第八芸術鑑賞日記

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クレーヴの奥方(1999)[旧作映画]

2008-06-30 06:08:37 | 旧作映画
 08/2/2、ユーロスペースにて鑑賞。5.0点。
 オリヴェイラを観るのはこれで三本目だが、どれもピンと来ない。苦手なんだろう。
 さて本作、上流社会の伯爵と結婚した貞淑な女が、野性味を持つロック歌手に惹かれてしまい……という古来繰り返し描かれてきたパターンに則ったストーリーを持つが、それもそのはず、原作は17世紀のラファイエット夫人の小説である。だから本作特有のテーマ論的な面白みというのを見出すのは難しい。正直なところ、今さらわざわざ取り上げることもないだろう、と思える。設定を現代に持ってきてロック歌手を相手役に配したというアレンジを褒める向きもあるようだが、別に斬新というわけでもないし(同じ理屈で言えば『ロミオとジュリエット』を不良グループの抗争にしてしまった『ウエスト・サイド物語』('61)の方が遙かに面白い)、これによって現代的な物語になっただのどうのと殊更に賞賛するのも無理がある。
 まぁテーマ論は別にいい(というか告白すれば最後の「手紙」の場面で寝てしまったのでストーリーをわかっていない)。問題は「作り」である。状況設定をテロップで説明して、断続的なシーン(場面)を積み重ねることでストーリーを語る。シーンの一つ一つは長く、会話が主体である。まさに19世紀小説的な組み立てになっていて、映画らしさを感じられない。また、シーンの中で背景が大きく変わることがなく、なおかつ会話中心であるため、舞台劇を見ているような気にさせられる。そのことを敢えて強調していた『神曲』('91)はまだいい。ミシェル・ピコリの存在感と食事シーンの身振りで強度を保っていた『夜顔』('06)もいい。しかしこれは……残念ながらひたすら退屈だった。
 心情描写に力点を置いたということなのだろうが、俳優がその場面を演じている、というようにしか見えず、全く情感がない。映画がダイアローグ中心で攻めるというからには「表情の演技」でこそ舞台劇との差をつけられるはずだが、ここでヒロインの惚れる相手役のペドロ・アブルニョーザがサングラスをかけっ放しで表情を隠しているのだからどうしようもない。同年、17世紀に向った本作と対照的に近未来世界を描いた『マトリックス』もまた主人公がサングラスをかけていたが、キアヌ・リーブスのグラサンが「人物からアナログな感情を隠してデジタルな物語に溶け込ませる」という明確な意義を有していたのに対し、ペドロのグラサンは単なるロック歌手の記号でしかない。
 というわけで、ストーリー(テーマ)もプロット(構成)も全く魅力が見出せなかったので、後は映像を楽しむしかない。そこはさすがに90歳を超えたオリヴェイラ、揺るぎない構図(配置)を保ち続ける。西欧でしか撮りえない美術もお見事。しかし会話シーンばかりのために単調になるのは避けられていない。
 キャストで話題を集めるのは、やはり主演のキアラ・マストロヤンニで、カトリーヌ・ドヌーヴとマルチェロ・マストロヤンニの娘というとんでもない出自だが、個人的には母親同様に面白みに欠けるなぁと思ってしまう。それからもう一人特筆すべきなのはペドロ・アブルニョーザで、彼は実際に歌手であり、本人役で出演している。このあたりのメタフィクショナルなやり口は実にオリヴェイラらしい。個人的に本作で最も好きなシーンは、ラスト、引きのロングショットで撮られたアブルニョーザのコンサート(ほとんどドキュメンタリーみたいなものか)だったりする。

いつかギラギラする日(1992)[旧作映画]

2008-06-30 03:56:35 | 旧作映画
 08/2/1、シネマヴェーラにて鑑賞。6.0点。
 アクションが流行らなくなった80年代の日本映画界でもがき続けた深作欽二(と言ってもその時代の作品は観ていないけど)が、70年代に回帰したように撮ったアクション映画であり、知名度も高く、後期の代表作と言えるだろう。70歳で『バトル・ロワイアル』('00)を映画化した深作だから、60ちょっとでの本作が呆れるくらいハイテンションでも驚くにはあたらない。頭を空っぽにして臨めば、最後まで飽きずに楽しめる。
 しかし、どうしても時代錯誤の印象は否めなかった。特に、作品の精神性を表すタームであるかのように「ロック」を強調しているのは、どうしようもないだろう。音楽シーンでのロック自体がどんどん解体され細分化されていっている時代に、ドンパチと暴走を繰り返して「これがロックだぜ」みたいな顔をされても困るのだ。もちろん、当時をリアルタイムで知らない俺としては憶測でしかものを言えないのは確かだが、少なくともそれが表現として通用する期間はそう長くないと気づけなかったんだろうか、と嘆息してしまう。
 要するに、登場人物たちの行動原理に説得力を持たせられていないのが致命的なんである。だから「ロック」の一言に集約させてしまう羽目になる。木村一八演じるチンピラの若者などは、ライブハウスを作るために命を賭けているが、その情熱がどこから沸いてきているのかサッパリわからない。荻野目慶子が奇声をあげて一種の怪演を見せる「注目されたい症候群(そんな言葉は出てこないが)の女の子」も、中途半端にドラマを作ろうとしたがために、とってつけたような印象のキャラクターになってしまっている。一番まともなのは石橋蓮司だが早々に退場してしまうし、残って金の争奪戦を繰り広げる男どもは、(いい年をした中年男のくせに)どいつもこいつも破滅願望を抱えているかのように無謀な行動を繰り返す。
 感情移入できるようなまともな動機がないとか、ドラマや人物描写が浅いとか、そんな的外れな非難をしたいわけではない。B級アクションにそんなものは必要ない。そうではなくて、上で「行動原理に説得力がない」と述べたのは、たとえば「金」とか「女」とかで十分だから、最低限「とにもかくにも作中人物は必死なんだ」ということは納得させてもらいたい、ということなのだ。それが本作では、若者二人(木村と荻野目)のように中途半端で伝わってこなかったり、後半での中年男たち(萩原や千葉)のように破滅的であることが目的化してしまったような空疎さを感じさせたり、単にストーリーを盛り上げるためのヤケクソにしか見えないのだ。かといって、そういう不満を抱かせないくらいの有無を言わさぬ勢いは出せていない。
 そして、地味ながらも(いやはっきりと)重大な欠陥であるのは、全編を通じて音楽の使い方にセンスがなさすぎることだろう。たとえば終盤、アクションシーンとのクロスカッティングでバンドの演奏を見せるのが理解不能だ。見ながら浮かんでしまった疑問符をどうにも消しようがなかった。一番の盛り上げ所でクロスカッティングを使うというのは、(ここではオーソドックスに)並行する二つの場面を相乗効果で盛り上げるためなんだろうが、主役たちの命がけのチェイスと、背景を持たない脇役バンドのあの演奏とが、同じ土俵で相乗効果を出せると本気で思ったのだろうか。千葉真一が[死ぬ場面]でブルースをかけたりするのも、どこまで本気なのか心配になるくらい気恥ずかしい演出。そして一番厳しかったのが中盤のカーチェイスで、ここでヴォーカル入りロックを流すというのが恥ずかしすぎる(そもそもカーチェイスがいまいちで、『暴走パニック 大激突』('76)もノれなかったし、深作はカーチェイス苦手なんじゃないかと思う)。
 これだけ批判しておいて及第点を与えているのは、(飽きさせはしないということもあるが)前半の現金強奪シーンが最高だったためで、ここは完璧。日本映画でスマートな犯罪を描いた場面としては最高レベルだろう。
 そして萩原健一の存在感が素晴らしい。本作のレベルを底上げするに当たって、彼の貢献はあまりにも大きい。このほかキャストでは、どうしようもないチンピラ役を懸命に熱演した木村一八(ロックな決め台詞は凄い迷場面)にも拍手を送りたい。一方、荻野目慶子の役柄はやはり邪魔に思えてならない。そもそも作品のカラーとして、争奪戦の中心に女を配置する必要がないのだ。荻野目自身は奮闘したと思うが、いかんせん役そのものがいらないので評価しがたい。あとは原田芳雄の役がもったいぶって出てきたわりに弱すぎなのも意味不明。ヤクザ陣営に一人強そうなのを入れておかないと三つ巴に出来なかったんだろうが、そもそも本作のプロットには三つ巴のような群像劇としての魅力はない。
 いうなれば『資金源強奪』('75)のリメイクだ。17年を経て、こちらの方が金はかかっているし個々のシーンの迫力も上。しかしユーモアなどのセンスが致命的に崩壊してしまっているので、総合的なレベルは大差ないか。

仁義なき戦い 完結編(1974)[旧作映画]

2008-06-29 04:14:08 | 旧作映画
 08/1/31、シネマヴェーラにて鑑賞。6.5点。
 70年代日本映画の一つの達成であるシリーズの五作目。副題にある通り、これが完結編となる一本である。物語のテンションそのものは、三作目をピークに下降線を辿ってきている。その事実は否めない。また、三作目、四作目を通じて描かれたシリーズ全体のクライマックスたる「広島代理戦争」の決着はすでについており、前作のラストですでに余韻のようなものすら漂わせていたことを考えれば、本作なしでもシリーズの体裁はついた気がしないでもない。さらに、巧みすぎる脚本を書いてきた笠原和夫が降板してしまっていることも鑑賞前の不安要素になるだろう。実際、この五作目を必要ないと感じる人も多いようだし、監督の深作自身にしてからがあまり熱意を持っていなかったという話も聞く。
 しかしながら、やはりシリーズを追ってきた観客なら観ずには済まされない作品だろうと思うのだ。オープニングは小林旭を会長とする天政会の行進。そしてストーリーの縦軸は北大路欣也によるその会長職襲名。このプロットが明確に示しているように、前作でも強調されていた「世代交代」がテーマとして全面に押し出されている。主役でありながら狂言回しを務めてきた菅原文太、その好敵手たる小林旭らがついに一線を退くに至る、その結末を見届けないわけにはいかない。そしてまた、前作では戦いの後の空しさだけが残ったが、新しい世代の台頭によってこの先も「仁義なき戦い」が続いていくのだということを提示した本作こそ、真の完結にふさわしい。
 一作目からこの五作目まではわずか一年半の間に立て続けに公開されているが、しっかり年月を感じさせるべく施された老けメイクがいい。単に白髪にしているだけだったりもするが、役者たちがもともと持っている渋みも手伝って、組織の大御所となった貫禄を存分に見せる。たとえ物語のテンションが下がっていても、前作までを経てきた観客にとっては、彼ら登場人物たちの動向を見詰めるだけで楽しめてしまうはずだ。脚本が交代したためか、政治的駆け引きを目玉とする群像劇としての魅力は後退しているが、それでも個々のキャラクターは依然として魅力的なのである。田中邦衛演じる槙原の行く末などは、想像以上に感慨深いものがあると保証できる。金子信雄の山守も、少ない出番の中でキャラを完全に表現しきって流石。それにしても彼のその後が気になる……。しかし役者が千葉真一から宍戸錠へと交代した大友勝利は、さすがに二作目と雰囲気が変わりすぎだ。実録らしく、全く暴れないままに警察にパクられるし。
 世代交代の物語としては、やはり終盤で北大路欣也の見せる熱演が素晴らしい。悪く言えばワンパターンな演技だが、眼の力だけで強さを表現してしまうのは十八番か。そして引退する男たち。菅原が小林に「お前とは酒を飲めない」理由を語るあたりでは、シリーズのまとめとしての寂寞感が濃厚に漂い、実録ものに付加されたフィクションとしてのヒロイズムが効果的なアクセントになっている。
 一つの金字塔の締めくくり。

天然コケッコー(7/28公開)

2008-06-27 02:55:38 | 07年7月公開作品
 08/1/30、目黒シネマにて鑑賞。7.0点。
 一度はスルーしていたがあまりの高評価に名画座で落穂拾い。
 確かに観ないなら観ないで済ませてしまえるが、さりげなさを装いつつ驚異的な映画のセンスを見せつける山下敦弘という監督の手腕には、ひたすら惚れ惚れさせられる。あと完成と同時に夏帆の生涯の代表作になることも決定。
 くらもちふさこの少女漫画が原作(未読)。田舎町を舞台に、全校生徒六人の分校でのんびり暮らしてきた主人公の少女と、東京からやって来た転校生男子との思春期の淡い恋愛もの……という紹介の仕方をすると、ありふれた癒し系青春ドラマにしか思えないが、そして実際そう観てしまうことも可能だが、しかしそれだけを見て取るのではあまりに勿体ない。
 否応なしに想起させられるのは、同年公開の『松ヶ根乱射事件』。同じく田舎を舞台にした同作で閉鎖的な共同体ならではの嫌らしさを描き尽くした山下は、本作でもその毒を封印したわけではない。「シゲちゃん」絡みのシーンに常についてまわる不穏さは、ある意味で『松ヶ根~』のどんなシーンよりも緊張感を有している。同年代の異性もいない(いても少ないだろう)田舎町で、自意識の持って行き場を持てずにいる彼の存在は、決して悪い人としては描かれていないにもかかわらず、出てくるたびに危うさを感じさせる。廣末哲万という役者(初めて観たが、監督業も手がける若手らしい)の凄みは圧巻だ。この怖さを感じ取れずに、本作を「心地よい」だとか「健全」だとか安易に言ってしまう人がいるのは信じがたいとさえ思う。
 しかしそれでも、本作が全体として持っている穏やかな空気は開放的で美しく、万人に愛されるにふさわしい。何といっても素晴らしいのは牧歌的な情景を切り取ったロケ撮影で、人物を映さない(動きのない)いくつかのショットを淡々と繋いだだけでタイトルをクレジットするオープニングから始まって、素朴で嫌みのない(しかし計算ずくの)風景を観客の眼前に広げてみせる。人物に寄らないロングショットを多用して、大きな自然の中に人間がパラパラと存在しているような印象を与えるのも巧い。ローアングルから開けた空を映すのも計算だろう。絵に描いたようなこれらの情景は、田舎を理想化したイメージでしかないのかもしれないが、人間を描く段になると決して理想化を施さない山下演出に対して、「風景の美しさによって作品全体の爽やかさを担保する」という役割を果たしている。
 というわけで、淡々とした風景の撮影とは対照的に、人間を撮る際には、叙事ではなく叙情、どこまでも心情描写を信条とした映画である。プロット上では決して大事件を起こさず、ただただ小事件たち、エピソードの連なりのみで主人公の心情をはっきりと描き出してしまう。この巧さは凄いとしか言いようがない。お祭りでの涙とか、その後のトラックの荷台での居心地の悪さとか、カメラの構図と編集の加減だけで完璧に表現できている。ただし、キャッチに使われている「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」というモノローグだけは、あぁ語らなくても伝わってるのに、と惜しい。
 ともあれ山下は映画が「わかっている」んだろうなぁということが、あらゆるシーンからひしひしと感じられる。そんな山下演出の真骨頂はやはり、ここぞというところでのロングショットの長回しで、「チューしてもええよ」「えっ?」というやり取りのシーンだとか、終盤で土手に座って話すシーンだとか、切り返しを用いずにちゃんと長回しで見せてくれるのが心憎くてたまらない。こういうところでカットの切り張りと表情の演技に頼らず、会話の「間」こそが最も優先して表現されるべきものなんだという強い主張。映画ってものが完璧にわかっているんだろうな、と。「チューしても~」の台詞とか、並の人間なら間違いなくアイドル映画的に表情を撮ろうとしてしまうところ、真横からしか映さない、その禁欲的なまでの演出。
 で、逆に切り返しを使っている場面はどういうところだろう、と探してみると、たとえば前半、橋の上で花を供えるシーンとか、修学旅行の朝、寝起きで呼ばれるシーンとかなんかに見られるのだが、ここでアップで捉えられる夏帆の表情というのが、虚をつかれて驚いた顔なんである。この選択がまた巧くて、夏帆の一番得意な表情を捉えているんじゃないかと思う。笑顔や泣き顔のうまい女優はたくさんいるかもしれないが、こういうちょっと呆けたような、顔面筋の緊張を解いてしまった表情をさらっと見せて魅力的なのが個性だろう。全体に眼の演技に素晴らしいものがあるように感じるし、これから最も注目したい若手女優の一人であるのは間違いない。作品に恵まれてほしいなぁと心から思う。
 相手役の岡田将生も十分以上の働きだし、佐藤浩市、夏川結衣、大内まりらは堅実で安心して観られる。オーディションで選ばれた子役たちや、自然体で楽しそうに演じている学校の先生たちもいい。
 ストーリーそのものは最初から最後まで他愛ないといえば他愛ないまま進み、心情描写重視であることを強調するかのように、敢えてドラマチックな盛り上がりを排している。脚本の渡辺あやはこれが『メゾン・ド・ヒミコ』('05)以来の仕事だが、相変わらずバランス感覚に素晴らしく秀でていて、安心して物語に身を委ねさせてくれる。好印象だったのは、理想化された田舎のイメージに対して、修学旅行先として出てくる都会(東京)についても、「いつか仲良くなれるかもしれない」と言わせる点。それから最後のキスでは、所詮中学生の恋愛ごっこだ(まぁお互い他に対象のいない恋だし)という視点まで見せて憎い。
 レイ・ハラカミの音楽とくるりの主題歌も世界観にきっちり合わせた仕事でさすが。
 山下敦弘、渡辺あや、夏帆、これからの日本映画界に大きな足跡を残す(べき)三人の初期代表作として、記念すべき名作。

アヒルと鴨のコインロッカー(6/23公開)

2008-06-21 23:58:41 | 07年6月公開作品
 08/1/30、目黒シネマにて鑑賞。5.5点。
 採点はちょっと厳し目かもしれない。伊坂幸太郎の同名原作が(彼の作品としてはかなり)ストレートなミステリなので、既読だった身としてはつい(加点方式ではなく)減点方式で値踏みするように観てしまった。ミステリとしての構造を知った上で観ると、美点よりも粗ばかりが目立って印象に残ってしまうのは致し方ないところだろう。
 逆に言えば、原作未読で鑑賞すればプロットを追うだけでそこそこ楽しめると思う。しかしもう一度裏返して言えば、ストーリーを知った上で観たら高く評価できなかったというのは、映像やら演出やら映画作品としての力量が真に問われる部分で不満が残ったということでもある。本作に魅力があるとすれば、それは原作の力によるところが大きいと言わざるをえないのではないか。印象的なアイテムとして登場するボブ・ディランの歌を実際に流せることとか、「神様をコインロッカーに閉じこめる」シーンとか、実写化ならではの強みもあったはずなのだが、それが効果的に機能していたとは言い難く、伊坂作品につきものの気どりにしか見えなかったのは残念。
 ただしキャストは大いに奮闘していたと言えるかもしれない。全体に役を作りすぎな印象も受けるが、コメディタッチの前半を引っ張る濱田岳といい、演技云々以前に雰囲気重視でキャスティングしたと思しき(ここでは正しい)田村圭生および松田龍平といい、作品の質を上げることに大きく貢献している。それから瑛太は、これが役者としての代表作になったんじゃないかと思う。
 ちなみに、本作の予告編は2007年度のベスト予告編になりうる秀逸なものだった。

 以下、文字を隠していない部分も含めてネタバレ気味なので、未見の方は読まないように。

 もともと個人的には[叙述トリック]をどう実写化したのか、という点にだけ興味を持って観たようなものだったのだが(ところで本作に限らず、「実写化不可能と言われた云々」という惹句は、ミステリファンにとってはほぼネタバレも同然だと思うのでいかがなものか)、最も無難な線に落ち着いていた。[主人公の思いこみによって「河崎」と見なされた男]を一旦は画面に登場させてしまい、その場面を[後でキャストを変えて再現]するというものだ。しかしこの仕掛けをやる場合、[フェイクシーンは主人公の想像だ]ということを強調しておかないと、唐突かつ反則気味になる。映画作家なら最も繊細であるべき「視点」の問題に対して、あまりにも甘い。
 やや余談になるが、トリックを知った上で見ていると、残念なことに原作そのものの難点も感じてしまった。主人公が単なる狂言回しであるのは、[叙述トリックのために第三者の視点が必要だった]という作劇上の要請にすぎないし、それをあからさまにしないため、無理やりにエピソードを盛り込んで青春物語にしてみたり、「彼は彼らの物語に飛び入り参加している」とか文学めかした台詞を強調したり、どことなく無理がある。あと[二年も住んでいれば、どんな事情があれ多少の読み書きはできるようになる]はず……


グミ・チョコレート・パイン(12/22公開)

2008-06-20 23:52:34 | 07年12月公開作品
 08/1/30、テアトル新宿にて鑑賞。6.0点。
 オーケンこと大槻ケンヂの同名原作を、かつてのバンド仲間(というか解散はしていないらしいが)でもあるケラリーノ・サンドロヴィッチが監督して映画化。大槻ケンヂには今まで触れてこなかったので原作小説も未読なのだが、登場人物たちの「現在=2007年」の姿を導入にして回想形式をとったこの映画版には、かなり大胆な脚色が施されているようだ。また冒頭からメタフィクショナルな遊びを入れていくなど、監督の演出はケレンたっぷりのもの。とはいえ、同時代に青春を送った友人の原作を扱うに際して、そのエッセンスを損なうまいとしているような印象も受ける。そのため、題材や演出の第一印象とは裏腹に、突飛さは薄く、無難に青春映画の枠内に収まっている。
 著者の半自伝的作品であったという物語の舞台は1986年。主人公は地味な高校二年生。赤川次郎や秋元康にうつつを抜かす同級生たちを冷笑し、あいつらと俺は違うのだと自分に言い聞かせるべく、カルト映画やアングラバンドにのめり込む。そんなありがちなサブカル少年の青春を自嘲気味に描き出す。
 1986年といえば、俺の生まれた年である。だから俺は主人公より17歳年少になるわけだが、この17年の差は時代を変えたのだろうと思う。ちょっとやそっとのマニアックさでは、どんな映画であれ音楽であれ、ネットで検索をかければゴマンと記事が見つかる。同好の士は世の中に無数にいる。ネットも無く、マイナー作品に詳しい人は稀にしか見つからず、少しずつ少しずつ開拓してゆくしかなかった時代というのは(それゆえの苦労や喜びもひっくるめて)もう消え失せてしまったものかもしれない。そして今や、「他人とは違う自分」になるためにマイナーなものを偏愛する嗜好は、「中二病」と揶揄されたりもする。
 しかしそれでも、自分が見つけた宝物にアイデンティティの拠り所を求めようとするのは、文化系人間なら誰しも通る道のはずだ。その志向性は時代や環境が変わろうとそう簡単に変わるものではない。その意味で、日本の80年代サブカル事情を背景にした本作は、意外なほどの普遍性を有しているのかもしれない。
 とはいえ、具体的な固有名詞を効果的に用いることでリアリティを出してゆく基本演出が、ごく限られた文化圏の中でしか通用しないものであることは確かだ。「ジョン・カーペンターをきっかけに憧れの女の子と話がはずむ」とか「石井聰亙のオールナイトでデート」とか、十数年の誤差で生まれている映画ファンとしてはニヤリとさせられたものの、この感覚が伝わるのはあと何十年だろう、と考えると決して長くない気もする。
 しかしともあれ、本作で最高の名場面は、サブカル知識を一切必要としないラストに登場する。二度と戻ってこない瞬間への切ない郷愁を掻きたててやまない、その踏み切りでの会話シーンには一見の価値あり。

ああ爆弾(1964)[旧作映画]

2008-06-15 11:47:31 | 旧作映画
 08/1/29、ラピュタ阿佐谷にて鑑賞。6.0点。
 いかにも岡本喜八らしいB級珍作ミュージカル。浪曲や狂言のようなナンバーまで詰め込んで、B級チックなドタバタコメディをハイテンションで展開する。岡本は後に『ジャズ大名』('86)なんてタイトルの作品も作るわけだが、こういうの昔っから好きだったんだなぁ、と。
 『ジャズ~』の方は筒井康隆の原作を映画化したものだが、本作のミュージカルとしてのデタラメさは流石にオリジナル作品だろう(ジャズと狂言をユーモア小説で表現した上に使い分けるというのは想像しにくいし)……と思いたくなるところ、実は原作小説が存在する。それもサスペンスの巨匠ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ名義の短編「万年筆」)である。未読だから詳細はわからないが、要するに基本のプロットを拝借した上で完全な喜八作品に仕上げてしまったのだと言っていいだろう。だから、万年筆爆弾をめぐるサスペンス仕立てのストーリーは二の次で、伊藤雄之助の目をひんむいた顔のアップだとか、越路吹雪の叩く太鼓だとか、強引なギャグと化すラストの砂塚秀夫だとか、そういう断片的なイメージばかりが印象に残る。
 しかし同時に、ノリがやたらとハイテンションな割にはプロットが普通のコメディなので、突き抜けられなかったもどかしさを受けるのも事実。思いついたからってよくこんな馬鹿なことやるなぁ……と苦笑いしながら飽きずに95分を楽しめてはしまうものの、こりゃ凄いと圧倒されるところまではいかないのだ。狙ってシュールに徹したような意図が感じられてしまうのも難で、どうも素直に笑わせてもらえない。まぁ海外小説の原作をこんな風に翻案してしまうセンスは確かにぶっ飛んでいて見物ではあるのだけれど。
 しかし、岡本喜八の監督作というよりも伊藤雄之助の代表作として捉えたなら、これは一見の価値ある作品かもしれない。今の映画ファンに一番知られているのは『太陽を盗んだ男』('79)の冒頭30分で見せる鬼気迫る演技だろうが、若い頃(40代半ばだから若くはないか)の元気な主演作というのは新鮮でいい。しかしそういう意味では、後半にゆくにしたがって彼がだんだん目立たなくなっていくのが残念。
 カルト映画としては好事家必見か。公開当時の併映が『砂の女』だったらしいけれど、ずいぶん息苦しい二本立てなことで。

独立愚連隊(1959)[旧作映画]

2008-06-13 12:55:09 | 旧作映画
 08/1/29、ラピュタ阿佐谷にて鑑賞。6.0点。
 戦後の日本映画としては非常に珍しい娯楽戦争活劇。それだけでも十分に存在意義がある。もちろん陰惨な反戦映画や重厚な社会派を否定したいわけではない。ただそれらと同時に、人間の底抜けの強さを描いた本作のような作品があることは、日本映画史の射程を大きく伸ばしてくれているはずだ。
 弟の死の真相を探るべく、北支の最前線で孤立する独立愚連隊まで単身で乗り込む従軍記者の主人公。記者らしからぬ射撃の腕前で西部劇のヒーローのような銃さばきを見せ、戦地にありながら出会う女と次々にロマンスを繰り広げ、弟の死を追求していく場面ではハードボイルドな男になり、最後は『ワイルド・バンチ』から源義経伝説。佐藤允が演じたこの主人公は、戦争という巨大な力の前に翻弄される存在ではない。己の力で運命を切り開くヒーローらしいヒーローである。浅黒い顔で不敵に笑う、その南国生まれのような容貌はハリウッドスターを思わせる。素晴らしい役者だ。
 監督は岡本喜八。本作の娯楽戦争映画というフォーマットがこうも歓迎されるのは、彼への信頼によるものかもしれない。後に『肉弾』('68)などでシニカルな戦争風刺を見せる戦中派の彼が、そのカラッとしたユーモアで痛快アクションを撮ってくれたことに万雷の拍手である。
 しかし欲をいえば、もっと弾けてほしかった。快活そのものではあるのだが、同時にハリウッド古典のようにどこか落ち着いた佇まいもあって、緊張を強いられる瞬間がない(サスペンスにまで達さない)ために、佳作どまりという印象を受けてしまう。一方、そうした予定調和的な印象に反して、プロットがいまいちまとまっていないのも難点か。特に、ラストの銃撃戦へなだれ込むくだりなどは、ユーモアというより強引さが感じられてしまって少々鼻白んだ。
 このほか興味深いキャストとして、三船敏郎が他では見られないキャラクターを演じていることで有名だったり、前年『隠し砦の三悪人』で印象的なデビューを果たした上原美佐がここでもやはり抜群の存在感を示して面白い。
 日本の戦争映画として他では見られない輝きを持った一本。

鴛鴦歌合戦(1939)[旧作映画]

2008-06-12 05:43:46 | 旧作映画
 08/1/29、NFCにて鑑賞。6.5点。
 長らく観たい観たいと思っていたが、昨年のシネマヴェーラのマキノ特集でもやらなかったし、ようやくの鑑賞。
 30年代に作られた和製オペレッタの金字塔。もともと弥次喜多ものを撮る予定だったところ、片岡千恵蔵が病気になったために、彼の負担を減らした(最後に一応チャンバラもあるが)ミュージカルが企画され、本作が誕生したという。もし当初の予定通りに進んでいたなら戦前の数多ある時代劇の一本というだけで終わっていただろう……と考えると、本作が今日の圧倒的評価を得るに至った運命はなんとも歴史の面白さとしか言いようがない。
 序盤からアクセル全開で、冒頭まもなく、ジャズのリズムに乗ったディック・ミネが「僕はオシャレな殿様~♪」と歌いながら歩いてくるというインパクト大のシーンに出くわす。ここで早くも、誰もが何かしらの衝撃を受けることになる。といっても当時の観客にとっては、(実際のところはよく知らないが、想像してみるに)ジャズは時代の最先端をゆくものとして盛んに耳にしていただろうから、自然な形でわりあい素直に受け入れたのではないかという気がする(ミネの本業はジャズシンガーだ)。それを衝撃的なものと感じるのはいつだって後の時代の人間で、この映画を「再発見」した映画人たちは驚くわけだ。戦前にしてなんてモダンなんだと(同時代から評論家たちは褒めていたらしい)。
 だが一方、映画史的興味なんて持っていない現代の一般観客(フィルムセンターなんかに行く人種ではなく)はどういう衝撃を受けるのだろう、と考えると、悲しいことに「これが横文字のミュージカルかよ」という苦笑まじりのものなんじゃないかと思う。大人が真面目に見るに堪えるようなものではないと。牧歌的なものしかなかった時代の産物、すでに絶滅した伝統芸能の一種のように見られるのではないかと思うのだ。確かに、輸入してきた西洋音楽をそのまま替え歌にするといった事例に典型的な、ごく素朴な形でのオペレッタは、大正から昭和初期にかけての一時代にしか無かったものだし、そうした意味では過去のものである。しかし、にもかかわらず、「僕はオシャレな殿様~♪」に失笑する現代人でさえも、本作を最後まで鑑賞し終えたときには「あぁいい映画を観たな」と思わせられるはずだ。これは紛れもなく、時代を超えた名作たる一本なのである。
 最大のポイントはやはり、史上最強の職人監督たるマキノ正博ならではの軽快なテンポだろう。69分という短い尺の中で、歌を主役としながらも、多数のキャラクターに厚みを持たせた人情時代劇を展開してみせる。千恵蔵をめぐってラブコメを繰り広げる娘たちは実に三人もいて、ヒロイン以外の二人にもそれぞれきっちり見せ場を作る。ヒロインの父は貧乏人だが、その貧乏具合が記号的描写に堕すことは決してなく、執拗に繰り返される「麦こがし」によって笑いを誘う。殿様もまた、骨董品コレクターながらも目利きでない駄目男……という活き活きした個性を獲得。で、その骨董品がらみのエピソードが最終的に人情、ロマンスと結びついて、さらに駄目押しの千恵蔵チャンバラから大団円へ。この尺の中で展開されるウェルメイドな喜劇として、完璧な脚本だ。同時代の他の日本人監督がコレをやろうとしていたら惨憺たる結果になっていたのではないか。
 仕草や癖によってキャラクターを造形していくマキノの演出が素晴らしいのはいつも通り(ヒロインの「ちぇっ」が江戸の下町らしい陽気さで物語を明るくするのに大きく寄与している)だが、もちろんキャストも奮っている。本作のときすでに26歳になっていたというヒロイン市川春代の愛らしさも凄いが、わずか八歳違いの34でその父親役を務めた志村喬もまた凄い。後に47歳で『生きる』を演じるわけだが、まさに老け役の天才。本業役者でないミネのゆるい雰囲気も本作にはよくはまっている。病み上がりの千恵蔵も及第点。
 個人的に一番好きなのは、オーケストラの曲を和楽器のみで演奏しているかのように見せかけるシーン。馬鹿馬鹿しくも楽しいなぁ。そういう意味ではおそらく、今日の映画ファンの間での名声から鑑賞前に期待しすぎるのは作品にとって不幸なことだろう。一コメディとして存分に堪能したい。カルト化も殿堂入りもその後だ。

クローバーフィールド HAKAISHA(4/5公開)

2008-06-06 07:14:07 | 08年4月公開作品
 08/4/14、渋東シネタワーにて鑑賞。5.0点。
 評価は低くしたものの、将来的にエポックメイキングな作品として記憶されることになるやもしれず、映画好きならば見逃すべきでない一本。
 一般人巻き込まれ型のパニック映画だが、登場人物の一人がハンディカメラで撮影した映像のみをもって本編とする『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』('99)式の設定を採り、「何が起こっているのかもよくわからない」という完全なる一人称視点を獲得している。これを85分間貫徹させたことは、ホラーである『ブレア~』とはまた違う意味で画期的だと言えるだろう。個々のアイデアは既存の作品に見られるものであり、ディザスタームービー([怪獣]映画)としてジャンル映画へのオマージュが捧げられているのだが、しかし全体の印象としては紛れもなく9.11後のアメリカ映画に他ならない。徹底した報道管制のもとに宣伝を行ったプロデューサーJ.J.エイブラムス(傑作だった『M:i-3』('06)の監督。連続ドラマ『LOST』の人と言った方が通りはいいか。なお本作の監督はマット・リーヴス)の努力を無駄にしないためにも、これ以上の予備知識を持たずに鑑賞するのが吉である。

 というわけで、以下は文字を隠さずにネタバレする。

 個人的に低評価とせざるをえなかった要因はいくつかあるのだが、まずはやはり形式上の冒険が成功ばかりではなかったという点を看過できない。この擬似ドキュメンタルな手法の最大の売りが臨場感と緊迫感の醸成にあることは大方の同意を得られると思うのだが、しかし仮にも商業映画としての体裁をまとっている以上、揺れまくるカメラによる必要最低限の情報で巧妙に状況説明をせねばならず、観客はそのために制作者たちが払ったであろう大変な努力を想像させられてしまうのである。神の視点からのエスタブリッシング・ショットを禁ぜられている中で、撮影者と被写体との関係(物理的位置関係と心理的関係)がどうなっているのかを自然に伝えるのは極めて困難な作業であり、そのために駆使されたカメラワークは大変なものだろう。しかし観客にそれを意識されてしまう瞬間がたった一度でもあれば、「臨場感」はそれから遠く離れた「技術的関心」に変わってしまう。ましてや本作においては、「カメラマンとして素人であるはずの作中人物が撮っている」という設定であるため、それを思い出すたびにまた気が萎えてしまうのを避けられない。
 ジャンル映画として観たときにはまた別種の不満点が散見される。特に、登場人物たちを紹介するためのホームパーティのシークエンスがえんえんと続く前半の退屈さはちょっと見過ごせない難点だろう。それを吹き飛ばす最初のショックシーンはさすがに盛り上がるものの、その後の展開がまたベタの極みでつまらない。主人公が軍人でも英雄でもない一般人であるというのは、主観視点でパニック映画を撮るための設定上の要請としては妥当なものだが、プロット上では大きな足枷となっている。軍人でない彼らにとって、図体のでかい怪獣は「できるだけ遠くへ逃げる」他に対処のしようがなく、したがって直接の敵となる(皮膚感覚に訴える)恐怖の対象として小型怪獣たちにご足労願うことになるわけだが、これでは怪獣映画の要素とエイリアン(というかゾンビ映画か)的要素とが混在した中途半端さをぬぐえない。またさらに、いくら一般人とはいえ主人公が能動的に行動する目的がなければストーリー上のクライマックスを作り出せないという判断からか、ビルの高層階に取り残された元彼女を救出に行くというミッションが用意されているのだが、これではパニックの元凶が怪獣である必要性が全くない(『宇宙戦争』('05)も『トゥモローワールド』('06)も「逃げるだけ」で十分に現代映画は成立することを示してくれていると思うんだがなぁ)。それから、本体にせよ子供たちにせよ、そもそも怪獣の造形に魅力がなさすぎるというのも残念だ。まぁ個人的に怪獣映画に対して特別な思い入れはないから、これによって駄作とまでは思わないが、それでもこうした批判は正当なものだろう。
 とはいえ楽しめる人は存分に楽しめるはずで、また楽しめなかった人でも映画史的興味があれば観て損はない。今年必見の一本であることは確かだ。
 ところで、映像をどれだけ素人のハンディカメラだと言い張っても、言い逃れのできないものが残る。音響だ。素晴らしい音響だったが、ハンディカメラのマイクが拾える音ではないよなぁと。映像にはどれだけ凝っても、そこは暗黙のうちに迫力ある音圧をかけてくることにおかしみを感じたり。