SYUUの仕事部屋:ものづくりの世界のしくみをもっと深く知ろう!

製造業(メーカー)の仕事の仕組みをご紹介しています。

新入社員時代:本社資材部購買課?

2023-05-28 08:01:29 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のバラ    令和4年5月18日撮影)

 

 

 入社式の翌日から早速仕事がスタートしたと思います。正直どうスタートしたかは全く覚えていませんが。で、資材部購買課と言っても、どんな仕事をしているか分からない人も多いかと思いますので、そのお話を今日はしたいと思います。

 資材部購買課とは、会社で必要となる物(生産用の部品や原材料、工具・機械設備・建物、事務機器・用品など)を購入する部門です。すべての会社で同じ用語を使うわけではありませんが、私の入社した会社では、本社の調達部門をこう呼んでいたのです。ちなみに主要工場が3つありましたが、各工場にも調達部門があって、「調度課」と呼んでいました。
(購買業務を詳しく知りたい方は「11000購買管理」カテゴリーをご確認ください。)

 組織的には、本社の資材部が全社の調達部門を統括する役割を担い、同時に全社で共通するような調達品を購入する業務を直下の購買課で担当していたということになります。
 ということで、私は本社資材部で担当する調達資材の購買課員の一人となったわけです。入社当時の本社資材部の人事組織を思い出して整理してみると以下のとおりとなります。

 本社の部門ですが、部長を含めても10名程度の小規模な組織でした。ただ、全社の原材料の調達を担当していたので、年間の担当購入額は当時で150億円ほどだったと記憶しています。

 なお、私は主に押田さんから教育を受けましたが、篠原主任や間島さんのお手伝を半年ほどしていたと記憶しています。
 それと、当時から何を担当しているのかよくわからなかったのが、鴨志田部長代理のグループです。直接の調達担当ではなかったことは確かですが、「見積担当」という名称で、樋口部長とのやり取りはほぼなくて、他部門の方とのやり取りが多かったように記憶しています。

 ということで、調達担当の仕事がスタートしたのです。

 

(つづく)

 

 

 


新入社員時代:入社式

2023-05-21 10:12:06 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のバラ    令和4年5月17日撮影)

 

 

 1972年4月○日、日付は忘れましたが、川崎に本社のあった自動車部品メーカーに入社しました。会社の名前は「トキコ株式会社」、入社してから知ることになりますが、過っては実業団野球で有名だったようです。そう言えば、会社の名前を教えた時、父が「どこかで聞いたことがある。」と言っていたのもそのためかもしれません。

 入社式は、今はもうありませんが、本社の本館講堂で行われました。新入社員は全員で36名(学卒が30名、高卒が6名)でした。当時はまだ現業系の中学生卒業者の採用もあった時代ですが、中卒採用者の入社式は別に行われたようです。

 入社式の様子は全く何も覚えていません。当然社長の挨拶があったと思いますが、当時の社長の名前も、当然ながら挨拶の内容も全く覚えていません。

 余談ながら、高卒6名のうち4名の顔は今も覚えています。うち3名は女子で、いずれも配属先の庶務、1人は社長秘書、いずれも役目柄なかなかの美形でした。
 同期であり、ある意味、出世街道のライバルでもあった学卒の30名の顔も数えたことはありませんが、ひとりひとり思い出すことが出来る気がします。

 入社式が終わって、その日のうちに配属式が行われました。
 今なら、新入社員教育がごくあたりまえにあるのでしょうが、当時は、教育は現場でということだったのでしょう。

 配属式は、隣接する川崎工場の食堂で行われました。一人一人、名前と配属先が告げられ、その後配属先の先輩に連れられて、配属先の職場へと向かいました。
 私の配属先は「本社・資材部・購買課」でした。購買課???、何の仕事?丁度食堂の一角に売店、つまりは購買があったので、隣の同期から、「あそこで仕事するんだ」と言われたのを今でも覚えています。半分本気で『売店の売り子か!?』とその時は思ったものです。

 配属式が終わり、その後配属先の職場に連れていかれたのでしょうが、その時連れに来てくれた先輩も、配属先で上司や同僚に挨拶したのでしょうが、その時のことも全く覚えていません。

 ということで、いよいよ社会人の生活が翌日からスタートすることになりました。

 

(つづく)

 

 

 

 

 


就職活動:就職試験・関東編

2023-05-14 08:09:13 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のバラ    令和4年5月10日撮影)

 

 関東のメーカーの試験は一旦松本に帰って、そこから向かった記憶がありますが、考えてみると親からは試験のことで何か言われた記憶が全くありません。

 実は、就職について、地元の名鉄に入りたいという気はかなりあったのです。しかし、大学には名鉄からの就職案内はなく、どうしようかと思っていたのです。今はどうなのでしょうか?当時はコネ入社が結構効果的だった時代でした。そこで、実家の近くに名鉄の重役が住んでいて、父がとても懇意にしていたので、口をきいてくれるように頼んでいたのです。ただ、ともかくバカの付く真面目な父はそれが言えなかったようで、この件は駄目になっていたのです。そんなこともあって、父からは「頑張れ!」とは言えなかったのかもしれません。

 余談が入りましたが、関東のメーカーの試験ですが、試験前日は指定された宿舎に入りました。そこは、横浜の郊外にある独身寮でした。この独身寮にはその後10年近くお世話になることになりますが。その独身寮で休んでいると、会社の本社総務部の人が訪ねてきたのです。その人は、何と大学の同じ学部の2年ほど先輩だったのです。

 「入社したいか?」と先輩に言われたとき、「はい!」と答えましたが、内心は『どちらでも…』でした。そんなこともあってか、先輩から背広ではうちは印象が悪くなるので、学生服が良いと、持っていかなかった学生服をどこかで借りてきてくれました。

 ペーパーテストも面接もうまくいった気がしますが、学生服効果だったのでしょうか?結果は合格でした。
 ただ、一番の効果はおそらく先輩のプッシュだったのだと思います。一部上場企業でしたが、ビッグ企業でもないので、組織上本社の総務部は人事権を持っていたのです。つまり人事部が独立してある会社ではなかったのです。入社2年目とはいえその総務部に所属する先輩のプッシュの効果は大きかったはずです。「入社したいか?」「はい!」は大事だったようです。

(次回:入社式につづく)

 

 

 

 

 

 


就職活動:就職試験・愛知編

2023-05-07 08:51:29 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のバラ    令和4年5月3日撮影)

 

 前回から唐突とスタートしましたが、生産管理のガイドブックのUPが終わり、このブログの更新もそれで最後、では、と思っていて、仕事関係の何かを記事にしようと思っていました。
 ということで、スタートしたのが、「私の履歴書・仕事編」です。約40年ほどのサラリーマン生活を振り返ってみたいと思います。週1程度ではUPしたいと思っていますが、よろしければお付き合いください。

 では、第2回目です。

 就職試験は、6月に3社とも終わった記憶が何となくありますが、愛知の2社が先で、関東の1社が最後でした。愛知の2社はあのトヨタの子会社でしたが、今やビッグ企業となっている2社です。で、結果は2社とも不合格でした。

 実家に帰って、実家から2社の試験会場に通って受けたのですが、最初の1社は慣れない面接で結構あがってしまった記憶があります。結果は電話で受けました。2社目はそれから1週間ほど後でした。1社目の経験が生かせたのか、10人ほどの集団面接ということもあったのか、面接はうまくいった気がします。やたら私への質問が多かった記憶もあります。

でも結果は駄目でした。地元の友人とその後話をする機会があったのですが、「あそこは難しい。採用人数が少ないこともあるが、トヨタ本体より難しいかも」と言われ、最初から無理だったのかもしれません。

 ということで、残るは関東の1社となりました。愛知のどちらかが受かるだろう、と思っていたので、さすがにちょっぴり焦りも出ました。『また、あの就職案内の山を探らないといけないのか?』という思いもありました。もっとも、幸い、結果は合格でした。

(つづく)

 

 

 

 

 

 


就職活動・就職試験先の選定

2023-05-02 07:53:42 | 888私の履歴書ー仕事編-

(昭和記念公園のチューリップ    令和4年4月12日撮影)

 

 1971年6月、大学4年の私は、庶務課のテーブルの上に無造作に積まれた就職案内の山の前にいました。

 当時、私が通っていた大学は、現在は松本市の「あがたの森公園」となっている場所にありました。その校舎は、旧制松本高等学校時代のものをそのまま使用しており、現在もあがたの森公園に講堂など一部の建物が保存されています。

 そんな古い建物の暗い庶務課で、特段の就職希望ももたない一人の男が、特段の基準もなく、3社の就職案内を選びました。

 当時の就職状況は、高度成長期ということもあって、いわゆる売り手市場でした。それもあってか、今のような活発な就職活動は皆無と言って状況でした。大学での就職説明会やサポートも全くない時代でした。単に、『就職案内書をどうぞご覧ください!』程度だったわけです。そんな雰囲気もあって、4年生同士での情報交換もなく、選んだ3社の就職試験を受けることになりました。もっとも、地方の大学、大企業への就職はよほど成績優秀でないと難しく、『〇〇が三菱商事に合格したらしい』などのうわさも伝わってきて、そのことは、就職試験で十分に知ることになります。

 選んだ3社はいずれも自動車部品メーカーでした。漫然と『メーカーが安定していていかな?』という思いがあった気がします。うち2社は、地元の愛知県、1社は関東(本社川崎)のメーカーでした。漫然と地元で就職という気持ちがありましたが、これも漫然と、という程度で、ともかく、就職をまじめに考えていなかったことだけは確かでした。

(つづく)