シゲちゃん」絡みのシーンに常についてまわる不穏さは、ある意味で『松ヶ根~』のどんなシーンよりも緊張感を有している。同年代の異性もいない(いても少ないだろう)田舎町で、自意識の持って行き場を持てずにいる彼の存在は、決して悪い人としては描かれていないにもかかわらず、出てくるたびに危うさを感じさせる。廣末哲万という役者(初めて観たが、監督業も手がける若手らしい)の凄みは圧巻だ。この怖さを感じ取れずに、本作を「心地よい」だとか「健全」だとか安易に言ってしまう人がいるのは信じがたいとさえ思う。
 しかしそれでも、本作が全体として持っている穏やかな空気は開放的で美しく、万人に愛されるにふさわしい。何といっても素晴らしいのは牧歌的な情景を切り取ったロケ撮影で、人物を映さない(動きのない)いくつかのショットを淡々と繋いだだけでタイトルをクレジットするオープニングから始まって、素朴で嫌みのない(しかし計算ずくの)風景を観客の眼前に広げてみせる。人物に寄らないロングショットを多用して、大きな自然の中に人間がパラパラと存在しているような印象を与えるのも巧い。ローアングルから開けた空を映すのも計算だろう。絵に描いたようなこれらの情景は、田舎を理想化したイメージでしかないのかもしれないが、人間を描く段になると決して理想化を施さない山下演出に対して、「風景の美しさによって作品全体の爽やかさを担保する」という役割を果たしている。
 というわけで、淡々とした風景の撮影とは対照的に、人間を撮る際には、叙事ではなく叙情、どこまでも心情描写を信条とした映画である。プロット上では決して大事件を起こさず、ただただ小事件たち、エピソードの連なりのみで主人公の心情をはっきりと描き出してしまう。この巧さは凄いとしか言いようがない。お祭りでの涙とか、その後のトラックの荷台での居心地の悪さとか、カメラの構図と編集の加減だけで完璧に表現できている。ただし、キャッチに使われている「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」というモノローグだけは、あぁ語らなくても伝わってるのに、と惜しい。
 ともあれ山下は映画が「わかっている」んだろうなぁということが、あらゆるシーンからひしひしと感じられる。そんな山下演出の真骨頂はやはり、ここぞというところでのロングショットの長回しで、「チューしてもええよ」「えっ?」というやり取りのシーンだとか、終盤で土手に座って話すシーンだとか、切り返しを用いずにちゃんと長回しで見せてくれるのが心憎くてたまらない。こういうところでカットの切り張りと表情の演技に頼らず、会話の「間」こそが最も優先して表現されるべきものなんだという強い主張。映画ってものが完璧にわかっているんだろうな、と。「チューしても~」の台詞とか、並の人間なら間違いなくアイドル映画的に表情を撮ろうとしてしまうところ、真横からしか映さない、その禁欲的なまでの演出。
 で、逆に切り返しを使っている場面はどういうところだろう、と探してみると、たとえば前半、橋の上で花を供えるシーンとか、修学旅行の朝、寝起きで呼ばれるシーンとかなんかに見られるのだが、ここでアップで捉えられる夏帆の表情というのが、虚をつかれて驚いた顔なんである。この選択がまた巧くて、夏帆の一番得意な表情を捉えているんじゃないかと思う。笑顔や泣き顔のうまい女優はたくさんいるかもしれないが、こういうちょっと呆けたような、顔面筋の緊張を解いてしまった表情をさらっと見せて魅力的なのが個性だろう。全体に眼の演技に素晴らしいものがあるように感じるし、これから最も注目したい若手女優の一人であるのは間違いない。作品に恵まれてほしいなぁと心から思う。
 相手役の岡田将生も十分以上の働きだし、佐藤浩市、夏川結衣、大内まりらは堅実で安心して観られる。オーディションで選ばれた子役たちや、自然体で楽しそうに演じている学校の先生たちもいい。
 ストーリーそのものは最初から最後まで他愛ないといえば他愛ないまま進み、心情描写重視であることを強調するかのように、敢えてドラマチックな盛り上がりを排している。脚本の渡辺あやはこれが『メゾン・ド・ヒミコ』('05)以来の仕事だが、相変わらずバランス感覚に素晴らしく秀でていて、安心して物語に身を委ねさせてくれる。好印象だったのは、理想化された田舎のイメージに対して、修学旅行先として出てくる都会(東京)についても、「いつか仲良くなれるかもしれない」と言わせる点。それから最後のキスでは、所詮中学生の恋愛ごっこだ(まぁお互い他に対象のいない恋だし)という視点まで見せて憎い。
 レイ・ハラカミの音楽とくるりの主題歌も世界観にきっちり合わせた仕事でさすが。
 山下敦弘、渡辺あや、夏帆、これからの日本映画界に大きな足跡を残す(べき)三人の初期代表作として、記念すべき名作。

インランド・エンパイア(7/21公開)

2007-10-24 01:32:21 | 07年7月公開作品
 07/10/10、恵比寿ガーデンシネマにて鑑賞。採点不能
 大傑作『マルホランド・ドライブ』から五年ぶりのデヴィッド・リンチ最新作。予告編のキャッチには「三時間の陶酔」という言葉が使われていたが、上映時間はちょうど180分。とにかく長い。リンチのファンにしか薦められない一本である。
 困った。評価どころか、好きか嫌いかも自分で判断できない。180分の間、全く退屈せずにスクリーンを観ていたが、かといって時間を忘れて没入していたわけでもない。徹底的に引きこまれ興奮させられるということもなかったが、しかし醒めた視線を送っていたわけでもない。ただはっきりしているのは、他のリンチ作品と比べて初見のインパクトは驚くほど弱かったという事実だけである。ここでいうインパクトとは、ほとんど「個々のショットのインパクト」と同義であり、本作には『イレイザーヘッド』の畸形児、『エレファント・マン』の主人公、『ブルー・ベルベット』のオープニング、『ワイルド・アット・ハート』の首チョンパ、『ツイン・ピークス』の小人、『マルホランド・ドライブ』の浮浪者……といった作品タイトルと同時に思い出される鮮烈な被写体というものが存在しない。しいて言えば「近くに引っ越してきたと語る預言者のおばさん」と「ウサギ人間たち」が挙げられるが、しかし上述のものたちと比べると弱い。このあたり、リンチ作品としては地味であり、感触的に最も近いのは(現実と虚構が揺らぐプロットも含め)『ロスト・ハイウェイ』だろうか。
 再起をかけるベテラン女優が主役に抜擢されるが、その作品は過去に曰くつきのものであり、次第に現実と虚構の境界が揺らいでくる……というハリウッドを舞台にした基本的なプロットは、前作『マルホランド・ドライブ』の姉妹編的な位置づけであり、決して目新しさはない。また、様々なジャンル映画の枠組を使った形式との戯れが素晴らしかった前作と比べ、いわゆるアート系の前衛的な映像に終始しているため(ちょっとホラーはある)、また前作を凌ぐ長尺のため、時間芸術としての映画作品としてはさすがに冗長すぎる印象を否めない。
 物語の解釈についてだが、鑑賞中は全く解釈しようという気が起こらなかった。ただただスクリーンを見つめていただけだった。上映が終了してから、あれ、そういえばいつも通り難解だったなぁ……と気づいたというような有様で、ほとんど無意識的にストーリーを追うことを放棄していたようである。そんなわけで採点も放棄。ただし、上述したような個々のショットや語り口の魅力から考えて、残念ながら最高傑作というにはかなり遠い出来だろうと思われる。
 あと一番不満なのが撮影で、フィルムをやめてDVカムを使ったらしいのだが、そしてリンチはこれが気に入ってしまったらしいのだが、ちょっと受け入れがたかった。もっとピントを厳密に合わせた映像の方が好みである。特に本作では、極端なくらいに顔のクローズアップが頻出するので、観ていて違和感を拭えなかった。
 最後に、エンド・ロールは映画史上最強のカッコよさではないかと思う……と肯定的なことを付言しておこう。三時間の前フリから最後の最後で湧き上がる恍惚。

河童のクゥと夏休み(7/28公開)

2007-09-15 02:09:38 | 07年7月公開作品
 8/29、アミューズCQNにて鑑賞。6.5点。
 大絶賛する声も多いが、そこそこの佳作だろう。「クレヨンしんちゃん」劇場版を大人が観るべき作品にしてしまったことで有名な原恵一の新作は、ひょんなことから河童を拾ってしまった少年と一家のひと夏の物語。河童のデザインが実にキャラクターらしい一方で、人物は眼を小さくするなどしていかにもアニメ然としたものになることを回避し、背景は写実的で綺麗なものを目指す。一般向けとオタク向けとに二極化してしまったアニメ業界にあって明確に前者に属する一本。
 どうにも違和感を拭えないのは、児童文学を原作とした文科省選定のストーリーラインを持ち、「クレしん」よりは親も子供を連れていきやすいだろう雰囲気を作っておきながら、結局のところ大人たちが観て「子供に見せたい良い映画だ」と自己満足して終わってしまうんじゃないかと思えてならないことである。監督はじめ製作者たちにそんな気はさらさら無いのだろうし、子供たちに観てほしいという真摯な気持ちから生まれた作品かもしれないが、しかし結果として本作がどれだけ子供たちに受け入れられるかははなはだ怪しいと思われる。
 たとえばストーリーに目を向けたとき、一見するとこれが無難によく出来ていて、「河童」というファンタジー(仮構の装置としてのSF)を存分に利用する形で、人間の精神の弱さ、環境問題、いじめ、マスコミなど様々なテーマを盛り込んで描いてゆく。極端にあざとい演出もないし、いかにも文科省推薦の優等生だ。しかし、心揺すぶられる体験ができるかどうかという観点からすれば、やや焦点がぼやけてしまっている印象を受ける。そしてこの盛りだくさんの内容は、やはりそれだけの尺がなければ収まらないのであって、本作は実に138分。子供をターゲットとする映画の尺ではない。『もののけ姫』(135分)よりも長い、と言ったらわかりやすいだろうか。くどくど言うつもりはないが、とりあえず具体的に一箇所だけ指摘するなら、ラスト前、主人公とクゥとが別れた後のシークエンスが長過ぎる。
 しかし最大の問題はアニメーションとしての魅力不足かもしれない。単純に「絵が動いている」というだけで観客の目を惹きつける力があるか。予算規模から何からまるで違うので比べるのは可哀想だが、宮崎駿の諸作品を思い出せばその違いはあまりにも明らかである。「王蟲」や「タタリ神」や「ハウルの城」が動けば、その瞬間に勝負が決まってしまうのだ。あえてリアリティを重視した本作にそうした魅力が欠けていることは否めまい。もちろん、そうしたアニメーションの快楽が皆無なわけではない。クゥが泳ぐシーンでの水面の処理などは素人目には見事だったし、中盤の山場で「おっさん」に乗ったクゥが駆け続けるシーンなども頑張っていたと思う。だがそれでも、製作者が伝えたい何かを(結果的に)子供たちの脳裏に刻み込むのは、本作におけるメッセージ性よりも宮崎作品における躍動感なのだと思う。言葉よりも動きありき、なのだと思う。
 あえて批判的にレビューしたが、誠実な姿勢で貫かれた佳品であることは覆らない。こういう作品が年に何本か観られてもいいはずだ。

ファウンテン 永遠につづく愛(7/14公開)

2007-08-24 21:55:37 | 07年7月公開作品
 8/8、銀座テアトルシネマにて鑑賞。6.0点。
 邦題オリジナルの副題のセンスから想像されるようなベタな恋愛ものを期待すると強烈なしっぺ返しを食うキワモノである。一体どんな観客層を想定しているのかよくわからないが、十年後くらいにはトンデモ映画の定番として名を馳せ、懐かしく思い出すことになるかもしれない。俺はといえば「監督:ダーレン・アロノフスキー」にいくらかの期待を抱いて観に行ったのだが、まぁ上映時間の半分くらい(いや九割か)を苦笑あるいは失笑しながら過ごさねばならないものの、飽きずに楽しめたのは事実だ。『レクイエム・フォー・ドリーム』の傑物ぶりには遠く及ばないが、少なくとも『π』をありがたがって観るよりは面白い。
 100分を切る尺でありながら、三つのパートが同時進行するという無茶なプロットである。まずは「現実」で、治療法の見つからない病気で倒れた妻を救おうと研究室にこもる男の姿が描かれる。それから、妻が書いたファンタジー小説の中に入り込んで勇者として戦うという「物語世界」が描かれる。さらに、男の精神や心理を表現した「内面世界」のパートがある。特に無茶苦茶なのは三番目の(内面世界の)パートで、ここではやたらと大仰なVFXを使って抽象的で観念的な映像がえんえんと綴られていくのだが、なぜか男は剃髪して座禅を組むという東洋エキゾチック趣味丸出しであり、東洋人の目からはほとんどギャグのように見える。ちなみに「物語世界」のパートは、「知恵の木」に対する「命の木」がフィーチャーされるというキリスト教的世界であり、しかも舞台は古代マヤ帝国である。この節操の無いごった煮がとんでもなく歪な印象を生んでおり、芸術的には目を覆いたくなるような惨さだが、一度観たら忘れがたい作品になっている。
 そういうわけで素材にクセがありすぎるため、これまでのアロノフスキー作品を特長づけてきた映像と音楽の絶妙なシンクロといった側面もそれ自体として味わうことが難しく、ポカーンとしてスクリーンを見つめている内に終わってしまう。妻から雪景色の中の散歩に誘われるシーンを三度も挿入するあたりの編集にケレン味が堪能できるといえばできるが。
 で、それだけ無茶苦茶なことをしたわりには、最終的に「死の受容」という予定調和的な結末へ進んでしまうのがまたもったいない。いっそのこと「永遠の愛」ではなく「永遠の命」を肯定して終わるというぐらいの思い切った次元に突入してほしかった。

ルネッサンス(7/14公開)

2007-07-24 01:20:45 | 07年7月公開作品
 7/18、シネセゾン渋谷にて鑑賞。6.0点。
 俳優を使って撮った実写映像をモーション・キャプチャーによってモノクロアニメ化した映像美と、古きよきフィルム・ノワールの雰囲気、そしてSF的設定をミックスしたスタイリッシュな一本。
 映像の斬新さということでいえば、一昨年から『シン・シティ』『スキャナー・ダークリー』『300』と続いてきた一連の作品群の流れの中で観てしまうとそこまでの新鮮さはない。もちろん個々の作品は各々の美学を貫いていて作品のカラーそのものはまるで違うのだが、もはやこのタイプの映像美それだけをウリにしては厳しいというのが現実だろう。
 そこで重要になってくるのがノワールとの合わせ技だ。『シン・シティ』がアメコミの実写化のための映像であり、『スキャナー・ダークリー』がディックのドラッギーな小説を実写化するための映像であり、『300』がグラフィック・ノヴェルを実写化するための映像であったように、本作は新たな形で現代にノワールを復活させるための映像なのだ、と言うことが可能だろう。その意味では確かに面白い試みである。誘拐されて消えた女、彼女を探すハードボイルドな警官、消えた女の姉妹との硬派な男女模様、事件を動かしている巨大組織の秘密、背後に潜む謎、甘さを排した非情な結末……と、(ジャンル映画に強いこだわりのあるファンならばまた色んな観点から反論もできるのかもしれないが、俺程度の知識からすれば)確かにこれはノワールである。少なくとも、ノワールの道具立てと意匠には則っていると言えるだろう。
 だが実際面白いかと言われるとかなり微妙な線だ。少なくとも観ている間は退屈しないものの、決してよく出来た脚本ではない。オープニングから登場していかにも思わせぶりなファーフェラなる男のエピソードなども中途半端で、意義がよくわからない。SFと絡めている点についても、現代劇でこれをやったらさすがに地味すぎるから……というような消極的な理由が思い浮かぶばかり。不死を目指す科学者や、世界を支配する巨大企業など、ベタなネタで埋められているので独創性も薄い(そのこと自体はノワールの意識的な模倣を狙った時点で当然のことかもしれないが)。
 しかし、時おりハッとさせられるシーンが見られたのもまた確かだ。ガラスの遊歩道での銃撃戦においてカメラがアップからぐっと引く瞬間だとか、それに引き続くカーチェイスのシークエンスだとか、(全体に黒を基調としてきた中で)誘拐された女が目覚めたときの白が目立つ周囲の風景だとか……こういった名場面でプラス0.5点。観て損をしたとは思わなかった。
 最後に、モーション・キャプチャーによる実写とアニメを融合させた映像が今後どの程度の市民権を得ていくのかには注目したい。その意味で映画のハード面に興味のある人はやはり観ておくべき作品かもしれない。