住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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お釈迦様のご真骨はいずこに

2016年02月07日 18時52分53秒 | 仏教に関する様々なお話
ある先生に勧められ、インドに居た頃、お釈迦様のご真骨を間近に拝む機縁を得たことをここに書き残しておきたいと思います。

あれは、比丘になった翌年のことなので1994年の二月頃、確かサールナートから日本に帰るためにコルカタに戻った頃のことであったと記憶しています。日本に帰りサールナートの無料学校のための寄付を集めるために、折角通い始めたサンスクリット大学を休学する手続きを済ませてタゴール大学のあるシャンチニケタンを経由して、コルカタに向かったのでした。コルカタのボウバザールの一角にあるベンガル仏教会の本部僧院に帰り着き、総長ダルマパル大長老に慌ただしくサールナートでの現地報告などを済ませ、日本に帰る準備をしたり、コルカタの僧たちにいろいろと教えを受けたりして日を過ごしていました。

そんなある日、昼食を済ませ自室で午睡を取っていると事務所に一本の電話が掛かってきました。すると僧院全体が慌ただしく賑やかになったと思ったら、ドアが叩かれ、あなたも来なさいというので総長室に行くと、僧院内の僧侶がすべて召集されていました。「いまインド博物館から電話があり、明日からブッダのシャリーラ(遺骨sarira)が特別展示されるに先立ち、我らビックサンガ(比丘僧伽Bhikkhu sangha)に法楽をあげて欲しいとのことなので、すぐにインド博物館に行くから、皆同行するように」とのことでした。

お寺のアンバッサダー(インド国産車)とマイクロバスに分乗して、コルカタのチョーロンギー通りに面したインド博物館の裏手に車は到着し、閉館日で誰も参観者のいない廊下を職員に案内されて、正面入口から入ってすぐのメインブースの前にやってきました。そして、その中に、お釈迦様の真骨が展示されていました。1メートル四方のガラスの中に白い綿が置かれ、その上に2、3センチほどの白いお骨がいくつも置かれていました。所々茶色く変色しており、日本で舎利と言われている小豆ほどの大きさの透明な仏舎利とはまったく異なり、まさに人骨の破片そのものでした。7、8人いた比丘衆はみな合掌し、しばし呆然とその舎利を見つめていました。

そして、その前にひざまずき三礼してから床に座り、ダルマパル総長の発声で、一同、「ナモー・タッサ・バガヴァトー・アラハトー・サンマーサンブッダッサー(阿羅漢であり正しく覚れるものであるかの世尊・お釈迦様を私は礼拝致します)」と三返お唱えし、

続いて、<仏の十徳>イティピーソー・バガヴァー・アラハン・サンマーサンブッドー・ヴィッジャーチャラナ・サンパンノー・スガトー・ローカビドゥー・アヌッタロー・プリサダンマサーラティ・サッターデーヴァマヌッサーナン・ブッドー・バガヴァー・ティ(かの世尊・お釈迦様は、供養されるに値する阿羅漢であり、正しく自ら覚れるものであり、智慧と行いに優れたものであり、覚りの世界によく行けるものであり、すべての世界をよく知れるものであり、この上無きものであり、よく制御せるものであり、神々や人間の師であり、真理を自ら覚った仏であり、聖なる方である)

<法の六徳>スヴァッカートー・バガヴァターダンモー・サンディティコー・アカーリコー・エーヒパッスィコー・オーパナーイコー・パッチャッタン・ヴェーディタッボー・ヴィンニューヒー・ティ(かの教えは、お釈迦様によってよく説かれたものであり、自分で見るべきものであり、時間を経ずして果を与えるものであり、自ら確かめつつ進むものであり、自ら心に獲得すべきものであり、賢者によって各々知られるべきものである。)

<僧の九徳>スパティパンノー・バガヴァトー・サーヴァカサンゴー・ウジュパティパンノー・バガヴァトー・サーヴァカサンゴー・ニャーヤパティパンノー・バガヴァトー・サーバカサンゴー・サーミーチパティパンノー・バガヴァトー・サーバカサンゴー・ヤディダン・チャッターリ・プリサユガーニ・アッタプリサプッガラー・エーサバガヴァトー・サーヴァカサンゴー・アーフネイヨー・パーフネイヨー・ダッキネイヨー・アンジャリカラニーヨー・アヌッタラン・プンニャケッタン・ローカッサー・ティ(お釈迦様の弟子の僧団は、よく法にしたがって修行するものであり、真っ直ぐに修行するものであり、悟りのために修行するものであり、人々の尊敬にふさわしく修行するものであって、この四双八輩といわれる弟子たちは、遠いところから持って来て供えるに値するものであり、方々から来た客のために用意したものを受けるに値するものであり、供えたものを受けるに値するものであり、合掌を受けるに値するものであり、世の無上の福田である)・・・・」とお唱えしました。

そして、読誦後再度丁重に三礼し、名残惜しく思いつつも博物館を後にしたのでした。その後、私は慌ただしく日本に帰り、今でも毎年本尊開帳法会などに出仕させていただいている東京都新宿区西早稲田の放生寺に居候させていただき、寄付勧簿活動を続けていました。日本財団からの協力金を獲得するなど予想外の進展を見て、いざインドへ戻ろうかと考えていた矢先に、インドでコレラが蔓延し、とても帰る状勢ではないとのことから早稲田のお寺で年越しすることになりました。そして、忘れもしない1月17日阪神淡路大震災が起こり、何度か現地に赴きボランティア活動に邁進、お釈迦様の真骨を拝ませてもらったこと、その時の感激もすっかり忘れ、その年の5月にコルカタの僧院に雨安居に戻っても、時折思い出してはその時の感動を話す程度のことで特段お釈迦様の真骨に関する調べをすることもなく過ごしておりました。

そして、今年の一月、先生がインドを再訪されるにあたり、インドの思い出話をしている中でお話したところ、それは本当に真骨と言えますかと先生に問われました。そこで、それは、19世紀末に、イギリスのペッペという考古学者が、インドネパール国境付近の村で、当時の文字でブッダの遺骨であると書いた舎利容器の中から発見し、それまで西洋世界ではお釈迦様を実在の人物とするのを疑問視する向きがあったのに、それによって実在した聖者であったことが証明されたこと。その真骨はタイに寄贈され、そこからスリランカ、ミャンマー、そして日本にも贈され名古屋の日泰寺に納められていることなどを話しました。そして、寺内にある書物の中から当時掘り出された舎利容器の写真なども見ていただきました。

この度、この一文を書くにあたり、改めて國分寺の書棚の中にあるペッペ発見の舎利に関する記述を当たり、またインターネットでも調べを進めてみました。

そこで、まずはじめに、日本にその真骨が納められたとされる名古屋にある覚王山日泰寺の公式ホームページから参照してみることに致します。日泰寺略記には、『「釈尊」の実在が立証される。19世紀東洋史上の一大発見 1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウイリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蝋石の壺を発見した。その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである。」と記されてあった。

これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、遺体を火葬に付し、遺骨を八つに分けてお祀りし、その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置したとある記載が事実であったことを証明するものである。当時19世紀の西欧の学者の間では、佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまいという見方が一般的であって、一部の学者にいたっては釈尊信仰を太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。そうした状況がこの発掘によって一変し、「釈尊」の実在が立証され、まことに19世紀東洋史上の一大発見となった。

その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、釈尊の御遺骨についてはこれを佛教国であるタイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎はバンコクに於いてこれを見聞し、羨望にたえず、日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。

日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の誕生 稲垣公使の通牒が外相青木周藏によせられ、直ちに日本佛教各宗管長に対して、受け入れ態勢の要請がなされ、当時の佛教13宗56派の管長は協議を開いてタイ国々王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、正使に大谷光演(東本願寺法主)、副使に日置黙仙(曹洞宗、後に永平寺貫首)の他、藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)等がタイに渡り、6月15日バンコク王宮に於いてチュラロンコン国王より親しく御真骨を拝受し、又使節団が帰国後、佛骨奉安の寺院を超宗派で建立するとお約束を申しあげたところ、完成時の御本尊にとタイ国国宝の一千年を経た釈尊金銅佛一躯を下賜された。

奉迎使節団は御真骨を奉持して帰国後、京都妙法院に仮安置し、佛教各宗の代表が集って新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を協議したが、候補地をめぐって意見が分れ、これの調整に甚だ難渋した結果、名古屋官民一致の誘致運動が最後に効を奏し、ようやく名古屋に新寺院を建立するとの結論を得た。ここに於いて名古屋市民あげての協力によって現在の地に10万坪の敷地を用意し、明治37年、釈尊を表す「覺王」を山号とし、日本とシャム(暹羅)の友好を象徴する日暹寺(現在の覺王山日泰寺)の寺号をもって誕生したのである。』とあります。

こうありますから、私があの日コルカタのインド博物館で拝んだ仏舎利、お釈迦様の真骨も、イギリス人ウイリアム・ペッペがピプラーワーで発見した遺骨に違いないと思っていました。しかし、たまたま数年前に手に入れていた、立正大学名誉教授中村瑞隆師の著書『釈迦の故城を探る-推定カピラ城跡の発掘(雄山閣出版)』(54頁)によれば、まず、1896年にお釈迦様の生誕を記念するアショカ王の建てた大石柱がネパール領のルミンディで発見され、それによって、そこが仏伝にいうルンビニ園であることが確定したのだといいます。そして、翌年イギリスのインド史の権威者ビンセント・スミスはピプラハワの遺跡を調査しているうちに巨大なストゥーパ(杉本卓洲「ブッダと仏塔の物語」によれば高さ6.8メートル直径35メートル)や僧院跡などを発見し、そのスミスの示唆を受けて考古学者ウイリアム・ペッペは1898年ストゥーパを縦横三メートル角に発掘したところ頂上から三メートルの所に石鹸石の壊れた壺を発見し、それよりさらに二・八メートル下で砂岩製の大石棺を発掘したのでした。

その中には、四個の石鹸石の壺と水晶の鉢、金板や銀板、ビーズなどの副葬品が入っており、中でも古い文字が刻された舎利壺(高さ15センチ直径10センチ)には、日泰寺のホームページに記されているように、「これこそがブッダの舎利壺である」と翻訳した学者があり、注目を集めたと記されています。オーストリアの東洋学者ビュラー、イギリスの仏教学者リス・デビッツ、ドイツのインド学者ビシェルらなど。しかしこのように「ブッダの舎利」と訳した人ばかりではなく、イギリスの東洋学者フリートなどは、「これは小さい妹たち、子供たち、妻たちといっしょのよき名声を持つものの兄弟たちの、すなわち、仏世尊の親族の舎利の容器である」と翻訳したとあり、「釈尊の親族の舎利」と訳すべきだとする東洋学者もあったということです。(同著55頁)

前訳が正しいとすれば、日泰寺のホームページにあるようにお釈迦様の死後舎利が八分されその一つはカピラバッツに安置されたとするので、ピプラハワこそがカピラバッツであるということになります。が、実はお釈迦様の重要な聖地の中で、お釈迦様が出家するまで生活されていたとされるカピラバッツのみ、その位置が未だに確定されていません。当時のことを知る手がかりとしての歴史書はインドには存在しません。インドには歴史を書き残す慣習がないからで、そのため、中国からインド世界を旅した二人の僧侶の旅行記こそが唯一の手がかりとなっています。それは、七世紀中期に中国からシルクロードを通って経典を求めてインドへ旅したかの高名な玄奘三蔵の『大唐西域記』と、それに先立つ五世紀初頭に主に律蔵を求めて旅行した法顕の西域旅行記『法顕伝』なのですが、残念ながら、このカピラバッツの位置に関する記録に相違があるのです。そのため、ピプラハワの西北19キロに位置する、もう一つの想定地であるティラウラコットと、新旧二つのカピラバッツがあったとする説まで唱える学者がある程なのです。ティラウラコットはネパール領になるのですが、その後ネパールの鎖国政策のため、半世紀以上もの期間この論争は沙汰止みとなっていました。

1950年、ネパールは民主国家となり鎖国を解き、1967年からネパール政府と立正大学でティラウラコットの共同発掘が始まり、インド政府も1971年からピプラハワの発掘を再開。1972年インド政府考古局発掘監督スリバスタブ氏が発表した研究雑誌には、大ストゥーパの中心部、ペッペが発見した石棺より下に煉瓦製の小室が二つ発見され、それぞれに径七センチ、径九センチの石鹸石の壺があり、中には黒く焦げた遺骨が入っていたとされ、明らかにペッペ発見の壺よりも年代的には古いものであると知ることができるということでした。ザ・タイムズ・オブ・インディア紙の報道には、さらに、このストゥーパ東の僧院跡からは31個のシール(粘土の丸い印)が発見され、そこにはカピラバストという文字が読み取れたとのことでした。そして、それにより長年論争してきたカピラバッツの位置はこのピプラハワに間違いなく、さらに、ペッペの発見した舎利壺は複製品であり、この度その下の小室から発見した壺こそが本物であるとインド側は主張したのでした。(同著60頁)

しかし、同著111頁には、ピプラハワの遺蹟は塔と僧院からなり、伽藍遺蹟であるのに対し、ティラウラコットはこれまでの発掘によれば城塞遺蹟であることが明らかになっていることからも、距離的には19キロと離れてはいるものの、カピラバッツとは、カピラ城という構造物の名ではなく、カピラ城を中心とする都邑として解釈すれば、各々の役割を持った地として把握されるのではないか、つまり、カピラ城のあった場所としてはティラウラコットが該当し、その後舎利が埋葬される仏舎利塔の出来る僧院群としてピプラハワがあるとするのです。

カピラバッツとはどこにあったのか、という副題まで含めて考察してきましたが、この問題を複雑にしている背景にお釈迦様の生存中にコーサラ国ヴィドゥーダバ王によって釈迦族が亡ぼされ多くの人がその地で亡くなっていることと無関係ではないと思われます。法顕の残した旅行記(平凡社東洋文庫『法顕伝・宋雲行紀』)にも、「城中に王民なく荒れ果てている、・・・カピラバストゥ国は非常に荒れ果てていて人民きわめて少なく、道路には白象や獅子が現れて恐ろしい、みだりに行くべきでない」とあります。だからこそ、舎利壺が近代になって手つかずのまま発掘することが出来たともいえるのですが。なお、お釈迦様の死後舎利は八分されて各々持ち帰った部族が仏舎利塔を建立して祀った訳ですが、それからおよそ百年後にインドを統一するアショカ王によってこれら八か所の仏塔に祀った舎利のうち七か所の舎利は掘り起こされ、それらを八万四千に分けて全国に仏塔を建立して祀ったといわれています。ラーマガーマのコーリヤ族の祀る仏塔はナーガが護るためアショカ王も手を出せなかったといわれています。お釈迦様の生誕の地であったればこそ、その後改めて舎利を納め後代に増高して大きな塔になって残されていったのでしょう。多くの釈迦族の人々が悲惨な死を遂げ廃墟と化した地でもあったがために、法顕の記すようにカピラバッツの仏塔はひっそりと近代の発掘を待つまで保存されたと考えられます。

はたして私があの日拝んだお釈迦様の真骨と思ったものは、本当にお釈迦様のご遺骨だったのか、やはり複製品だったのか。はたまたお釈迦様の親族の遺骨だったのか。現在インド博物館にコレクションされているブッダの遺骨について、いつ誰がどこから掘り出した遺骨なのか、実はインド博物館に問い合わせしているところであります。ところで、1972年のインド政府考古局の発表があっても、日泰寺はじめ、他の仏教国は、いまだにペッペが掘り当てた舎利壺から発見された遺骨を真骨とする姿勢に変わりはないようです。それを不思議にすら感じるのは私だけなのでしょうか。・・・。


現在のティラウラコット、ピプラハワを旅した人の映像記録がありましたので貼り付けておきます。
http://isekineko.jp/budda-kapilavastu.html


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コメント (4)
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