住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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四国遍路行記39

2016年02月10日 19時12分01秒 | 四国歩き遍路行記
八栗寺手前の土手下にあった遍路宿にお世話になり、ゆっくりと骨休めをして、翌朝も七時には八栗寺に向けて歩き出す。

少し行くと前方に五剣山が姿を現し、その裾野にケーブルカーの八栗登山口駅が見えてきた。駅の左手の道を行く。徐々に勾配が急になるが、三十分ほどで八栗寺山門にたどり着いた。五剣山の岩肌を背景に青々とした銅板屋根の本堂に真っ直ぐに進む。

第八十五番八栗寺は、天長六年(八二九)、弘法大師開基のお寺である。山号は、五つの峰が剣のように聳えていたからとも、この地で求聞持法を修していて五柄の剣が降ってきたからとも言われるが、寺号は、大師が唐に留学している間に八つの焼き栗の芽が出て繁茂したから八栗寺というらしい。

戦国時代には長宗我部元親の兵火により焼失するものの、文禄年間には復興し、現本堂は寛永十九年(一六四二)に藩主松平頼重が大師作の聖観音を祀り再建した。

朝勤行の気持ちを込めて、ゆっくりと理趣経をお唱えした。大師堂をお参りした後、家康の孫娘東福門院より賜ったという大師作歓喜天を祀る聖天堂に参拝する。早い時間なのに既に結構な人が参詣している。関西方面からも商売人たちの信仰を集める聖天さんには沢山の大根が祀られていた。

ケーブルの山上駅の方へまわり、東から南に向けて山を下る。土産物屋の前を通り進むと、歴代の墓が並ぶ。その中に高野山の管長をなされた中井龍瑞猊下の供養塔が目にとまり手を合わせた。五輪塔の側面から背後に足跡が記されている。阿字観という真言宗の瞑想法を多くの僧俗に宣布なされたことなどが目にとまった。体の小さな優しげなお方であったと地元の人からお話を聞いた。

山道を下り、親水公園から讃岐牟礼駅の前を通り、志度湾沿いの道を歩く。行く手に大きな五重塔が姿を現し、大きな草鞋が志度寺の仁王門を飾っていた。

第八十六番志度寺は、藤原不比等が開基したお寺だという。不比等の妹は唐の高宗皇帝に請われて妃になり、不比等が亡き父鎌足供養のために興福寺建立にあたり、唐に伝わる三種の宝珠を兄に送った。ところが、その船が志度の浦で難破して一つの宝珠を竜神に取られてしまう。宝珠を探すために志度を訪れた不比等は、土地の海女と情を通じて男児をもうけ、その子を跡継ぎにするとの約束を取り付け海女は海に潜り、その命と引き替えに宝珠を取り戻したという。

不比等は宝珠を興福寺に納め、この地に海女の墓を建てて堂宇を作り、「死度の道場」と名づけた。後にその男児は房前と名を改め、行基とともにこの地に来て、母の冥福を祈り大伽藍を造営したのだという。

国の重要文化財の本堂に上がり、理趣経一巻お唱えする。善通寺派のため、善通寺の遍照殿での朝のお勤めの時に顔を合わせた僧がおられ挨拶して外に出る。かなり広い境内ではあるが、木々が茂り苔むした五輪塔が所狭しと建ち並ぶ。潮風が漂う境内をゆっくり散策したいところではあったが、先を急いだ。

仁王門を出て、ひたすら南に向けて歩く。途中建設中の高速道路の高架の下を通り、平坦ながら車の多い道を一時間半ほどで第八十七番長尾寺に到着。仁王門をくぐり、広い境内を見渡す。今までのお寺と何か雰囲気が違うと思ったら、ここは江戸時代前期に天台宗に改宗されているのだという。

天平十年(七三八)行基がこの地を巡錫中に、道ばたの楊柳で聖観音像を刻み小堂を建て、後に弘法大師が入唐にあたり、この本尊に祈願して護摩供を修した。そして帰朝した大師は唐での大願成就を感謝して、大日経の一字一石供養塔を建立したといわれている。

その後度重なる兵火に遭い伽藍は壊滅しては再建を繰り返し、現本堂は藩主松平頼重によって再建された。頼重は、この長尾寺の本尊を「当国七観音随一」と讃え、秘仏として祀られている。

堂々とした唐破風の庇のついた本堂前で、急ぎ足で経を唱え、塔のように九輪がのった宝形造りの屋根の大師堂に参る。

ガランとした境内に大きな古木が枝を張っている。その下にあったベンチに腰掛けて、通り沿いのお店で買ったおにぎりをほおばる。まだお昼を過ぎたばかり、結願所大窪寺まで行けそうだ。



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コメント (3)
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