SYUUの仕事部屋:ものづくりの世界のしくみをもっと深く知ろう!

製造業(メーカー)の仕事の仕組みをご紹介しています。

本社資材部時代:2年で2倍に

2023-08-27 10:58:00 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園の大温室のシクンシ    8月22日撮影)

 

 前回の予告で担当変更の話をする予定でしたが、まずは給料の話題を先にしたいと思います。

 給料ですが、初任給だけはよく覚えています。1972年4月の入社で51年前になりますが、48,200円でした。今はいくらぐらいでしょうね。ネットで調べると大卒で225,000円ほどのようです。入社当時の普通の醬油ラーメンが100円ほどでした、今は650円ぐらいでしょうか。このラーメンの値段基準だと、私の初任給はいまだと30万円ほどになることになります。単純比較で精度はどうかと思いますが、物価比の給与水準はどうやら下がっていそうですね。

 本題に戻ります。この初任給、実は2年で2倍になったのです。昭和48年のオイルショックのお話をしましたが、この時の物不足で、物価が高騰したのです。それに合わせて給料も高騰したのです。
 入社翌年には7万円ほどに、そして入社3年目には10万円ほどにもなったのです。つまり、2年間で給料が2倍になったのです。もっとも、3年目の給料は、身分が1級分昇級したことも含んでいますが。
 とは言え、その後の給料のことはほとんど覚えていませんが、初任給と、この時10万円になった時のことは、「こんなに増えた!」とびっくりしたのをよく覚えています。

 給料のことで、その後はっきり覚えているのは、この時点からはずいぶん先のことになりますが、転職した時です。この時は、転職先と報酬の交渉をすることになったので、当然よく覚えています。そのお話は、そこまでたどり着けるか分かりませんが、その時に。

 さて、予定していた担当替えのお話です。

 金属材料の購入担当を3年経験し、次に担当したのは金属は関係していますが、鋳物製の部品の購入担当でした。
 この部品は、本社の敷地と同じ場所にあった、川崎工場で製造していた製品のメイン部品です。会社は自動車部品を主力製品としていましたが、川崎工場は、会社としての基礎の技術を引き継いだ製品を製造していて、主な客先は石油プラントなどの装置産業でした。より具体的には、石油などの量を測る機器(「流量計」など)の製造でした。

 先任の担当は出井さんといい40歳ぐらいでしたが、入社以来鋳物の専門家「鋳物の出井」と言われたベテランでした。
 鋳物といえば「川口」です。出井さんとよく川口に出かけました。これまでの金属材料は大手が相手で、一番大事な業務は価格交渉です。オイルショックの物不足の時を除けば、納期で苦労することはなかったのですが、鋳物は中小の会社が相手です。ともかく、納期が守られないのです。連日のように納期調整(これを「あおり」といいます)に出かけていました。
 それと、不良品も多々発生します。しかも納入されたとき分からず、加工して初めてわかるのでこれが困るのです。これは「巣」と言われるもので、鋳造物の内部に空洞が発生する現象のことです。この巣は加工しないと分からないのです。巣の場所によっては補修がきくのですが、ダメな時は再手配となって、納期がなおさら苦しくなります。

 とまあ、鋳物担当は大変な仕事でした。「鋳物の出井」というベテランでなくてはならない理由もよくわかりました。ともかく、いい勉強になりました。
 というのも、この鋳物担当は半年ほどで終わり、今度は本社を離れて工場に転勤になったのです。

 ということで、本社資材部時代は本日で最終回です。次回からは「山梨工場勤務時代」として、私の履歴書を続けさせていただきます。

 

(本社資材部時代 終わり)

 

 

 

 

 


本社資材部時代:接待

2023-08-20 10:08:41 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のムクゲ    7月5日撮影)

 

 

 資材部、ご紹介しているように会社で使用する物を購入する部署です。つまりは納入先から見れば、「お客様」ということになります。

 ということで、資材部といえば必ず付いてくるのが「接待」です。

 営業部門と違って、待っていれば、向こうからきてくれますので外出は少ないのですが、どうしても出かけなくてはすまない事態もあるので、取引先に出かけることもあるのですが、終わった後は必ず「この後どうでしょう?」と声がかかります。そうです、「お食事でも?」というわけです。

 会社にいる時でも、夕方にやってきて、打合せが終わると、「もう仕事が終わりですよね。この後どうです?」と誘われることも時々あります。

 いわゆる高度成長期、こんな接待は当たり前でした。

 また、若造の私でも、当たり前のようにありました。私一人の時は、居酒屋程度の場所でしたが、上司と一緒の時はグッとランクが上がります。いわゆる「料亭」となるわけです。綺麗なお姉さんが隣に、とドギマギすることも、というわけです。

 接待されたから、交渉で甘くするということはないのですが、ある種取引先との意思疎通の会というわけです。個人的にも仲の良い営業マンも数人です出来ました。入院されたといった話を聞いたときは、見舞いに行ったこともあります。

 

 接待と同じように、お中元とお歳暮の時期の贈答品も結構来ました。困るのは独身寮なので、寮の仲間に知られてしまうことです。仕方なく、食料品は仲間にもおすそ分けをしていました。ワイシャツのお仕立券なども来て、生意気にもデパートで作ってもらって着てました。

 接待は今でもあるでしょうが、贈答品は禁止、というか「しない」というのが最近の企業の姿勢になっているのかと思います。古き良き時代の習慣だったわけです。

 

 接待や贈答品が当たり前、ということでそうなったわけではないでしょうが、やはり買う立場で、取引先からは丁寧な対応を受けていると、それが当たり前と思ってしまったようです。その後、色々な仕事の経験をすることで気が付く時が来るのですが、ずいぶん生意気な若造が出来上がっていたようです。

 ある日、外出から帰ってくると、会議室に呼ばれたのです。そこには他部署の課長が興奮した顔で座っていたのです。どんなことだったのか全く覚えていませんが、質問を受けて答えたのですが、「君の部下は生意気だ!」といきなり私の課長が怒られたのです。課長がかばってくれて、その場は済んだのですが、ついつい、取引先とのやり取りが身についていたようです。

 

 本社資材部での金属材料の担当は3年ほどでした。怖い部長は私にはずいぶん期待してくれていたようです。別の経験をということだったのだと思います。「君の部下は生意気だ!」事件から間もなくして、少し地味は仕事も、ということだったのだと思います。担当替えになりました。

 

(次回、担当替えに続く)

 

 

 

 

 


本社資材部時代:昇級試験

2023-08-13 09:49:27 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のムクゲ    7月5日撮影)

 

 入社2年目に昇級試験がありました。今日はそのお話です。

 会社経験のある方ならご存知のことですが、重役などの経営者ではない一般の社員には2つの身分があります。一つは仕事上の身分・職位(係長、課長、部長など)と給料の基準となる身分の二つです。 昇級試験は、この給料の基準となる身分を上げるための試験です。

 この会社では、昇級とあるように、給料の基準となる身分が10級(最低)から1級(最高)の10段階ありました。
 大学を卒業して入社すると全員7級が与えられ、2年目で全員6級に自動的に昇級しました。そして3年目の春の昇給を前に、5級昇進への試験があるのです。

 会社によっては、仕事の身分・職位を上げるための昇進試験もあるようですが、私の会社ではそれはなく、昇級試験もこの6級から5級への昇給の時が唯一の試験制度でした。

 試験は2つあって、一つは共通テストで、10問程度の設問に文章で答えるものです。主に、仕事への取り組み方を問われる設問になっていました。もう一つは課題論文で自分の仕事の改善策を提言するもので、論文提出後内容のプレゼンを行います。
 それで、大変なのは課題論文です。適当に書いて提出すれば良いというものではないのです。唯一の昇級試験とあって、ある種部署対抗の運動会のようなもので、個人の問題では終わらず、部のメンツの問題になっていたのです。「部として不合格は許さない」というわけです。上司の厳しい添削が待っています。

 最初の上司への提出は期限の1週間前でしたが、それからほぼ徹夜の毎日でした。終業時間後に上司から指摘があって、夜に寮で徹夜で書き直して翌朝提出、夕方には上司の指摘、夜書き直し、それが1週間繰り返されたのです。当然、昼間はまともに仕事が出来ません。昼寝していたのを今でもよく覚えています。
 期限が来て、上司には納得いく出来ではなかったようですが、時間切れで提出となりました。

 で、いよいよ試験です。まずは共通テストでした。内容は私にはほぼ問題なく答えられる設問ばかりで、あっさり終わりました。
 そして、翌日が課題論文のプレゼンでした。発表はスムーズに終わりましたが、試験官の質問に答えたものの、その答えの中で何やら納得されていない雰囲気も一部で感じられました。とは言え、ともかく試験は終わりました。

 試験が終わって1週間ほどで発表があったのですが、その結果で社内に激震が走ったのです。受けたのは30名でしたが、合格者8名だけだったのです。

 実は、課題論文で苦労するのはいずれの部署でも同じことですが、それはある種教育の意味が大きかったのです。苦労して課題に取り組むことに意義があるという趣旨もあって、これまで、昇級試験はほとんどの人が一発合格していたのです。それが、半分も合格しなかったということで、大騒ぎになったのです。
 どうやら、団塊世代の入社ということもあって、採用人数も多かった時期で、その年から試験を厳しくするという方針が事前に決められていたようです。とは言え、突然の方針変更、いつの時代も団塊世代=競争世代だったということです。

 ところで、肝心の私の結果ですが、どうにか「合格」でした。
 どうやら、課題論文は不合格、共通テストは1番という結果だったようで、あの怖い部長が、隣の部長さん、つまりは総務部長さんに頼み込んでくれたようです。幸い本社の同じ建屋で、隣が総務部という立地条件も幸いしたようです。
 それと、本社所属というのもある種有利だったのかもしれません、本社所属の同期3人は全員合格でした、

 ということで、昇級試験狂騒曲は無事終わりました。それと、翌年からはまた方針が変わって、不合格の同期も翌年には全員合格しました。

 そして、同期の昇級・昇進競争もここからスタートしたのです。

 

 

(昇級試験 おわり)

 

 

 

 

 

 

 


本社資材部時代:オイルショック

2023-08-06 10:42:40 | 888私の履歴書ー仕事編-

(神代植物公園のムクゲ    7月5日撮影)

 

 

 本社資材部での業務は4年半ほどでした。新社員時代もご紹介したように資材部所属でしたが、ここからは2年目以降の3年半の資材部時代のお話をしたいと思います。

 入社2年目、担当も金属材料の購入担当に変更になるとともに、後輩も入ってきて、何やら一人前の気分でいた時に起こったのが、「オイルショック」でした。

 オイルショックは、中東の原油の高騰をきっかけに起こった世界的な経済混乱ですが、具体的に国内で起こったことは「物不足」によるインフレでした。一般的に今でもオイルショックの代名詞のように取り上げられるのは「トイレットペーパー不足」です。

 まあ、トイペー不足ぐらいなら、経済混乱とは言えませんが、実際に企業レベルでもあらゆるものが高騰し、しかも入手が難しくなったのです。

 私が担当する金属材料も例外ではありませんでした。しかも全社的にみても重要な資材、それが入手できなくなっては生産に大きな障害となります。しかも調達担当は本社資材部ということで、普段から赤ら顔で怒鳴りまくっていた部長の怒鳴り声がいっそう大きくなったのは当然の結果です。

 「何を座っているんだ!出かけて行って物を集めて来い!」

 すでに、資材不足で生産が遅れるということが起こっていて、問題になりかかっていたので当然ですが、前回もお話したように、重要な部品に加工される材料は規格が厳格で、市販のJIS規格品では利用できないのです。それと、急に新規取引といってもどこでもいいわけではないのです。

 とは言え、座っていると怒鳴られるので、ともかく外出です。行くのはまずは、馴染の商社です。主要金属材料の場合、当時はメーカーとの直取引ではなく、商社経由が普通でした。

 メーカー系の商社の場合はメーカーが限定されますが、複数メーカーとの取引のある商社や商社自身が倉庫をもって市販材を在庫販売している場合もあるのです。

 結果的には自社の仕様と同じものを調達することは不可能なのですが、社内でも大問題になっていて、市販品を短期間でテストして使うという体制が早期に完成していたのです。

 ということで、ともかく社内にはおられず、外出して物集めの毎日でした。新しい取引先も3社ほど行いました。

こういった状況は、金属材料に限定された事態ではなくあらゆる資材で起こっていました。

 営業応援とか、現場応援とか、販売や生産の応援で他部署から応援するということが時々起こりましたが、この時は私のメーカー勤務時代で唯一の「資材部応援」があった時期でした。

 

 もっとも、物不足の期間は半年程度とさほど長くなかった記憶があります。それより、他部門の応援が終わった後、慣れない調達業務の間違いの後始末が大変だった記憶があります。

 

 そして、その後、調達が安定した時期に、前回のお話の部長によるメーカー変更事件が起こることになります。部長の一言「テストをすぐしてもらえ!」というわけです。資材不足も落ち着いてきて、今度は簡単にはテストをしてもらえない状況だのですが・・・

 

 

(オイルショック おわり)