6/1、キタノ・タイムズスクエアにて鑑賞。
5.5点。
はじめに自分の立ち位置を述べておくと、俺は北野映画が好きだ。どのくらい好きかというと、たとえば「映画史上の偉大な監督を十人挙げよ」と問われたら、メリエス、グリフィス、エイゼンシュテイン、チャップリン、フォード、ヒッチコック、ゴダール、キューブリック、スピルバーグ……と並べてきて、90年代の代表として北野武の名を挙げたいくらいに好きである。いや、それはちょっと言い過ぎたかもしれないが、ともかく、90年代に彼が撮ったいくつかのフィルムは世界映画史に誇ってよい傑作群だと思っている。
しかし90年代の終わり以降、彼の作品の魔力も解け始めた印象がある。それは『Dolls』や『座頭市』などの決して失敗作とは言えないものたちも含めて、である。その原因を鑑みるに、おそらく最大の要因は「
頭で考えて作り始めた」ことにあるのではないか。『ソナチネ』の凄さは感性の勝利によるものであって、決して頭で捏ね繰り回した脚本や設定にあるのではない。だから、初期のいわゆる「北野ブルー」には(一見したところ何の意味もないにもかかわらず)無意識に訴える強烈な力が封じ込められていたが、『Dolls』の各シーンが持っている意味は記号的に単一で情報量の少ないものだ(『Dolls』に関しては、その余白を削ぎ落とした演出が作風と相まって効果を上げているとも言えるので、必ずしも失敗ではないと思う。が、それでも初期作と比べると段違いにパワーが落ちたと感じざるをえない)。
その行き着いた先が、前作『TAKESHI'S』、そして本作、さらに「三部作」の構想が事実なら次作に至る流れなのだろう。北野の言によれば「『TAKESHI'S』では役者を壊し、今回は監督を壊し、次作では映画を壊す」ということらしいが、その狙いそのものは面白いものの、そのような
理屈先行のテーマは彼の特性と合致していないように思えてならない。いや、それならまだよいのだが、感性が枯れた上にそれを糊塗するために後付けで理屈をつけているのなら事態は深刻だ。還暦を迎えたとはいえ、まだまだ傑作の一つ二つはものにしてもらいたいと期待している。
前置きが長くなった。『監督・ばんざい!』のことである。
初めて予告編を見たときは、心の中で喝采を送った。と同時に、「自分がやりたかったことを先にやられた」との悔しい思いを抱きもした。題材に困った映画監督が、様々な作品を撮りはじめては中止する……といういくつもの劇中劇を配した形式の作品。様々なジャンル映画の要素を詰めこんだ作品。俺が心中で妄想していた「イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を映画流にやってみたい」という夢をやられてしまったんである。しかしそれでも、他ならぬ北野武がやるというのなら楽しみに待つしかない。
しかし、二度目、三度目と予告編を繰り返し見る内に、いつしか不安が募り始めた。個々の劇中劇はそれぞれのジャンル映画として魅力的な出来栄えになっているのか、全体の流れはギャグとして滑っていないか。不安が決定的になったのは、雑誌の紹介で「ナレーションによるツッコミが入っている」と知ったときだった。
結論からいえば、不安は的中してしまった。個々のシーンも全体のプロットも魅力に乏しい。「色んな作品を撮ってはみるが駄作になってしまう」という設定なのだから、ひとつひとつの劇中劇がつまらなくてもそれは監督の意図通りなのではないか、との意見もあるだろう。しかし、そういう問題ではない。どういう問題かというと、これらの劇中劇たちには、『監督・ばんざい!』という映画に登場した以外のシーンが存在するように感じられないのだ。それぞれが一本の映画として(作中世界のどこかに)存在しているかのように思わせられないことには、結局のところ「あぁ、これは『監督・ばんざい!』のためのギャグの一つなんだよな」という醒めた視点でしか見られない。自己閉塞的で広がりを感じさせないと言ってもよい。「駄作になってしまう」という設定を守るためには、基本的には面白いんだけど何か一つ決定的なミスがある……というだけで十分であり、本当に面白くないのではやはり厳しい。
小津風を意識したという「定年」ではモノクロの映像が綴られるが、小津らしさの再現に成功しているとは言いがたい。ナレーションが言うような「風格」が足りないのではなく、「軽妙さ」が足りない。もちろんあの雰囲気を出すなんて至難の業だろうが、だったら小津の典型的なシーンを記号的に入れるだけでもパロディとして良かったのにと思う。特に、対話シーンで正面ローアングルからの顔のアップを交互に映すシークエンスや、「そうかね、そんなものかね」「そうよ」「そうかな」といった小津印のやり取りを入れてほしかった。
現代邦画への揶揄を込めたお涙頂戴のラブストーリーを数パターン見せるパートでも、それぞれが1シーンしか出てこないために劇中劇として魅力を発揮するまでにいたっていない。
『Always 三丁目の夕日」を皮肉って貧乏人の昭和30年代を描いた「コールタールの力動山」はそれなりに長く、唯一まともな出来で、このテーマで一本撮ってほしいと思わせた。
ホラーがギャグに見えてしまうという状況を描いた「能楽堂」はまさしくコントで、この辺から北野のバランス感覚が怪しくなり(NGシーンの見せ方がくどい!)、ギャグが上滑りし始めている気がする。
『座頭市』のセルフパロディとしての「青い鴉 忍PART2」は狙いとしては悪くないが、やはりあまりにもギャグに傾きすぎている。「駄作になってしまう」というより、もともとちゃんとした映画を撮る気ないだろ、という。
……とケチをつけつつも、ここまでの前半の流れは決して嫌いではない。最後までこのテンションで貫いたなら、(まぁ佳作とはなりえずとも)そこそこ面白いコメディとして仕上がっていただろう。
問題は後半である。SF大作風に始まる「約束の日」にいたって、物語は完全に崩壊し、単なるコント集と化す。90年代唯一の珍作『みんな~やってるか!』の再来である。勢いだけのギャグ、同じギャグの執拗な反復、つまらない時事ネタ、メタフィクショナルというより楽屋オチな遊び……いずれも俺には受け入れられない。ナンセンスでシュールな展開までがつまらないのは、ここでのギャグが「無茶苦茶にしよう」と「頭で考え」たものだからだ。何気なく提示される、『あの夏、いちばん静かな海。』での「自転車」のシーンや『ソナチネ』での「紙相撲」のシーンの方が遥かに面白い。
もちろん笑いの感性は人それぞれだから、この後半がギャグとして完全につまらない、ということを断言するつもりはない。だがいずれにせよ、この後半での「壊し方」には秀逸な工夫も独特のセンスも見られない。個人的には『TAKESHI'S』の方がまだ好きである(あれには『マルホランド・ドライブ』の劣化版に見えて仕方ないという難点があるのだが)。
まとめれば、北野ファンでない人は全く観る必要がない作品であり、ファンも『みんな~やってるか!』を許容できるかどうかで判断した方が無難である。「小津風」などのキーワードや芸大教授の肩書きに騙されて、シネフィル的観点からアカデミックな趣を求めるのも禁物だ。
でも嫌いになれない。この作品がというより、北野武が、である。年齢的に考えてあと何本撮れるのかわからないが、ぜひ往年の輝きを取り戻してほしい。回顧趣味的に、以前の作品と同じようなものを撮れと注文したいわけではない。ジャンルなど何でもいい。ただ、かつてと同じ鋭利さを取り戻してほしい。