第八芸術鑑賞日記

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300(スリーハンドレッド)(6/9公開)

2007-06-30 17:35:03 | 07年6月公開作品
 6/24、新宿ミラノにて鑑賞。6.5点。
 見ながらウトウトしてしまった俺などが言っても説得力のないことかもしれないが、評価とは関係なく映画ファンならば一見しておく価値のある作品だ、とは言っておくべきだろう。一昨年の『シン・シティ』に続き、フランク・ミラーのアメコミを原作とした作品だが、『シン・シティ』同様に映像面での果敢な挑戦には目を見張ってよい。
 もともと映画におけるCG技術の発展の過程で最大の要請だったのは、実写と融合させるCG映像に現実味のある質感を与えることだった。そしてその成果は着実に上がってきている。しかし、本作の映像が達成しているのは、あくまで実写として撮られた俳優たちの姿からさえも現実味を剥ぎとり、映像クリエイターたちの作った世界で一つの人形として動かしてしまうことである。実際のところその狙いは『シン・シティ』でこそさらに徹底されていたのだが、あちらはアメコミの世界を映画として再現することに主眼が置かれた(ほとんど実験的な)カルト作品である。一般向けアクション映画の衣をまとい、あくまで実写の枠組の中にありながら、これほどまでに俳優から質感を取り去ってゲームのオープニング映像のようにしてしまったのには驚いた。
 そのタネはといえば、CG技術はもとより、彩度を落とした画面、スローモーションの多用、一枚絵としてのカッコよさを強調した構図……こうしたケレンたっぷりの演出によるものである。それぞれの要素は、たとえば『マトリックス』だとか、たとえば『ロード・オブ・ザ・リング』だとか、それこそ『シン・シティ』だとか、いくらでも既視感を覚えるものに過ぎないのだが、しかし作品全体を独特の美学でストイックにまとめあげ、見事な統一感を醸しているという点でやはり出色である。これはミラーの原作によるところが大きいのだろうか。筋肉隆々の男たちが戦って血飛沫があちこちで迸るという内容にもかかわらず、スタイリッシュとさえ形容されるのだ。
 というわけで、一つの路線を徹底してこれだけの完成度を誇っていることには一定の評価をしたい。後は各人の好悪判断の問題であり、個人的には特に好きではない(半分くらい観たところで若干飽き始めてウトウトしてしまったくらいだから仕方ない)。首を切られた人間がその切断面が見える角度で倒れてくる映像を「どうだ」とばかりに見せられてもちょっと苦笑してしまう。
 ペルシア戦争という史実を題材にしているにもかかわらず怪物めいたクリーチャーが出てくるとか、ひたすら戦闘しているだけでストーリーがつまらないとか、民主主義だとかとってつけたようなテーマがウザいとか、そういうことはまぁ、この映画を好きな人にとっては玉瑕に過ぎずどうでもいいだろうし、嫌いな人にはなおさらどうでもいいんじゃないかと。

大日本人(6/2公開)

2007-06-21 06:55:45 | 07年6月公開作品
 6/15、Q-AXシネマにて鑑賞。5.5点。
 日本でお笑い芸人としてほとんど特権的な地位にいる松本人志が、初めて映画を撮った……彼は以前から映画についての本を出したりしている……しかも日本には同じく「お笑い→映画」という経歴をたどった「北野武」という圧倒的な先達がいる……内容は極秘らしい……そして北野武の最新作と同日公開でぶつけてきた……というわけで大いに話題を呼んで(当然だ)、カンヌに出品までするという異例の事態を呼んだ監督デビュー作。
 毀誉褒貶激しいが、というか「毀」と「貶」が優位なようだが、実際のところ、褒めている(擁護している)人は過大評価だろうし、貶しまくっている人はヒステリックになりすぎだろう。もっとひっそりとミニシアターでかけて、松本ファンと映画マニアだけが観にいけばいい、とそのくらいの作品である。騒ぎすぎだ。俺もその騒ぎに乗せられた一人なわけだが、まぁ一種のお祭りみたいなものなので、一映画ファンとしてあえて乗ってやることも大事じゃなかろうか、と思ったんである。
 しかし鑑賞後にわかったことは、これは映画ファンのための祭りではなく、松本人志ファンのための祭りだったのだということである。カンヌに出品したことが馬鹿馬鹿しいのは、映画の出来云々のせいではなく、まさにその一点のためだ。俺は現代日本人としてはおそらくトップクラスにテレビ番組を見ない人間なので(俺のテレビはほとんど映画のDVDを観るためだけにある)、正直言って竹内力も板尾創路も知らなかった(後者は映画にも結構出ているが、特に印象に残ってもいなかったし、顔と名前は一致していなかった)から、劇場内で起こった笑いの半分も理解できていなかったのだろう。これは一例だが、要するに、観客が前提として共有することが求められる知識の領域がきわめて松本人志の日頃のフィールドに偏っており、「映画的」でなかったということである。もちろんカンヌの人々も俺と同様であろう。映画が大衆娯楽としてハリウッドを中心に歴史を歩んできたものである以上、現代日本人だけが楽しめる作品が世界的に評価される作品であるはずがない。これは非難でもなんでもなく、当然の事実だ。
 だからやっぱり、これは「松本人志が映画監督になった」という話題で売るべき作品ではなく、「松本人志の新作お笑いはブラウン管じゃなくてスクリーンに映すらしいよ」という話なのである。「大画面で観た方が面白い」という意味では映画というメディアを使ったことは正しいし、「こんなものは映画じゃない」と怒るような(映画の定義を勝手に作ってしまう)狭量な言辞がシネフィルの総意であって欲しくはないが、本作の受け止められ方が不幸なものになってしまった現実はもう覆らない。押井守の『立喰師列伝』みたいに都市のミニシアターだけでやればよかったのに。

 もちろん、(言うまでもないことだが)上記のような「テレビの松本人志」を前提とした笑いだけでこの映画が成り立っているわけではない(というか、それはごく一部である)。インタビュー主体のドキュメント風演出で架空の職業を描き出すという基本構造は、世界観もきっちり統一されているし、成功しているといっていいだろう。ここでのインタビューという形式の安直さを批判する向きもあろうが、下手な芝居よりも得意の「しゃべり」一本で押し通したのは正解だ。また、この基本設定を使って、[ヒーローが隣人たちに貶され、テレビ視聴率が低迷する]といった(観客と製作者の共犯関係によって成り立つ)ブラックユーモア的なコメディとして描ききったことは十分評価できる(でも絶賛するほど良い出来ではない)。
 あとは[警備員のおじさんが「正義」について陳腐な意見を述べる]ところなどのセンスもよい(が、[テレビ視聴率のネタを引っ張るところや、「儀式」をやり直させる場面]などはわかりやすくし過ぎだろう。それと[北朝鮮から現れたと思しき敵にやられ、最後にアメリカっぽい連中に助けられる]など時事的な小ネタは個人的には評価しない。
 それから、この作品の賛否をわけている主要因たるラストの展開について。[そこまで構築してきた世界観を一気に崩壊させるラスト五分間]の試みは、そこでキャラクターから発せられるギャグという表層的なレベルではなく(そこだけを取り上げて「テレビ的」とか「ただのコント」とかいうのは酷い)、[驚くべき形式の変化という作品全体を見渡したときのメタ的な]レベルでのギャグであり、「狙い」は悪くなかったと思う。[「見せ方」が変わることで世界はこれだけ変わるのだ]という表現そのものについては、[ヴェンダースの傑作『ベルリン・天使の詩』も、くだらない『大日本人』も、]同じである。ただそのギャグが綺麗に決まっているかと問われれば、[そんな長い前フリを使ってまでやることか]という脱力感を覚えるのは致し方のないところだろう。これが[『ウルトラマン』のパロディでもある]というのがまた日本のテレビ的発想で、映画人なら(そして[アメリカを意識させたいのなら])ここは[『スーパーマン』のパロディ]であって然るべきではないのか。

 個人的にどうしても気になったのは、[あんな街中で獣が暴れまわるならテレビ視聴率が下がることも大佐藤が貶されることもありえない]だろうということで、そんな真面目なツッコミをするなんてわかってないと言われそうだが、ここはあえて主張したい。だって、「大日本人というとんでもない職業が実在する」という一点以外はリアル志向で固めてこそのコメディだしこの世界観だろう。[獣は海上とか丘とかに現れて、大日本人が頑張って戦うんだけど、一般人には対岸の火事である]という形にすれば、[別に自衛隊でも何でもいいのにあえて大日本人が戦うことへの批判]とかもぐっと説得力が増すのになぁ。
 [戦闘シーン]の映像で[群集が全くいない]ことも含め、[街中で戦うのはヒーローもののパロディとしてどうしても譲れなかった]のだろうか。

 つらつらと長文を書き連ねてきたが、映画として俺の心に一番残ったのは、茶色が強く印象に残るくすんだ色彩であった。この画面が心地よかったと、一番褒めたいのはそこかもしれない。
 だから要するに、上で褒めたことも批判したことも、俺は熱意をもって主張したいわけではない。はじめにも書いたように、本作への毀誉褒貶の激しさは少々ゆきすぎだろう。


ス~ソ

2007-06-21 00:20:11 | index
洲崎パラダイス 赤信号(1956)6.0
スティング(1973)7.5
ストレイト・ストーリー(1999)6.5
ストレンジャー・ザン・パラダイス(1984)5.0
砂の女(1964)6.5
スワロウテイル(1996)5.0
青春デンデケデケデケ(1992)7.0
青春の殺人者(1976)7.5
セックスと嘘とビデオテープ(1989)5.5
切腹(1962)8.0
セブン(1995)7.0
セーラー服と機関銃(1981)6.0
戦場のメリークリスマス(1983)7.0
セント・オブ・ウーマン(1992)6.0
千年女優(2001)5.5
SAW2(2005)6.0
続・座頭市物語(1962)5.0
続清水港(清水港 代参夢道中)(1940)6.5
そして、ひと粒のひかり(2004)6.0
ソナチネ(1993)8.5
曽根崎心中(1978)6.5
その男、凶暴につき(1989)3.0
ゾンビ(1978)7.0

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド(5/25公開)

2007-06-17 03:54:00 | 07年5月公開作品
 6/16、池袋シネマサンシャインにて鑑賞。7.0点。
 『マトリックス』式の後づけ三部作完結編(以下、一作目を『1』、前作を『2』、本作を『3』と略)。復習して臨むほど好きなシリーズでもないので、細かい設定とか人物相関とかは忘れてしまった状態で見た。まぁ俺としては良くも悪くも期待どおりの出来だったので、とりあえず満足した。
 が、どうも世間では賛否が割れているようだ。よくわからない。『1』からつまらないと思っていたならハナから観ないだろうから、「『2』は良かったのに今回は駄目だった」ということなんだろうけど、何が変わったのか。細部の辻褄とかキャラクターの行動が矛盾してるとか、そういうレベルの話であればファンでもない俺には何も言えないけど、少なくとも『1』から『2』への断絶と比べれば何でもないと思うのだが。あるいは170分という超大作ぶりに飽きるということだろうか。それなら『2』の150分というのがそもそも間違いだ。いや、単に時間の問題ではなく、見せ場となるシーンの配置のバランスが悪いために前半が盛り上がらないとか中盤が中だるみするとか、そういうことだろうか。確かに『2』は、漂着した島でのドタバタ、心臓をめぐってのドタバタ、巨大イカとの海上での戦い……という見せ場の連続で繋いでいたかもしれないが、しかし俺に言わせれば後半のドタバタコメディーぶりには切れがなく冗長だと感じたものだった。逆に本作のいくつかのシーン――序盤で提示される「世界の果て」の真っ白な世界とそこに現れる蟹(ディズニーでこの世界観を作れたことに感動した)、中盤の「パーレイ」の場面での3対3の対峙――は話を引き締める立派な見せ場だと思う。
 ……とまぁそんな『2』と『3』の比較をしていても不毛であって、やはり『1』と『2』『3』との相違にこそ本質的な問題があるように思える。


 以下で使う「プロット」と「ストーリー」の語法はかなり自分流のものなのであまり気に止めないでください。
 単独で完結していた『1』とシリーズ化した『2』『3』の流れとで決定的に断絶があるのは、言うまでもなくジャック・スパロウの位置づけによるものだ。『1』においては、ウィル、エリザベスという「主人公」に対してジャックが「主役」として配置されており、その構図こそが肝心要だった。要するに、感情移入の対象となるウィル(鍛冶屋の息子)と、カッコいい~と見惚れる対象のジャック(海賊)とがきっちり分離されており、だからこそジャック・スパロウを常識的でない奇人変人として描いても問題なかったし、アンチヒーロー気味になったとしてもかえってカリスマ性を増すというプラスの効果が働いた。
 しかし『2』からの後づけ三部作では、ジャック・スパロウが「主人公の一人」になってしまったため、彼は「個性的なキャラクターの一人」としてストーリーを展開させるための駒に過ぎなくなり、その奇人ぶりは単なるユーモア演出のための道具と化した。
 こう言い換えることもできる。『1』はプロット(=構成)の映画であり、『2』『3』はストーリー(=展開)の映画である、ということだ。「プロットの映画」においては、ヒーローはシンプルな物語の要所要所でカッコいいところを見せ、印象的な言動をなし、クライマックスでキメを外しさえしなければ、その主役としての立場を守れる。しかし「ストーリーの映画」においては、多数のキャラクターがそれぞれの思惑にのっとって行動する中で、ヒーローにもそれ相応の行動原理が求められる。しかし、『2』で「昔の契約をどうにかするため」に動き出したジャックは、たちまち「その他大勢」のキャラクターが織り成す展開の中に呑みこまれ、独力では物語をシメることもできなくなる。
 『1』のラストで海原の彼方へ去っていったジャックが、『2』ではウィルとエリザベスを奪い合うようになった時点で、堅固な人物配置によるプロットの映画は崩壊し、多数のキャラクターがそれぞれ勝手に動き回ることでめったやたらと複雑化しわかりにくくなるストーリーの映画が始まったのである。
 一度その流れが始まれば、止めることはできない。『2』ではまだ敵役のデイヴィ・ジョーンズがジャックに代わって特権的な地位を与えられていたのだが、彼もまた『3』で人間と取引を始めてしまうにいたって「その他大勢」の仲間入りを果たしてしまう。特権的地位に座るべく思わせぶりに登場するカリプソもまた、よくわからないままに終わってしまう。ジャックにいたっては、父親が登場してさらに格下げされてしまう。こうして、ウィル―エリザベス―ジャック―バルボッサ―ジョーンズ―ベケット卿の六人が同列で争いあうことになる。
 完全に群像劇になってしまったストーリーと、その結果としてのわかりにくさ、盛り上がるべきところや物語の収束点がよくわからないという状態……これらをもって『2』より『3』を駄作とする意見は確かにわからないでもないのだが、しかしその契機はやはり『2』にこそあるのであって、その必然的な帰結である『3』をことさらにシリーズ中の駄作とすることには同意できないのである(個人的に群像劇が好きなので、どうせ『1』の構図を崩してしまうのなら『3』まで行き着いてくれて良かったという思いもある。上でも書いたように3対3の対峙シーンなんかは盛り上がった)。


 で、まぁ長文を書いておいてなんだけれど、以上のようなことは本作を楽しむ上ではどうでもよくて、たっぷりと金をかけたアクション・エンターテイメントを堪能すればそれでいい。ハリウッドの特A級作品としてはまぁ無難な程度のレベルだと思うが、やっぱりこれをスクリーンで観て楽しめないようなら映画ファンの甲斐がない。この映像だけで7.0点。
 あとエンドロール前のラストシークエンスで、ジャック・スパロウが『1』に戻ったかのように海賊として海原へ去っていってくれたのが良かった。


監督・ばんざい!(6/2公開)

2007-06-06 18:22:48 | 07年6月公開作品
 6/1、キタノ・タイムズスクエアにて鑑賞。5.5点。
 はじめに自分の立ち位置を述べておくと、俺は北野映画が好きだ。どのくらい好きかというと、たとえば「映画史上の偉大な監督を十人挙げよ」と問われたら、メリエス、グリフィス、エイゼンシュテイン、チャップリン、フォード、ヒッチコック、ゴダール、キューブリック、スピルバーグ……と並べてきて、90年代の代表として北野武の名を挙げたいくらいに好きである。いや、それはちょっと言い過ぎたかもしれないが、ともかく、90年代に彼が撮ったいくつかのフィルムは世界映画史に誇ってよい傑作群だと思っている。
 しかし90年代の終わり以降、彼の作品の魔力も解け始めた印象がある。それは『Dolls』や『座頭市』などの決して失敗作とは言えないものたちも含めて、である。その原因を鑑みるに、おそらく最大の要因は「頭で考えて作り始めた」ことにあるのではないか。『ソナチネ』の凄さは感性の勝利によるものであって、決して頭で捏ね繰り回した脚本や設定にあるのではない。だから、初期のいわゆる「北野ブルー」には(一見したところ何の意味もないにもかかわらず)無意識に訴える強烈な力が封じ込められていたが、『Dolls』の各シーンが持っている意味は記号的に単一で情報量の少ないものだ(『Dolls』に関しては、その余白を削ぎ落とした演出が作風と相まって効果を上げているとも言えるので、必ずしも失敗ではないと思う。が、それでも初期作と比べると段違いにパワーが落ちたと感じざるをえない)。
 その行き着いた先が、前作『TAKESHI'S』、そして本作、さらに「三部作」の構想が事実なら次作に至る流れなのだろう。北野の言によれば「『TAKESHI'S』では役者を壊し、今回は監督を壊し、次作では映画を壊す」ということらしいが、その狙いそのものは面白いものの、そのような理屈先行のテーマは彼の特性と合致していないように思えてならない。いや、それならまだよいのだが、感性が枯れた上にそれを糊塗するために後付けで理屈をつけているのなら事態は深刻だ。還暦を迎えたとはいえ、まだまだ傑作の一つ二つはものにしてもらいたいと期待している。


 前置きが長くなった。『監督・ばんざい!』のことである。
 初めて予告編を見たときは、心の中で喝采を送った。と同時に、「自分がやりたかったことを先にやられた」との悔しい思いを抱きもした。題材に困った映画監督が、様々な作品を撮りはじめては中止する……といういくつもの劇中劇を配した形式の作品。様々なジャンル映画の要素を詰めこんだ作品。俺が心中で妄想していた「イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を映画流にやってみたい」という夢をやられてしまったんである。しかしそれでも、他ならぬ北野武がやるというのなら楽しみに待つしかない。
 しかし、二度目、三度目と予告編を繰り返し見る内に、いつしか不安が募り始めた。個々の劇中劇はそれぞれのジャンル映画として魅力的な出来栄えになっているのか、全体の流れはギャグとして滑っていないか。不安が決定的になったのは、雑誌の紹介で「ナレーションによるツッコミが入っている」と知ったときだった。
 結論からいえば、不安は的中してしまった。個々のシーンも全体のプロットも魅力に乏しい。「色んな作品を撮ってはみるが駄作になってしまう」という設定なのだから、ひとつひとつの劇中劇がつまらなくてもそれは監督の意図通りなのではないか、との意見もあるだろう。しかし、そういう問題ではない。どういう問題かというと、これらの劇中劇たちには、『監督・ばんざい!』という映画に登場した以外のシーンが存在するように感じられないのだ。それぞれが一本の映画として(作中世界のどこかに)存在しているかのように思わせられないことには、結局のところ「あぁ、これは『監督・ばんざい!』のためのギャグの一つなんだよな」という醒めた視点でしか見られない。自己閉塞的で広がりを感じさせないと言ってもよい。「駄作になってしまう」という設定を守るためには、基本的には面白いんだけど何か一つ決定的なミスがある……というだけで十分であり、本当に面白くないのではやはり厳しい。


 小津風を意識したという「定年」ではモノクロの映像が綴られるが、小津らしさの再現に成功しているとは言いがたい。ナレーションが言うような「風格」が足りないのではなく、「軽妙さ」が足りない。もちろんあの雰囲気を出すなんて至難の業だろうが、だったら小津の典型的なシーンを記号的に入れるだけでもパロディとして良かったのにと思う。特に、対話シーンで正面ローアングルからの顔のアップを交互に映すシークエンスや、「そうかね、そんなものかね」「そうよ」「そうかな」といった小津印のやり取りを入れてほしかった。
 現代邦画への揶揄を込めたお涙頂戴のラブストーリーを数パターン見せるパートでも、それぞれが1シーンしか出てこないために劇中劇として魅力を発揮するまでにいたっていない。
 『Always 三丁目の夕日」を皮肉って貧乏人の昭和30年代を描いた「コールタールの力動山」はそれなりに長く、唯一まともな出来で、このテーマで一本撮ってほしいと思わせた。
 ホラーがギャグに見えてしまうという状況を描いた「能楽堂」はまさしくコントで、この辺から北野のバランス感覚が怪しくなり(NGシーンの見せ方がくどい!)、ギャグが上滑りし始めている気がする。
 『座頭市』のセルフパロディとしての「青い鴉 忍PART2」は狙いとしては悪くないが、やはりあまりにもギャグに傾きすぎている。「駄作になってしまう」というより、もともとちゃんとした映画を撮る気ないだろ、という。
 ……とケチをつけつつも、ここまでの前半の流れは決して嫌いではない。最後までこのテンションで貫いたなら、(まぁ佳作とはなりえずとも)そこそこ面白いコメディとして仕上がっていただろう。


 問題は後半である。SF大作風に始まる「約束の日」にいたって、物語は完全に崩壊し、単なるコント集と化す。90年代唯一の珍作『みんな~やってるか!』の再来である。勢いだけのギャグ、同じギャグの執拗な反復、つまらない時事ネタ、メタフィクショナルというより楽屋オチな遊び……いずれも俺には受け入れられない。ナンセンスでシュールな展開までがつまらないのは、ここでのギャグが「無茶苦茶にしよう」と「頭で考え」たものだからだ。何気なく提示される、『あの夏、いちばん静かな海。』での「自転車」のシーンや『ソナチネ』での「紙相撲」のシーンの方が遥かに面白い。
 もちろん笑いの感性は人それぞれだから、この後半がギャグとして完全につまらない、ということを断言するつもりはない。だがいずれにせよ、この後半での「壊し方」には秀逸な工夫も独特のセンスも見られない。個人的には『TAKESHI'S』の方がまだ好きである(あれには『マルホランド・ドライブ』の劣化版に見えて仕方ないという難点があるのだが)。


 まとめれば、北野ファンでない人は全く観る必要がない作品であり、ファンも『みんな~やってるか!』を許容できるかどうかで判断した方が無難である。「小津風」などのキーワードや芸大教授の肩書きに騙されて、シネフィル的観点からアカデミックな趣を求めるのも禁物だ。
 でも嫌いになれない。この作品がというより、北野武が、である。年齢的に考えてあと何本撮れるのかわからないが、ぜひ往年の輝きを取り戻してほしい。回顧趣味的に、以前の作品と同じようなものを撮れと注文したいわけではない。ジャンルなど何でもいい。ただ、かつてと同じ鋭利さを取り戻してほしい。


主人公は僕だった(5/19公開)

2007-06-04 00:18:21 | 07年5月公開作品
 6/1、新宿武蔵野館にて鑑賞。5.0点。
 ある日突然に天からの声のようなナレーションが聞こえてきて、主人公は自分が小説の中のキャラクターだと知る。自分の命はあと僅かだということも。
 というのが基本設定だが、これが文学的なメタフィクションと決定的に違うのは、主人公も作者も同じ世界の中にいる、という点である。この主人公は自分が『主人公は僕だった』という映画のキャラクターだと知ってしまうわけではなく、同じ世界の中(つまりこの映画の中)で小説家を探して会いに行くことが可能となっている。要するに、メタフィクションのような哲学的ジャンルではなく、小説家がタイプした文章が現実化してしまうというSFファンタジーとして捉えた方がわかりやすい。だから、作中で触れられる「芸術を優先するか人命を優先するか」という問題も、現実に目の前で生きている人間を殺すわけにはいかないだろう、という現実的な感覚が先に立ってしまうため据わりが悪い。というか、主人公の名前を変えるだけで全て解決する問題なんじゃないの? それともこの小説家が書くことはすべからく現実と対応するべく運命づけられているのだろうか? だとすれば、彼女が小説を書くという行為はハッピーエンドだろうがバッドエンドだろうが他人の人生を左右してしまうわけで、今後二度とペンを持ってはいけない……という「超能力者の悲哀」を描いた映画になってしまう。要するに、設定が適当すぎるんじゃないの? と言いたい。そのわりにはところどころで知的コメディのような趣を出そうとしているのがまた失敗しているように感じられてならない。
 直球のファンタジーやSFではなく、藤子・F・不二夫の「少し不思議」理論を実践したような雰囲気の作品なので、ジャンル映画が苦手な人も含めて万人に薦められるという点では悪くないのかもしれないが……
 SF要素を全く必要とせずに「少し不思議」な世界を作り上げた『トゥルーマン・ショー』はやはり偉大だったのかもしれない。
 マーク・フォスターならではのポップでセンスのいい映像は良かった。あと『ステイ』の時も思ったけど、まとめ方の巧さには卓越したものがある。

スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい(5/12公開)

2007-06-02 01:54:33 | 07年5月公開作品
 6/1、新宿オデヲンにて鑑賞。6.5点。
 邦題オリジナルの副題のせいで純然たるクライムコメディだと思いこんで劇場へ足を運んだのだが、良い意味でも悪い意味でも期待を裏切られた。これはコメディではない。ヴァイオレンス・アクションである。いずれにせよ馬鹿なB級作品であることに変わりはないのだが、宣伝文句で引き合いに出されているタランティーノだとかガイ・リッチーだとかと比べると、圧倒的に趣味が悪い。それはつまりサブカル畑やオシャレ映画の範疇には入らないということで、ただただB級なんである。というか、宣伝の煽りには『キル・ビル』とか『スナッチ』とか錚々たる名前が並んでいるのだが、それって「女スナイパー」とか「冒頭でテロップを使って次々と膨大な数のキャラクター名を覚えさせる」とか、ピンポイントでそれらの作品を連想させる箇所があるというだけのことじゃないか。それに強いて挙げるならトニー・スコットの『トゥルー・ロマンス』じゃなかろうか(あ、これもタランティーノ脚本か)。
 (正直に言うと、大量のキャラクターの相関関係を掴むには鑑賞時のコンディションが今ひとつだったため、前半の何割かをウトウトしながら見ていた。だから何者なのかよくわかっていないのだが、)エレベーターをしばし占拠し、飛び出すやチェーンソーやらを振り回して暴れまわったイカレた三人組は何なのだ? あの陳腐な悪趣味さは? 本作を紹介するときに「スタイリッシュ」とか「コメディ」とかいう単語を使った人は彼らの獅子奮迅の活躍ぶりをようく見直してもらいたいものだ。
 そしてやたら大仰な劇伴音楽! 中盤から終盤にかけての必死で悲愴さを演出せんとするBGMはちょっと聴きものである。それからラストのどんでん返し。この映画にどんでん返しを求めていた人がどれだけいるのか甚だ怪しいが、フラッシュバックを多用した「スタイリッシュ」な演出でカッコよく真相を見せてくれる。この「BGM」と「どんでん返しを含むプロット」との二点があることで、作り手側の(奇天烈な)本気さが伝わってきてしまうため、ブラックユーモアとしてのコメディにすらなりえていない。
 だから駄作だ……と言いたいわけではなくて、勢いだけで馬鹿みたいに突っ走った終盤の展開はそれはそれで清々しく、好事家ならば必見、そうでなくてもまぁ許せ……ない人も多いだろうが、俺は許してしまった。なんといっても、一つの建物の中に十数人のFBIや殺し屋がウヨウヨしていて、錯綜しながら次々と対峙シーンが生れる様を矢継ぎ早な編集で繰り出すという本当に勢いだけのクライマックスが嫌いじゃない。そこで乱射される(推定)数百発の弾丸は淡白ながらも数の暴力で面目を保っている。
 特に観る価値は全くないが、この路線を追っている人なら一見して損はないはず。
 なお本作で映画デビューのアリシア・キーズは存在感あってよし。おいしい役どころ。