「フナ侍」岸田が日本を壊す 浜矩子さん【ここがききたい】20230127
浜矩子さんの新しいネーミング、岸田首相は「フナ侍」。狭い井戸の中であっちの壁にぶつかって方向転換、こっちの壁にぶつかっては方向転換、竹ざおで突かれても方向転換。何をやりたいのか、何を基準に判断しているのかも判然としない。
アホノミクスの大将、スカスカのスカのミクスの暗い宰相の次は、安倍に従うアホダノミクスの岸田かと思っていたら、なお悪い。
敵は、海の向こうからくるのではない。このままでは、どこかのよそから敵が攻めてくる前に日本は大崩壊。私たちはどうしたらいいのか、浜矩子節を堪能しながら、私たちは自分の頭で考えるほかに道はないと納得します。 収録は2023年1月27日
[9日 ロイター] - 米連邦準備理事会(FRB)の議長を1979年から1987まで8年間務め、積極的な利上げで高インフレを抑え込んだことで知られるポール・ボルカー氏が9日、死去した。92歳だった。ボルカー氏の娘、ジャニス・ジーマ氏が明らかにした。
ボルカー氏は財務次官やニューヨーク連銀総裁などを経て、カーター政権下でFRB議長に就任した。2008年の金融危機後にはオバマ前大統領によって米経済の立て直しを担う経済再生諮問会議の議長に任命され、金融機関の高リスク投資を制限する「ボルカー・ルール」を提案した。トランプ大統領は2017年の就任後、同ルールの見直しを進めてきた。
トランプ氏が2018年にFRBの利上げは「常軌を逸している」と繰り返し批判したのを受け、ボルカー氏はパウエル現FRB議長に政府からの批判は無視していいと助言していた。パウエル氏は声明で、ボルカー氏の死去に「深く悲しんで」おり、ボルカー氏は「長く語り継がれる功績」を残したと称賛した。
ボルカー氏はFRB議長就任後間もない1979年10月に、米経済を苦しめていた高インフレに対応し、公定歩合を過去最高の12%に引き上げた。これを受けて最優遇貸出金利であるプライムレートは81年5月までに過去最高の20.5%に達した。失業率は2桁台に上昇し、景気は低迷。ただ、その後の80━83年の期間にインフレ率は約15%から3%未満に沈静化した。
インフレ封じ込めのための引き締め政策は議員らの反発を招いただけでなく、農家や建設業者などが大規模なデモを実施して抗議した。
ボルカー氏は後年、これほどまで大胆な引き締め策を実施したのは間違いだったと認めており、87年に行われたロイターのインタビューで、やり直しできるならば「異なる方策を取っていただろう」と回顧している。
金融引き締めはカーター氏がレーガン元大統領に敗れた1980年の米大統領選に影響を及ぼした可能性もある。ただ、カーター氏は「FRB議長としてのボルカー氏の政策は一部で政治的代償を伴ったが、正しい行動だった」とコメントした。
ボルカー氏は2018年に出した回顧録「健全な金融、良き政府を求めて」で、連邦政府の方向性と政府への尊敬が失われた現状に懸念を示した。同年10月にはニューヨーク・タイムズ紙に対し、莫大な富を得た多くの富裕層が、自身の聡明さによって富がもたらされたとうぬぼれ、政府や税金を軽視していると批判。「現在の中心的な問題は金権政治が生まれつつあるということだ」と警鐘を鳴らした。
生い立ち
1927年、ニュージャージー州ケープ・メイで、父親のポール・アドルフ・ボルカー、母親のアルマ・ルイーズ(旧姓クリッペル)[2][3]の間に生まれた。ティーネックで成長し、父親は郡区の初代区長であった。幼少時、ボルカーは母親の信仰していたルーテル教会に通ったが、父親は米国聖公会の信者であった。
ボルカーはティーネック高校を卒業[4]し、その後はプリンストン大学政治経済学部、ハーバード大学ケネディ・スクールで政治経済学修士号を取得。
経歴
- 1952年、ニューヨーク連邦準備銀行入行。
- 1957年、チェース・マンハッタン銀行に出向、同行副社長(1965年 - 1968年)を務める。
- 1969年、財務省通貨担当事務次官を務める。
- 1971年、ジョン・コナリー長官下の主席財務次官として、キャンプ・デービッドの合意案を起草し、ブレトンウッズ協定による固定為替相場制の廃止に貢献した。
- 1975年、ニューヨーク連邦準備銀行総裁を務める。
- 1979年、カーター政権下で連邦準備制度理事会議長に選任され、1983年に続くレーガン政権下でも再任された[5]。
- 1987年8月、後任のアラン・グリーンスパンにFRB議長職を継承。退任後も財務省ポスト、大企業の社外取締役などを歴任し、精力的に活動を続ける。
- 1988年11月、勲一等瑞宝章受章[6]。
- 2004年、国連「石油・食糧交換プログラム」におけるイラクの不正需給(国連汚職問題)を調査する独立調査委員会委員長に就任している。新生銀行のシニア・アドバイザーでもある。
- 2008年11月、バラク・オバマ次期政権における大統領経済回復諮問委員会委員長に就任することが決定した。
- 2019年12月8日午後5時、ニューヨーク州にて満92歳で死去[7][8]。