(神代植物公園の大温室のシクンシ 8月22日撮影)
前回の予告で担当変更の話をする予定でしたが、まずは給料の話題を先にしたいと思います。
給料ですが、初任給だけはよく覚えています。1972年4月の入社で51年前になりますが、48,200円でした。今はいくらぐらいでしょうね。ネットで調べると大卒で225,000円ほどのようです。入社当時の普通の醬油ラーメンが100円ほどでした、今は650円ぐらいでしょうか。このラーメンの値段基準だと、私の初任給はいまだと30万円ほどになることになります。単純比較で精度はどうかと思いますが、物価比の給与水準はどうやら下がっていそうですね。
本題に戻ります。この初任給、実は2年で2倍になったのです。昭和48年のオイルショックのお話をしましたが、この時の物不足で、物価が高騰したのです。それに合わせて給料も高騰したのです。
入社翌年には7万円ほどに、そして入社3年目には10万円ほどにもなったのです。つまり、2年間で給料が2倍になったのです。もっとも、3年目の給料は、身分が1級分昇級したことも含んでいますが。
とは言え、その後の給料のことはほとんど覚えていませんが、初任給と、この時10万円になった時のことは、「こんなに増えた!」とびっくりしたのをよく覚えています。
給料のことで、その後はっきり覚えているのは、この時点からはずいぶん先のことになりますが、転職した時です。この時は、転職先と報酬の交渉をすることになったので、当然よく覚えています。そのお話は、そこまでたどり着けるか分かりませんが、その時に。
さて、予定していた担当替えのお話です。
金属材料の購入担当を3年経験し、次に担当したのは金属は関係していますが、鋳物製の部品の購入担当でした。
この部品は、本社の敷地と同じ場所にあった、川崎工場で製造していた製品のメイン部品です。会社は自動車部品を主力製品としていましたが、川崎工場は、会社としての基礎の技術を引き継いだ製品を製造していて、主な客先は石油プラントなどの装置産業でした。より具体的には、石油などの量を測る機器(「流量計」など)の製造でした。
先任の担当は出井さんといい40歳ぐらいでしたが、入社以来鋳物の専門家「鋳物の出井」と言われたベテランでした。
鋳物といえば「川口」です。出井さんとよく川口に出かけました。これまでの金属材料は大手が相手で、一番大事な業務は価格交渉です。オイルショックの物不足の時を除けば、納期で苦労することはなかったのですが、鋳物は中小の会社が相手です。ともかく、納期が守られないのです。連日のように納期調整(これを「あおり」といいます)に出かけていました。
それと、不良品も多々発生します。しかも納入されたとき分からず、加工して初めてわかるのでこれが困るのです。これは「巣」と言われるもので、鋳造物の内部に空洞が発生する現象のことです。この巣は加工しないと分からないのです。巣の場所によっては補修がきくのですが、ダメな時は再手配となって、納期がなおさら苦しくなります。
とまあ、鋳物担当は大変な仕事でした。「鋳物の出井」というベテランでなくてはならない理由もよくわかりました。ともかく、いい勉強になりました。
というのも、この鋳物担当は半年ほどで終わり、今度は本社を離れて工場に転勤になったのです。
ということで、本社資材部時代は本日で最終回です。次回からは「山梨工場勤務時代」として、私の履歴書を続けさせていただきます。
(本社資材部時代 終わり)