オリヴェイラを観るのはこれで三本目だが、どれもピンと来ない。苦手なんだろう。
さて本作、上流社会の伯爵と結婚した貞淑な女が、野性味を持つロック歌手に惹かれてしまい……という古来繰り返し描かれてきたパターンに則ったストーリーを持つが、それもそのはず、原作は17世紀のラファイエット夫人の小説である。だから本作特有のテーマ論的な面白みというのを見出すのは難しい。正直なところ、今さらわざわざ取り上げることもないだろう、と思える。設定を現代に持ってきてロック歌手を相手役に配したというアレンジを褒める向きもあるようだが、別に斬新というわけでもないし(同じ理屈で言えば『ロミオとジュリエット』を不良グループの抗争にしてしまった『ウエスト・サイド物語』('61)の方が遙かに面白い)、これによって現代的な物語になっただのどうのと殊更に賞賛するのも無理がある。
まぁテーマ論は別にいい(というか告白すれば最後の「手紙」の場面で寝てしまったのでストーリーをわかっていない)。問題は「作り」である。状況設定をテロップで説明して、断続的なシーン(場面)を積み重ねることでストーリーを語る。シーンの一つ一つは長く、会話が主体である。まさに19世紀小説的な組み立てになっていて、映画らしさを感じられない。また、シーンの中で背景が大きく変わることがなく、なおかつ会話中心であるため、舞台劇を見ているような気にさせられる。そのことを敢えて強調していた『神曲』('91)はまだいい。ミシェル・ピコリの存在感と食事シーンの身振りで強度を保っていた『夜顔』('06)もいい。しかしこれは……残念ながらひたすら退屈だった。
心情描写に力点を置いたということなのだろうが、俳優がその場面を演じている、というようにしか見えず、全く情感がない。映画がダイアローグ中心で攻めるというからには「表情の演技」でこそ舞台劇との差をつけられるはずだが、ここでヒロインの惚れる相手役のペドロ・アブルニョーザがサングラスをかけっ放しで表情を隠しているのだからどうしようもない。同年、17世紀に向った本作と対照的に近未来世界を描いた『マトリックス』もまた主人公がサングラスをかけていたが、キアヌ・リーブスのグラサンが「人物からアナログな感情を隠してデジタルな物語に溶け込ませる」という明確な意義を有していたのに対し、ペドロのグラサンは単なるロック歌手の記号でしかない。
というわけで、ストーリー(テーマ)もプロット(構成)も全く魅力が見出せなかったので、後は映像を楽しむしかない。そこはさすがに90歳を超えたオリヴェイラ、揺るぎない構図(配置)を保ち続ける。西欧でしか撮りえない美術もお見事。しかし会話シーンばかりのために単調になるのは避けられていない。
キャストで話題を集めるのは、やはり主演のキアラ・マストロヤンニで、カトリーヌ・ドヌーヴとマルチェロ・マストロヤンニの娘というとんでもない出自だが、個人的には母親同様に面白みに欠けるなぁと思ってしまう。それからもう一人特筆すべきなのはペドロ・アブルニョーザで、彼は実際に歌手であり、本人役で出演している。このあたりのメタフィクショナルなやり口は実にオリヴェイラらしい。個人的に本作で最も好きなシーンは、ラスト、引きのロングショットで撮られたアブルニョーザのコンサート(ほとんどドキュメンタリーみたいなものか)だったりする。