第八芸術鑑賞日記

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スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師(1/19公開)

2008-08-30 23:36:35 | 08年1月公開作品
 08/2/28、新宿ミラノにて鑑賞。7.0点。
 ティム・バートン、ジョニー・デップのコンビによる最新作は、トニー賞受賞のブロードウェイミュージカルの映画化。マンネリだとか色々言われているが、バートンが作り出す世界はやはり抜群に心地よい。巻頭一番、ドリームワークスのロゴと共に鳴りひびくパイプオルガンでもう一気に持っていかれる。
 そのオープニングは、『チャーリーとチョコレート工場』('05)で色とりどりのチョコレートが作られる過程をCGで見せたのと全く同じように、人肉パイが作られる過程を見せてくれる。粘っこさを強調した血の印象がお化け屋敷的な作り物感に溢れているので、視覚そのものに生理的な嫌悪感を覚えたり、人肉で作られているという設定を思い出して気持ち悪くなったり、といったことはなく、安心してワクワクさせてくれる。この人工的に作り込まれたファンタジー世界に浸れるかどうかが、評価の分かれ目となろう。
 本編が始まってからも、彩度と明度を落とした暗く陰鬱な画面によって、いかにも作り物の箱庭的世界が描かれてゆく。得意のフィールドで自己完結してしまっている印象もないとは言えないが、しかしクオリティそのものがとんでもなく高いので目の保養になる。さすが、セット撮影を基本としていた古き良きハリウッドを継承する男である。
 19世紀のロンドン、常に曇天模様の空の下、妻と娘を奪われた理髪師がカミソリ片手に復讐の殺人鬼と化す……というストーリーの元ネタはイギリス人にはよく知られたものらしく、検索をかけるとつい十年前にも映画化されている(細かいストーリーはそれぞれの作り手によってアレンジされているようだ)。元ネタを知らなかった日本人としては、どう落としどころを見つけるのかさっぱりわからなかったが、思いのほか見事に悲劇としてまとめられていて、嬉しい誤算だった(冷静に考えれば、例の人物が初めて登場した時点で気づいてしまいそうなものだが、とにかくバートンの映像を楽しむことに専念していたため、ストーリーを追うのを二の次にしていた……というのが結果的には功を奏した)。
 ところでこの映画、形式としてはミュージカルである。もちろん原作がそうなのだから言うまでもないことで、実際まぎれもなくミュージカルなのだが、しかし個人的にはミュージカルを観たという感触がほとんど残らなかった。通常ミュージカルを観るというときに、期待し注目し楽しむ(もしくは不満を持つ)部分というのが、本作からは引き出せないのである。それはつまり、本作においては、歌(とそれに付随するダンスなどのショー的な見せ方)そのものは作品の一義的な「目的」になっていないということだ。ミュージカルであることが本作において果たしている役割は、それそのものの魅力の発露ではなく、本来なら凄惨でグロテスクでほとんどスプラッター映画のような外見を持った作品を、一つのショーとして箱庭に封じ込め、寓話ないし作り物の悲劇として経済的に語ってしまうための「手段」なのだろうと思う。だから当然、ミュージカルとしての魅力は期待しすぎてはいけない(記憶に残るナンバーがほとんど無いというのも象徴的だ)。この意味で、元となった舞台は全く知らないものの、本作は根本的な意味で「別物」になっているのではないかと思う(逆に言うと、キラーナンバーの不在ゆえに、舞台版を観たいという気は起こさせてくれない)。
 では本作の一義的な「目的」として台頭してくるのは何かといえば、冒頭から言い続けているように、バートン流に作り込まれたファンタジー世界へ没入することそのものなのだ。吹き出す血飛沫の微細な加減までコントロールされていると思えるような、丁寧きわまりない仕事によってきっちり作られた世界を安心して観ていられるこの感覚は、動的なミュージカルのそれとは全く違う。ラストでの血まみれの姿も実に美しい。
 しかし、世界観の構築は完璧だと絶賛した上であえて言うならば、全体としての完成度はそこまで高くないかもしれない。形式としてのミュージカルにはもう少しそれ自体としての魅力があっても良かったと思うし(なお、劇伴の音楽は素晴らしかったと思う)、見せ場となるカミソリ殺人も繰り返しによる単調さを免れる工夫をするべきだったかもしれない。脚本についても、この単純なプロットで117分とほぼ二時間かけてしまった尺は中だるみを招いているし、ラストショットでは若者二人の姿を入れないとバランスが悪いだろう。
 キャストでは、ジョニー・デップが相変わらず安定した活躍を見せてくれるのは言うまでもないとして、何よりヘレナ・ボナム=カーターが素晴らしい。虫の湧く店で不味いパイを一人売る女主人、という色物キャラとして登場しながらも、中途から切なげな哀れを感じさせるのが最高だ。フィンチャーの『ファイト・クラブ』('99)でもそうだったが、前後半でイメージをがらりと変えるのが(もちろん演出のうまさによるところは大きいが)見事。しかし彼女とジョニデのインパクトが強すぎるため、敵役のアラン・リックマンが少々キャラとして弱く感じてしまったがどうか。アラン・リックマンのパフォーマンス自体は良かったと思うが、敵役の相対的なインパクトの弱さは復讐譚としては難点と言わざるをえないだろう。
 バートンのファンなら黙って観るべき一本。ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーターのファンも同じく。

おとうと(1960)[旧作映画]

2008-08-30 23:22:54 | 旧作映画
 08/3/3、神保町シアターにて鑑賞。6.0点。
 本作の最大の魅力が、撮影の宮川一夫によるかの有名な「銀残し」であることは間違いないだろう。詳しい技法は知らないが、彩度を抑えたこの淡い色調こそが作品そのものの魅力になっている。将来、ストーリーや役者の顔は忘れてしまっても、くすんで美しい画面だったという記憶だけは残るだろう。
 その宮川一夫の功績は言うまでもないのだが、本作はまた市川崑(監督)と岸恵子(主演)の代表作でもあり、同年のキネ旬一位を獲得している。
 幸田文の原作だというドラマは姉弟愛を描いたもので、ベタといえばどこまでもベタである。自らの病気からくるストレスもあって子供たちに辛くあたる継母、それを積極的に諫めない作家の父、体をなさない家庭の中で、姉と弟の絆は強い。弟が徐々にグレてゆく中、姉はひたすら献身的に家事を切り盛りしていたのだったが、ある日不幸が訪れる。
 というわけで、文芸映画のスタンダードとも言うべき雰囲気に包まれた物語である。年頃の姉弟の愛情を描いた物語の常として、二人が男女の仲に発展しかねないのではないかという危うさも秘めてはいるが、そうした近親相姦的解釈を断じて当然のこととは思わせない精妙なさじ加減だ。
 ただし、そのストーリーを味わう上では、市川崑という監督への先入観がない状態で臨んだ方が堪能できただろうと思う。どうしても「モダンな市川」という目で見てしまうので、叙情的なはずの場面でも技巧ばかりが目に付いてしまうのだ。それは特に、見せ場であるはずの終盤の「紐」のシーンなどに顕著に感じられる。同様の理由で、舞台になっていると思われる1920年代の風情もいまいち感じられずに終わってしまった。
 しかし岸恵子が素晴らしい。若い頃の(若いといっても二十代後半での女学生役だが)主演作は初めて観たが、ともすれば暗く地味になりがちな作品を、きびきびした挙措で救っている。市川崑といえばカット割でテンポを作るイメージがあるが、本作にテンポらしきものを見出せるとすれば、それは何よりも岸恵子の動きということになると思う。「おとうと」役の川口浩も役柄にはまっていて秀逸。母役の田中絹代については、さすがの存在感を示すものの、(主に演出の問題で)いまいち描ききれていないと思う。
 なお、ラストは忘れられない名場面である。先に本作では技巧が目立ちすぎているということを述べたが、最後の最後で、やはり技巧の産物ながらも、そのような印象を超えてしまう地点に達するのだ。天才的なラストショット。

悪魔の手毬唄(1977)[旧作映画]

2008-08-29 21:02:57 | 旧作映画
 08/2/29、神保町シアターにて鑑賞。6.5点。
 『犬神家の一族』('76)に続く、市川崑(監督)、石坂浩二(主演)コンビによる金田一シリーズの第二弾であり、シリーズ最高傑作の呼び声も高い。架空の村に伝わる手毬唄の歌詞に合わせ、連続殺人が次々に起こっていく……というストーリーは、前作以上に「見立て殺人」を強調するものであり、やはり怪奇探偵映画として実写化するに適した素材である。
 その原作は未読なのだが、本格にこだわる横溝らしく、[他の作品で使っている「二人一役」を反転させた「一人二役」]のトリックである。しかし本作をミステリとして観たときには、犯人は観客にすぐ想像できてしまうし(公開当時、[岸恵子]は自身の役を殺人鬼だと話してしまっていたらしい。そもそも、ミステリの映画化ではキャスティングから邪推されてしまうという避けがたい問題もある)、金田一耕助は相変わらず連続殺人と[犯人自殺]を防げないし、なかなか評価しがたい。
 ……のだが、山間の村で起こる怨憎劇のドラマとしては及第点をつけられるだろう。現代人には発想できない舞台設定と犯人像、その動機は、確かに興趣をそそる。そこに市川崑の画面作りと演出を加えれば、まぁ水準より上と言ってもいいのではないか。
 また、「秘め続けてきた情念を吐き出す犯人」、「一途に生きてきた磯川警部」、「ひょうひょうとした第三者の金田一」、という三人の並べ方もうまい。三者の立ち位置をこうまとめてみると、金田一耕助という男が物語にとっていかに意味のない存在かということがよくわかる。金田一は純然たる狂言回しであって、その役割は物語を「進行」することではなく、物語を(謎解きによって)(観客に)「説明」することに他ならない。にもかかわらず、いやだからこそ、彼は作品にとって必要不可欠な存在なのであり、重たいドラマと対照的なキャラクター性が要求されるのだ。
 ところで、前作と続けて観て痛感したのは、この金田一シリーズが一般に与えた最大の影響というのは、「血縁関係を持つ人々を襲う連続殺人」という本格ミステリの定番パターンを認知させたことなのだろう、と。また、そんな土着的設定を日本中に広めた監督がモダニスト市川崑だったというのも面白い。
 最後に本作への最大の不満を述べておくと、キャストの誰もが悲鳴の演技が下手じゃないだろうか。ラストの青年の嗚咽も残念ながら聞いていられない。

大誘拐 Rainbow Kids(1991)[旧作映画]

2008-08-29 19:28:40 | 旧作映画
 08/2/29、ラピュタ阿佐ヶ谷にて鑑賞。6.0点。
 採点は全てストーリーに対してだ。刑務所から出たばかりの三人の若者が、身代金目当てに金持ちの老婆を誘拐しようとする……というチンケな計画が、誘拐されたお婆さん自身の強烈なキャラクターによって思わぬ展開を見せてゆくことになる犯罪コメディ。個人的には、天藤真の原作(アルファベットの副題は映画オリジナル)が日本ミステリのオールタイムベスト10に選びたいくらい好きなこともあって、これなら未見の人には原作小説を読んでほしいと感じてしまった。ともあれ、その原作に極めて忠実な映画化なので、ストーリーの面白さだけでも原作未読の観客には大いに訴えられるレベルにあると思う。
 このことは裏を返せば監督岡本喜八の作家性が発揮されていないということであり、わざわざ有名監督を起用して実写化した意義の全く感じられない作品になってしまっている。この点に関しては、原作を既読だろうが未読だろうが衆目の一致するところだと思われる。
 しかし、忠実に映像化された本作を観てわかったのは、この原作にはもともと実写化に不向きな面があったのだということである。その最たるものが例の[百億円]であって、これが実際に見てしまうと思いのほかインパクトに欠ける。文章を読んで[ヘリコプターが重そうにしている様子]を自由に想像している方が遥かに楽しいのだ。
 とはいえ、やはり脚色の仕方によってどうにでもなっただろう箇所も多い。たとえばラストの「お堂」など、「お堂」である必然性はそれほど強くないにもかかわらず、画としての面白みのないネタを原作そのままに踏襲しているのは手抜きではないか。この例に象徴されるように、映像の強度でもって観客の予想を超えていこうとするショットが全く出てこないのは大いに問題だ。
 それからキャラクターの造形である。この点に関しては原作も決して上出来とは言いがたく、それだけにこの映画版に対して一番期待していたポイントだったのだが、残念な結果に終わっている。特に酷いのは若者三人で、ちっとも活き活きしていない。作品そのものがコメディなのだから、「作りこみすぎ」になるのを恐れず、表情や身振りでクセのある雰囲気を出してゆけば、効果的な印象づけが可能だったはずだ(これは小説では難しい)。評判の北林谷栄にしても、決して極端に複雑な性格の人物を演じているわけでもないので、及第点以上といったくらいだろう。緒方拳はうまく脇を締めている。樹木希林はおいしい役どころだったか。
 総じて、よく言えば「安心して見られるユーモアミステリの佳作」、悪く言えば「気概の感じられない凡庸さをまとってしまった優等生的作品」ということになる。北林谷栄のファンなら一見の価値があるかもしれない。なお、テンポの良さだけは原作以上で、その一点で岡本喜八の面目を保っている。

テラビシアにかける橋(1/26公開)

2008-08-29 02:03:30 | 08年1月公開作品
 08/2/27、新宿ミラノにて鑑賞。5.5点。
 ジャンルとしてはファンタジーに分類されるのだろうが、この映画においてVFXによって表現される非現実的な光景や生き物たちは、登場人物の「想像」であり、それを観客の目に可視化したものである。だから本筋のストーリーそのものには一切ファンタジックな要素は入り込まない。このことを踏まえた上ではじめにはっきり言ってしまえば、児童文学の名作だという原作は、実写化せぬが花だったのだろう。登場人物自身が「想像」でしか見ていないものは、読者もまた想像のみで補えばいいのだ。そして、自らも想像することで初めて物語を読むことができる、という読書体験の構造そのものが、主人公はじめ登場人物への感情移入を可能にするようにできているはずだからだ。
 しかしまぁ、せっかく映画化するというからには、彼らの想像を可視化しないことには、それこそ実写化の意義がなくなってしまう。問題はそのやり方だ。この映画への最大の不満は、なぜ「ごっこ遊び」にしてしまったんだろう……という点に尽きる。この年頃の男女(小学校高学年)が二人で「ごっこ遊び」は流石にリアリティがない気がするし(この辺の感覚は人それぞれかもしれないが……)、それを見せられる観客としても気恥ずかしさばかりが先立ってしまう。小説として読むなら、読者自身が人物像を補うこともできるし、リアリティの線引きは比較的自由に動かせるだろうが、スクリーン上で実際に生身の役者が演じているのを見てしまうと、そう容易にはいかない。
 ここはもっと素直に、女の子が書いたファンタジー小説に主人公が絵をつけて二人で物語を創っていく、というような設定にしておけばよかっただろうに、と思う。ごっこ遊びが原作通りなのかもしれないが、そういった脚色は許容範囲だろう。そもそも、主人公が絵の得意な男の子で、ヒロインが作文の得意な女の子として登場するのに、そういう展開にならないのが不自然にすら感じる。ここでも「実写化するのだから演技を活かす方針で」という考え方が幅を利かせているのかもしれないが、必ずしも納得はできない。たとえば学校の休み時間、他の子供たちの目を盗んでノートを交換する、というようなシークエンスだけでも、十二分に映画的なスペクタクルは作れるはずだからだ。これが舞台演劇なら、まだごっこ遊びにも分があろう。しかし映画においてなら「ノートを手渡す」だけでも可能なはずだ(まして想像を実写化するという形でのわかりやすい映像の見せ場もあるのだし)。もちろん終盤の展開を描くのは難しくなるが、そこも含めて脚色の腕の見せ所だろう(別にごっこ遊びのためでなくたって、森を秘密の拠点にすることは不自然じゃないし)。
 この「ごっこ遊び」が見ていて恥ずかしいという点に関しては、まぁ子供向け映画だからということで、観に来た自分の選択が間違っていたのかもしれないが、しかし児童向け映画としても決して最高のレベルにあるとは言えないだろう。特に「ジャニス」の扱いが酷いのは問題だ。あそこは[二人の「仕返し」のせいで恥をかいて仲間外れになった]という展開にするべきところだろう。その上でジャニスを[仲間に迎え入れるから意味があるのであって、上から目線での和解]などは本気で少年少女の成長を描く気があるなら絶対にさせないはずだ。
 ラスト、感動したという人も多いようだが、[妹をお姫様にする]ことで何が好転したのか、個人的にはさっぱりわからない。意味のない行為だと言いたいわけではなく、それは乗り越えるべきものとは別種の問題ではないかと思うのだ。
 不満ばかり書いてきたが、本作には絶対的に擁護したい美点がある。[唐突な退場の後、最後まで少女の姿を出さない]ことである。[回想だろうが何だろうが、アンナソフィア・ロブの姿は絶対に映さない]という姿勢である。[所詮映画の登場人物なのだから、本当の死ではない。またDVDでも借りてくればいくらでも彼女の姿は見られる。しかし、劇場を出る前にもう一度見たいという思いを抱く観客は多いはずであり、その願いを叶えないことが、「もう一度生きている彼女に会いたい」という主人公の心情を疑似的に体験させてくれる]ようになっている。この禁欲は素晴らしい美徳だ。なお、少年を演じたジョシュ・ハーネット、少女を演じたアンナソフィア・ロブの二人は文句なし。作品の質を間違いなく高めている。

街のあかり(7/7公開)

2008-08-29 00:17:08 | 07年7月公開作品
 08/2/14、早稲田松竹にて鑑賞。5.5点。
 7/7公開といっても去年の7月だが……名画座にて。
 カウリスマキ自ら命名の「敗者三部作」の最終章とのことだが、確かに見事なまでの負けっぷりである。警備会社で夜勤をしている主人公には、家族も友人も恋人もいない。いつかそんな状態を抜け出そうとセミナーに参加したり、銀行に融資を受けに行ったりするが、何一つ実を結ばない。しかも、それは「映画の主人公が見舞われるドラマチックな悲劇」としてではなく、またカウリスマキらしいコメディタッチの演出によってでもなく、「どこにでもいる敗者の姿を淡々と映したもの」として描かれる。この描写における容赦のなさは素晴らしい。
 不満は二点ある。ラストと主演女優だ(といっても、どちらも主に脚本の問題ではある)。
 簡単な方から述べてしまうと、まずカウリスマキがファム・ファタールとして自信を持っていたらしきマリア・ヤンヴェンヘルミの描き方である。なぜ彼女の視点を入れてしまったのか。彼女が[やむなく騙しはしたものの、主人公に対して後ろめたい]気持ちを持っていることを表現しているかのようなショットを入れてしまったために、[結局主人公の「あかり」には関わってこない]のみならず、ミステリアスなキャラクターともなりえず、実に中途半端な存在になってしまっている。また、心情描写を僅かでも入れてしまったがために、彼女自身が[その後どうなったのか]についてフォローが無いことが違和感として残ってしまう。単なる[主人公が青い鳥を探す途中での路傍の石ころ]として捉えられるような作りになっていてほしい。まぁ、そもそもマリア・ヤンヴェンヘルミという女優が全く魅力的に見えない……というのは単純に好みの問題だろうが。
 それから問題のラストである。徹底して負け続けてきた主人公がようやくかすかな「あかり」に出会うわけだが(タイトルからもわかるようにネタバレではない、と思う)、ここで[ソーセージ売りの女と手を取り合う]というのはあまりにも説得力がないように思われる。それまでの課程において、[あまりにも身近なために意識していなかっただけ]といった描き方がされているならともかく、[手紙を破り捨てるという積極的な拒絶]をしておいてその結末はどうなのか。[もう彼女にすがるしかなかった]という意味でならリアリティもあるしわからなくもないのだが、それならあざとく感動的な演出で見せられても困る。
 ただし、このラストについてはもう一つ別の解釈の可能性も考えていて、それならばアリだと思っている。それはカウリスマキが本作をチャップリンの『街の灯』('31)へのオマージュとして作ったという話からの思いつきなのだが、つまり本作の主人公こそが[盲目の花売り]だったのであり、[ソーセージ売りの女がチャップリンすなわち浮浪者であって、彼女こそが真の主人公だった]というものである。そのような物語として観るならば、本作に対していくらかの愛情を覚えなくもない。
 ともあれ、全体としてはいかにもカウリスマキといった印象である。78分の尺で「無駄が少ない」のは確かだが(上述したマリア・ヤンヴェンヘルミの心情描写などがあるため皆無とは言いたくない)、満腹にもなれない。常に腹八分目をゆくカウリスマキ節なのである。

コントラクト・キラー(1990)[旧作映画]

2008-08-28 20:26:53 | 旧作映画
 08/2/14、早稲田松竹にて鑑賞。6.0点。
 カウリスマキ十八番の哀愁漂うコメディ風ドラマ……だということが予備知識として持っておくべき最大の観点である。間違っても、「仕事をクビになった独り者の男が人生に絶望し、自殺を図るが失敗、確実に死ぬために殺し屋に自分を殺すことを依頼するが、その直後に恋に落ち、人生が明るいものになってくるという皮肉な事態に陥るも、一度してしまった依頼はもうキャンセルできず、自分で雇った殺し屋から逃げ回る羽目に……」というあらすじだけを聞いて臨むべきではない。
 スラップスティックに展開していく、ハイテンション、ハイスピードのスクリューボールコメディ……を作るのに格好の(というかもう完璧な)設定である。しかしカウリスマキがそれをやることは決してない。舞台(イギリス)、主演(ジャン=ピエール・レオー)ともにフィンランドを離れているが、それでもやっぱりカウリスマキ節なのである。ワンテンポずらしてオチをつける呼吸(ガス自殺しようとした場面での「新聞」の使い方や、殺し屋にもう一度会おうと酒場を訪ねると……という場面など)に典型的に見られるように、スクリューボールならぬオフビートのコメディである。
 もともとが人生を捨てようとしていた男の話であることに加え、その演出のタッチがオフビートで、さらに青などの寒色を中心にした画面作りがされていることもあって、物語はコメディでありながらもしんみりした味わいを帯びてくる。ラストカットに象徴されるように、存在感のある脇役の使い方も粋である。あぁ、これがカウリスマキらしさというものなんだな、とよくわかる。ファンなら垂涎ものなのだろうな、ともよくわかる。
 ただ個人的にしっくり来ないのは、こういうタッチの作品を撮るために、こんな派手な設定(プロット)が必要だったんだろうかという疑問が浮かんでしまうためだ。ハリウッド古典のようなシナリオをカウリスマキが渋くこなしてゆくというのにどうしても違和感を覚えてしまう。そういった面も含めてシネフィル監督らしい茶目っ気なのだと言われればまぁそうなのかもしれないが……
 カウリスマキを観るのはこれでまだ二本目だが、確立されたこのスタイルで淡々と撮り続けているということであれば、何本も観たいとは思わせてくれないなというのが正直なところではある。『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』('89)のように特別なインパクトが加えられているなら別だが。
 しかし宝石店のシーンは凄く好きだ。

レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ(1989)[旧作映画]

2008-08-28 17:40:30 | 旧作映画
 08/2/14、早稲田松竹にて鑑賞。7.0点。
 アキ・カウリスマキの代表作であり、フィンランドに実在するバンド「ザ・レニングラード・カウボーイズ」を世界的に有名にした一本(本作に出演する以前は別名で活動していたらしい)。人家もまばらなツンドラ地帯でロシアの民族音楽を演奏していたグループが、「アメリカに行けば何とかなる」と言われ、バンドで稼ごうともくろむ強欲プロデューサーに率いられてアメリカへ向かう……というロードムービー風オフビートコメディの秀作
 一口にオフビートコメディと言っても色々あるが、本作はきわめて「わかりやすい」ものである。小ネタのギャグを脈絡なく繰り出すものでもなければ(極めて弱いものながらも確実に縛りが存在する、というのがロードムービーという形式の強みだろう)、ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』('84)のように監督のセンスに同一化できなければどうにもならないというものでもない。本作の方法論は非常にシンプルで、視聴覚に直接訴えるインパクトとわかりやすくシュールなギャグ(という表現は矛盾しているが)によって、観る者を選ばず万人に訴求するというものだ。前に突き出したリーゼント頭、つま先のとがったブーツ、黒いサングラス……大所帯のバンドメンバー全員がこの奇抜な格好でそろえ、故郷の寒さで凍死した元メンバーを棺ごと車の上に積んで高速道路を突っ走り、演奏の場を得るとロシア民謡から「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」までを演奏してのける。
 もちろん「馬鹿馬鹿しい」と拒絶する人もいるだろう。しかし、それはあくまでも「観客が映画を選んでいる」という健全な状態であって、『ストレンジャー~』のように「映画が観客を選ぶ」ような隔絶ではない(言うまでもなく、そういう作品もあって然るべきではある)。78分と尺も短いことであるし、気に入らなかった人も時間を無駄にしたと怒る必要はないだろう。
 実在のバンド主演なのだから、もちろん本作の見どころはオフビートコメディとしての側面だけではない。冒頭で聞かせてくれる民謡風音楽も、中途から導入されるロックも、(ダメなところも含めて)聞いていてどこか嬉しくなってしまうようなパフォーマンスだ。
 それから、社会主義はじめ政治的な事柄への風刺が散りばめられているということも書き留めておくべきかもしれない。そこを強調しすぎると、本作のシュールなギャグの数々が意味解釈に縛られたものに堕してしまいかねないので、あまり注意しすぎるのもどうかと思うが、無視するわけにはいかないだろう。
 なお個人的に好きなシーンは、「ビール」と「タマネギ」と「刑務所」。名場面だろう。

偽大学生(1960)[旧作映画]

2008-08-19 20:59:28 | 旧作映画
 08/2/22、シネマヴェーラにて鑑賞。7.0点。
 権利関係からソフト化されていないようだが、劇場で観る機会があったら絶対に逃すべきでない傑作。学生運動ものとして無比の一本ではなかろうか(学生運動もの、という括りが成立するほど作品があるのかわからないが)。大江健三郎の原作は未読。
 時代からいえば安保闘争で盛り上がっていた時期の学生運動が描かれているわけだが、本作の本当の凄みは、そのような時代性に埋もれることなく、いつの時代における学生運動にも当てはまる……いやそれどころかあらゆる「人間の集団」というものが持つ不気味さ、危険、違和感、狂気を表現しつくしてしまった組織論としての普遍性にこそある。
 何度浪人しても入試に落ちてしまう主人公。実家の母には受かったと嘘を伝え、学生服を着て大学生になりすまし、学生運動にまで積極的に参加するようになるのだが、やがて仲間に偽学生だったことがばれると一転スパイ容疑をかけられて……
 学生になりすまして運動にのめりこんでいく主人公の姿も常人の域を超えているが、周囲の学生たちの集団狂気がそれを呑みこんでいってしまう様が圧巻だ。[スパイ容疑から自分を監禁した学生たち]から逃げ出すと、今度は[警察]で監禁され、さらに[精神病院]に監禁される……という「監禁」づくめのプロットは、演出のタッチさえ変えればホラーになりうるものだが、それがブラックユーモアのようにして描かれる。終盤では、若尾文子が「狂気」に対する「正気」を保った人間としてクローズアップされるのだが、その正論が全く何の力も持ちえずに潰される(それもかばったはずの「狂人」の手によって)という皮肉な展開が待っている。とにかくブラックユーモアとしての出来栄えは完璧で、学生運動を描いてこれほどのエンターテイメントが作れるとは思いもよらなかった。
 これで主人公がもっと純朴で正義感に溢れた青年として描写されていたなら痛々しくて観ていられないところだが、ジェリー藤尾のいかがわしい印象のおかげでコメディとして成立している。キャストではこのほか、若かりし伊丹十三(このときは一三)が支部のリーダーを演じているが、すぐに「会議にかけてくるから……」と自らの決断を下さない腑抜けっぷリを好演。もう少しリーダーらしい(悪い意味での)貫禄を見せてもよかった気もするが。
 94分というスピーディな尺も申し分なく、一瞬も飽きさせない。画面の奥行きを活かして個人と集団の対比をぶつけさせるカメラも見事の一語。増村演出の力強さでオープニングからラストカットまでハイテンションが持続する傑作だ。

犬神家の一族(1976)[旧作映画]

2008-08-18 20:44:23 | 旧作映画
 08/2/28、神保町シアターにて鑑賞。7.0点。
 一世を風靡した角川映画の第一作にして、金田一ブームを巻き起こしたヒット作であり、市川崑の70年代を代表する一本。
 ミステリのプロットとしては派手な見立て殺人が多く、必然的に印象的なショットが多くなるため、非常に映画向けの原作(横溝正史)である(と思っていたらスケキヨの逆立ちの意味が省略されていたのは意外だった)。146分と長尺ではあるものの、膨大な人物が登場する原作を過不足なく映画化した脚本は秀逸だ。
 しかし、大衆向け娯楽作品として職人的に無難にまとめあげているのかと思いきや、随所でらしさを爆発させる市川崑の演出に驚かされる。複数の人間が口々に言葉を発するシーンでのカット割のテンポなど、まさに市川節としか言いようのない軽快さだ。旧家の遺産争いという陰湿な題材が、完全にエンターテイメントと化している。ホテルの女中(金田一に「生卵」と言われるシーンは名場面)のキビキビした挙措や、加藤武の警察署長が次から次へと短絡的推理を披露するあたり(これは観客よりバカな奴を出すことで楽しませる典型的手法だ)など、脇役を使って物語のテンポを作っていくのも上手い。またさらに、回想シーンや本来次のシークエンスに入るはずのショットを、流れを断ち切って断片的にインサートする手法なども、嫌味にならない程度に遊んでいてカッコいい。
 そして金田一耕助を演じた石坂浩二である。好みはわかれるところだろうが、彼の飄々とした雰囲気が加えられたことは、原作が映画化されるにあたって得た最も大きな魅力の一つだろう。脇を固めた役者陣では、母親を演じた三人はじめ、女たちの活躍がやはり出色。
 ミステリとしてはごくオーソドックスなトリックで、「[事後共犯]」プラス「[仮面を被った人物がやっぱり入れ替わっていた]」という二点に落ち着くのだが、「[母が人殺しをしてしまったために、偽者と立場が逆転して脅迫されることになる]」という展開が一番の創意なので、それをもう少し原作のように強調してもよかったかなと思う。
 ともあれ、原作を読んでいたのにこれだけ楽しめたというのは、やはり市川演出とキャストのキャラ作りによるものだろう。その意味で、これはやはりきわめて優れた「映画作品」なのだ。