とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

ベトナム戦争 3

2007年01月11日 12時32分03秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)
[編集] アメリカ軍撤退後の戦況
アメリカ軍の撤退により、実質的に南北ベトナム軍の正規軍同士が直接対決する形になった(しかし、アメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し南ベトナムに残留していた上、軍事物資の供給も行われていた。なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)が、アメリカ軍が撤退した分増えるはずの南ベトナム軍の兵士の数は増えるどころか減り続け、それに合わせるように南ベトナム軍の死傷者の数も増大して行った。また、1974年1月には北ベトナム軍がカンボジアの首都であるプノンペンに迫り、9月以降は北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後もじりじり南下してくるなど、その勢いは増すことはあっても減ることはなかった。

また、ウォーターゲート事件やベトナム戦費や月面探査による出費と不況などの国内問題に国民の関心が移ったアメリカは、同年8月に議会が最後の南ベトナム政府への金融援助を決定したものの、その額は以前と比べ物にならないほど低く、もはやアメリカ政府が南ベトナム政府を見限ったことは誰の目にも明らかになった。また同月、ベトナム撤退の立役者であるニクソンはウォーターゲート事件の責任をとって辞任、後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は混迷を続ける内政の立て直しに集中しなければならず、ソ連とは積極的な宥和政策を採る。こうしてアメリカ国民はベトナムへの関心を失った。


[編集] 北ベトナム軍の全面攻撃

1975年3月以降、サイゴン陥落までの北ベトナム軍の攻撃の経緯を表した地図北ベトナム政府はその後、アメリカの再介入の恐れがないと判断し、1975年3月10日にパリ協定に違反して南ベトナム軍に対し全面攻撃を開始した。いわゆるホー・チ・ミン作戦である。

この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港として知られるダナンが陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める。4月10日には中部の主要都市であるバンメトートが陥落。グエン・バン・チュー大統領はアメリカに対し軍事支援を要請したものの、南ベトナム政府から手を引いたアメリカ議会は、軍の派遣も軍事援助も拒否した。

4月中旬には南ベトナム政府軍が首都・サイゴンの防御に集中するため主な戦線から撤退を開始したが、結果的にこの戦略は裏目に出た。サイゴン防御のために撤退した南ベトナム政府軍は、敵の急な撤退に進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えることは出来ず総崩れになり、北ベトナム軍はサイゴンに迫った。


[編集] サイゴン陥落
4月21日にはグエン・バン・チュー大統領が事態の責任を取り辞任。後任に長老の1人で1960年代に大統領を務めた経験を持つチャン・バン・フォン副大統領が就任した。穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りサイゴン北部のタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いフォン大統領との和平交渉を4月23日に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は4月29日に就任後わずか8日で辞任した。


ヘリコプターでアメリカ軍の空母に脱出した南ベトナム人
南ベトナム大統領官邸(現在はベトナム統一会堂)後任には同じく穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、ミン大統領による和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。この時すでに南ベトナム軍は各方面で完全に崩壊し、北ベトナム軍の地上部隊によりサイゴン郊外にあるタンソンニャット国際空港が完全に包囲されるなど、陥落を待つばかりとなった。

サイゴン市内の軍施設やタンソンニュット空軍基地への砲撃が続き、サイゴン陥落が避けられない状況となった。南ベトナム政府上層部やその家族、残留アメリカ人らがサイゴンの沖合いに待機するアメリカ軍空母に向けてヘリコプターや軍用機、小船などで必死の脱出を続け、空母の甲板では、次々と飛来するヘリコプターが着陸する場所を確保するために、着陸したヘリコプターは着陸次第次々と海中に放棄された。

4月30日の朝にはグエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元副大統領、アメリカのグレアム・アンダーソン・マーチン駐南ベトナム大使ら南ベトナム政府の要人の多くもアメリカ軍のヘリコプターで脱出した。この時、北ベトナム軍はアメリカ政府の要請を受け、サイゴンに在留するアメリカ軍人・民間人が完全撤退するまでサイゴン市内に突入しなかった。しかしこの際、在留する日本人は、たとえベトナムに残っても迫害を受ける可能性が低いことなどを理由にアメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された上、自衛隊の海外派遣が禁じられていたために、欧米諸国のように政府専用機や軍用機による救出活動も行われなかったため、混乱下のサイゴンに取り残された。

同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、ミン大統領らサイゴンに残った閣僚は北ベトナム軍に拘束され、午前11時30分にサイゴンは陥落。アメリカの支援も首都も失った南ベトナムは遂に崩壊した。


[編集] 南北ベトナム統一
陥落後、サイゴン市は北ベトナム政府の管理下におかれ、ピアストルとドンの通貨の統合や行政、官僚組織の再編成、企業の国営化が進められた。その後、1976年7月に南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国の成立が宣言された後、サイゴン市は北ベトナムの指導者の名前を取った「ホー・チ・ミン市」と改名された。


[編集] 損失

ジャングルに枯葉剤を撒き散らすアメリカ軍のヘリコプター(1969年)
[編集] ベトナム
1960年代前半よりベトナム人自らの意思を無視した形で始められ、その後10年以上続けられた戦争によって、南北ベトナム両国は100万を超える戦死者と数千万の負傷者を出した。このことは、掲げる政治理念や経済体制に関わらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊により国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。

また、共産主義政権による武力統一および性急な社会主義経済の施行は、長年比較的自由であった資本主義経済に慣れ親しんだ多くの南ベトナム国民の混乱や反発を招き、その後多くのベトナム難民を生む理由となった。南北統一以前のサイゴン陥落から、政権への服従を拒むかその容疑がかけられた市民は、人民裁判により容赦なく処刑されるか強制収容所送りになった。解放戦線は正規軍への編入と同時に解散を命じられ、解放戦線の幹部は北の労働党から疎んじられた。僅かに解放戦線議長を務めて統一に多大なる貢献をしたグエン・フートは戦後に実権が伴わない名誉職である国会議長を務めた程度である。

アメリカ軍がゲリラ掃討を目的に、人体への悪影響を知りながら密林に撒いた枯葉剤は、毒性の強いダイオキシン類を含んでいたために現在に至るまで環境や人体に深刻な影響を与え続けている。また、戦争当時にばら撒かれた不発弾や地雷が戦争終結後も多くのベトナム人の人命を奪うなど、戦闘による傷跡は、終戦後30年以上経った現在も国民を傷め続けている。


[編集] アメリカ

カリフォルニア州にある、参戦した南ベトナム軍とアメリカ軍の兵士をたたえる記念碑アメリカは自らの利益の為に遠いベトナムの地で起こしたこの戦争で戦死者58,000余名(派兵数全体の約10%)と1,700機の航空機、その他にも大量な兵器の損失を出し、その結果膨大な戦費負担は経済を直撃した。しかしながらこの戦争により、ボーイングやロッキード、マクドネル・ダグラスやノースロップ・グラマンなどの多くの軍需関連企業は大きな利益を手にし、いくつかの破産寸前だった企業が息を吹き返し、アメリカという国家が軍産複合体に大きく依存していることが再認識された。

また、戦争をめぐっての国内世論分裂や事実上の敗北による挫折感は既成の価値観を崩壊させ、反戦活動の高まりや徴兵拒否の増加を受けて、アメリカ軍がベトナムから撤退した1973年には徴兵制が廃止された。他にも、“勝利”を獲得できなかったベトナム帰還兵への非難や中傷が社会問題化した。


[編集] 日本への影響
ベトナム戦争は当時高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、長きにわたって日本の総理大臣を勤めた佐藤栄作(1964年~1972年)は、日米安保条約のもと、開戦当時はアメリカ軍の統治下にあった沖縄や横須賀などの軍事基地の提供や、補給基地としてアメリカ政府を一貫して支え続け、1970年には安保条約を自動延長させた。その見返り的に、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県のアメリカからの返還を実現した。佐藤は沖縄返還後に職を辞するが、「非核三原則」の提唱が評価されて1974年にノーベル平和賞を受賞した。

一方、左翼市民運動家はベトナム戦争を「ポスト安保闘争」の中核とみなし、反戦運動(その一環として脱走兵支援も)や過激な学生運動が盛り上がりを見せた。しかし、これらの活動団体のいくつかがソ連などの共産圏から金銭・物資面で後援を受けていたことが当事者によって戦後暴露され、大きな批判を受けた。

また、ベトナム戦争終結後、1980年代後半までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民がいなくなった現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。


[編集] 国交回復

ベトナム航空のボーイング767型機ベトナム戦争の終結から20年を経た1995年8月5日に、ベトナムとアメリカは国交を回復した。その後2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、ベトナムにとって、現在アメリカは中華人民共和国に次いで第二の貿易相手となっている。フォードやジェネラルモーターズ、ヒルトンといったアメリカの大企業が、成長著しいベトナム市場に続々と進出した。

また、現在は両国の航空会社が相互に乗り入れ人的交流も盛んになっている他、ベトナム経済の成長に合わせて投資や貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。


[編集] 評価

復興したホーチミン市(旧サイゴン市)ベトナム戦争は従来の戦争と形態を異にした。生々しい戦闘シーンが連日テレビで報道され、戦争の悲惨さと空しさを全世界に伝えた。小国である北ベトナムを強大な力を持つ超大国アメリカが攻撃し、南ベトナム政府を自分の好きに操ろうとする姿は、理由の如何を問わず、見る者を “大義のない戦争” と思わせるに十分であった。

ベトナム戦争終結と共に、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアではアメリカと中国の支援を受けたクメール・ルージュが相次いで政権に就き、泥沼の戦争を経たにもかかわらず、インドシナ半島は全て共産主義化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実の物となった。だが、この地はその後も安定せず、ベトナムは無差別虐殺を繰り返していたポル・ポト独裁の打倒を掲げてカンボジアに侵攻し内戦が再燃、対して中華人民共和国がベトナムに侵攻して中越戦争が起き、不安定な状況が継続した。背景にはインドシナ半島をめぐる中ソの覇権争いがあり、ソビエト連邦や中国などの共産主義国が、純粋に人道上の理由で北ベトナムを支援したものではないことも明らかになった。

後世の歴史評価を待たなければならないが、元ベトナムの宗主国であったフランス大統領のシャルル・ド・ゴールが語ったように、ベトナム戦争が民族自決の大義と尊厳を世界に問うたことだけは明白である。


[編集] 報道
ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。アメリカ・北ベトナム双方がカメラマンや新聞記者の従軍を許可し、彼らは直に目にした戦場の様子を社会に伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた。特にアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、テレビ局や新聞社が自主的に規制する風潮が高まった。インドシナ半島で戦死したジャーナリストは、第一次インドシナ戦争から中越戦争までで172名に上る。内、ベトナム人が72名、アメリカ人22名、フランス人19名、日本人15名、以下イギリス、西ドイツ、オランダ、カナダなどが続く。彼らはラオス内戦、カンボジア内戦でも従軍し、各地で命を落とした。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。 またアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を初めとしてメディアコントロールに力を注いでいくこととなる。


[編集] 関連作品
開戦された当時から主にアメリカを中心にベトナム戦争を扱った映画が多数製作された。戦争中こそドキュメンタリーや、右翼俳優として有名なジョン・ウェインが製作指揮を取り自ら主演した「グリーンベレー」のようなアメリカによる国威発揚のためのプロパガンダ映画もいくつか製作されたものの、戦争終結後はアメリカによる独善的かつ残虐的な行動や、(アメリカ軍の)ベトナム帰還兵の苦悩を描くものが多く製作された。


[編集] 映画
『フルメタル・ジャケット』(映画)
『プラトーン』(映画)
『地獄の黙示録』(映画)
『グッドモーニング, ベトナム』(映画)
『ディア・ハンター』(映画)
『フォレスト・ガンプ』(映画)
『ワンス・アンド・フォーエバー』(映画)
『ランボー』(映画)
『7月4日に生まれて』(映画)
『コウノトリの歌』(映画)
『カジュアリティーズ』(映画)
『イントルーダー 怒りの翼』(映画)
『戦場』(映画)
『天と地』(映画)
『U.S.プラトーン』(映画)
『ワイルド・ブリット』(映画)
『ダンボドロップ大作戦』(映画)
『スクワッド/栄光の鉄人軍団』(映画)
『ハンバーガー・ヒル』(映画)
『ホワイト・バッジ』(映画)
『ジェイコブス・ラダー』(映画)

[編集] テレビ
『サイゴンから来た母と娘』(ドラマ)
『グッドラック・サイゴン』(ドラマ)
『映像の世紀』第9集 『ベトナムの衝撃』(ドキュメンタリー)
『BLOOD+』(アニメ)

[編集] 演劇
『ミス・サイゴン』(ミュージカル)

[編集] 小説
『シャドー81』(小説)

[編集] 漫画
『Cat Shit One』(漫画)
『ヴェトナムウォー』(漫画)
『ザ・ベトナム』(漫画)
『ディエンビエンフー』(漫画)

[編集] ゲーム
『バトルフィールド ベトナム』(FPS)
『Vietcong』(FPS)
『Men of Valor』(FPS)



[編集] 音楽
『VIETNAM』 (音楽) SOFT BALLET

[編集] 関連項目

[編集] 人物
マダム・ヌー
ベトちゃん=ドクちゃん
ノロドム・シハヌーク
ロン・ノル
モハメド・アリ
開高健
近藤紘一
沢田教一
一ノ瀬泰造
石原慎太郎
佐々淳行
松本俊一
ウォルター・クロンカイト
ウィリアム・ウェストモーランド
キム・フック

[編集] その他
ウィキメディア・コモンズに、ベトナム戦争に関連するマルチメディアがあります。自由ベトナム政府
ホーチミン・ルート
ナパーム弾
ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)
ベトナム戦争の混血児問題
キャセイ・パシフィック航空700Z便爆破事件
フォーリン・アフェアーズ
マクドネル・ダグラス
パンアメリカン航空
北爆
カンボジア内戦
ベトナム戦争を扱った映画
特攻野郎Aチーム

[編集] 外部リンク
アメリカ空軍博物館「Vietnam War History Gallery」(英語)
韓国軍による虐殺レイプなど 「ハンギョレ21」(1999年5月16日第256号)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89" より作成


最終更新 2007年1月4日 (木) 17:16。 Text is available under GNU Free
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