住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

無常偈について

2006年04月10日 16時54分35秒 | 仏教に関する様々なお話
anicca vata sankhara
uppada-vaya-dhammino
uppajjitva nirujjhanti
tesam vupasamo sukho
(Pali Digha-Nikaya Mahaparinibbana-suttaパーリ長部経典第16大般涅槃経)

諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽
(漢訳)

すべてのものは無常にして、
生じては滅する性質なり、
再生してはまた滅していく。
それが静まり止むことこそ安楽なり。
(邦訳)

色は匂えど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず
(この無常偈をかなにしたいろは歌)

ここに挙げたのは所謂無常偈といわれる偈文であるが、これは、お釈迦様がクシナガラで入滅されたそのとき、帝釈天が唱えた詩であるとされている。パーリ長部経典におさめられた大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)に、その時の様子が詳しく記されている。その経典には、お釈迦様が息を引き取られたとき、身の毛もよだつ大地震が起こり雷鳴がとどろいたとある。

と同時に、梵天が
「この世において生けるものはすべて身体を捨てねばならぬ、
この世において無比の人、力をそなえた正覚者、
かくの如き師、如来さえ入滅されたことゆえに」と唱え、

そして、同時に、神々の王である帝釈天がこの無常偈を
「諸行は実に無常なり、生じ滅する性質のもの、
生じてはまた滅しゆく、その寂静は安楽なり」と唱えられたという。

そして、またこれも同時に尊者アヌルッダとアーナンダも次のような詩を唱えたという。「貪りのない牟尼にして、寂静により去り逝ける、心安定のかかるお方に、
もはや呼吸は生起せず、動じることなき心をもって、感受に忍び耐えられた、
灯火が消滅するように、心の解脱が生起せり」

「そのとき恐怖のことがあり、その時身の毛のよだちあり、
あらゆる勝れた相のある、覚者が入滅されたとき」と。そして、愛着を離れていない比丘や神々の泣く声がこだまし、その場に倒れ、転げ、のたうち回ったとその時周りにあった者たちのあまりにも早く入滅されたお釈迦様への思いをそう書き記している。

 私たちは、この無常偈を前に、単にこの無常偈だけの字面を追うことなく、この時の正に私たち仏教徒にとって、最も記憶に留めておくべきこのときの情景から解すべきなのであろう。お釈迦様というこの世のすべてのことに精通され、転生輪廻の呪縛から自ら解き放たれ、その真理への道を生涯有縁の者たちに説き聞かせ多くの弟子らを阿羅漢という悟りの極みに導いた聖者の最後を、その有様をまざまざと思い浮かべつつ、この偈文を読み味わう必要があるのではないかと思う。

そして、ここにあげた入滅直後の四つの偈を一つに解してはいかがであろうか。なぜならば入滅時にそれらが各々二人の神と二人の仏弟子から同時に唱えられたとしているのであるから。

つまり、「諸行は実に無常なり、生じては滅する性質なり」というのは、正にこの比ぶべき者のない無上の力あるお方であられるお釈迦様でさえ入滅し、恐ろしいばかりに地がふるえ雷が鳴り響いて奇瑞が起こり、無常のことわりに従われたのであるから、一切の衆生も誰一人としてこのことわりから逃れることなどできない、みな生じたるものは身体を捨て、滅するときが来るのである、と。

そして、「生じてはまた滅しゆく、その寂静は安楽なり」とは、お釈迦様は正に灯火が消え入るかのように生存の因を消し去られ、転生輪廻の束縛から解脱なされたお方であり、肉体という過去の業の報果をも離れた完全な無苦安穏の涅槃にお入りになられたのであるから、このお釈迦様の般涅槃parinibbana無余涅槃こそが最上の理想の安らぎなのである、と解釈したい。

そして今もって、スリランカ、タイ、ミャンマー、インドなどの南方上座部の国々では、仏教徒が亡くなると、葬送の儀礼にはこの偈文がパーリ語で唱えられ、火葬される。この偈文とともにお釈迦様の入滅を思い、お釈迦様の教えを奉じた者としてそのお徳を改めて思い起こし、来世にあっても、また仏教にまみえ、さらに心の浄化に励むべく、そのはなむけの言葉として唱えられるのである。

この無常偈をわが国にいろは歌として伝えられたお方が弘法大師空海、お大師様であると言われる。勿論この説には色々な説があるようではあるが。撰者が誰かはともかく、いろは歌はこの無常偈をわが国のかな文字で記した名句であろう。

いろは歌は、この世の移り変わる様の哀れを情感たっぷりに嘆き悲しみ、しかしその行き着く先の安らぎを思うという日本的情緒をかき立てる。がしかし、無常偈は本来もっと理性的に私たちの生きるということの際限を見つめる営みではないかと思う。

自らお悟りになり、多くの人々を教え導いて悟らせ、完全なる悟りに入られたお釈迦様を慕い、決してそのお釈迦様にすがるなどという安易な態度ではなく、その聖者たちの流れに付き随うべしという仏教徒としての厳然たる姿勢を差し示した誠に厳しい教えとして受け取るべきではないかと思う。であるが故にこそ、2550年もの間大切に唱えられ、護り伝えられているのではないかと思えるのである。
(文中「」にて記した部分は、中山書房仏書林刊原始仏教第8巻片山一良訳より)

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宗教について (野狐禅)
2006-04-15 12:46:16
私は無宗教者です、初めてコメント致しますが仏教については解らない事が沢山御座います、?

その一)儒教・道教・仏教・ついては。?



その二)大乗仏教・小乗仏教・密教・禅・?



その三)六派の哲学



その四)キリスト教・イスラム教・ユダヤ教との違いは。?



その五)宗教者は自派の事のみ説話するが上記の宗教を理解の上、説教者は無く現代宗教の信者と同じではないのか。もつとも生死をかけて戦っている信者(民族)も居るのですから。?



その六)聖徳太子以来神仏習合がなされ現在に至りますが、各宗派の称える者は自己保全であり生活の手段であって、その証拠は全国各地で寺の存続が時代の推移と共に霧散している。 以上疑問点を上げましたが明快な回答をお待ち致します。
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勉強してください (全雄)
2006-04-15 16:26:51
私は自分の関心事について調べ勉強してこれらの文章を書いています。あなたが関心のあることについてなぜ私が明確な回答をここに書く必要があるのでしょうか。



ブログとは、自由に何でも発信することの出来るページです。その作者に対して読んだ人が勝手に何でも要求できるというものではありません。私はそのように思います。



御自分の関心のあることは御自分で勉強し、それでも分からないことがあればその部分だけ質問するのがよいのではないでしょうか。
返信する
宗教について (野狐禅)
2006-04-16 00:33:15
丁重なお答えを頂き驚きました。



野狐禅の立場かれ坊主に説教致しますと『偈』について、

仏教の根本思想で四句と言う。即ち「雪山偈」の中から涅槃経に説く初句を。



「諸行無常」・・・万物は常に変化して少しの間も留まらないと言う事



「是生滅法」・・・あらゆる物は変転して尽きないものでこれが生滅の法であると言う事



「生滅滅已」・・・生滅無常の現象界を超起し生死を脱して涅槃に入る事



「寂滅為楽」・・・生死の苦に対して涅槃の境地を真の楽とする意。



以上雪山童子(釈迦の名)が修業中羅刹からこの偈の前半を聞き後半を聞く為に我が身を捨てて供養したと言う。



いろは歌はこの偈の意を取ったものである。
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前回の末尾追加 (野狐禅)
2006-04-16 00:54:53
丁重なお答えを頂き驚きました。



野狐禅の立場かれ坊主に説教致しますと『偈』について、

仏教の根本思想で四句と言う。即ち「雪山偈」の中から涅槃経に説く初句を。



「諸行無常」・・・万物は常に変化して少しの間も留まらないと言う事



「是生滅法」・・・あらゆる物は変転して尽きないものでこれが生滅の法であると言う事



「生滅滅已」・・・生滅無常の現象界を超起し生死を脱して涅槃に入る事



「寂滅為楽」・・・生死の苦に対して涅槃の境地を真の楽とする意。



以上雪山童子(釈迦の名)が修業中羅刹からこの偈の前半を聞き後半を聞く為に我が身を捨てて供養したと言う。



いろは歌はこの偈の意を取ったものである。



広島の原爆で死んだ人達はこの様な坊主に弔らはれないで今八大地獄で苦しんでいるぞもっと勉強しろ檀家に布教するぞ。







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