夜は父の年賀状のあて名書き。
もちろん自筆ではなく、印刷であるが、それでも結構面倒。
年々枚数は減っている。
今年のお正月に届いた年賀状の中から、家族が亡くなったという喪中のハガキが届いた分を探し出す。
父の年齢なので、友人本人が亡くなったという喪中のハガキも多く、その分は住所録を削除。
中には
「年老いたので新年のご挨拶は本年限りにさせていただきます」
の添え書きがある年賀状も多く、その分も住所録から削除。
考えてみれば、今時の年賀状は宛名も印刷のものばかりだ。
父の年齢で、パソコンが使える人がいるとも思えない。
ということは、私が父の年賀状を作るのと同様に、父に届く年賀状も、息子や娘、嫁が作っているに違いないのだ。
知らぬ者同士で年賀状のやり取りをしているようなものだ。
父は書かないくせに届くハガキは楽しみにしているし、友人知人には父の生存確認証みたいなものなので、
「もう来年から年賀状は書かないからねっ!」
とぶつぶつ言いながらも、孝行娘は150枚の年賀状を仕上げたのだった。
これで明日郵便局に持って行けば、ゆっくり年末を迎えられる。
自分の分は、今年はぐっと減らした。
裏面は印刷済みなので、ゆっくりぼちぼち書けばいいだろう。
このお正月までは連名だったが、今年は私の名前だけ。
なんだかやけにすっきりというか、妙に潔さを感じる年賀状だ。
新年早々、
「おめでとうございます。
昨年離婚してひとりに戻りました」
という年賀状を手にするのは、どんな気持ちだろうなどと考えてしまう。
めでたいのか、めでたくないのか…
ということで、とりあえず離婚を知っている人優先で送ることにしよう。
数日前、Oさんが
「これから喪中のハガキを出さなくちゃいけない」
と言っていた。
「これから?
もう年賀状の受付をしているというのに!?」
年賀状をもらった人に、寒中お見舞いを出せばいいんじゃないのと教えてあげた。
それで大丈夫かとOさんが心配そうに聞くので、最近そういうハガキも届くよと言った。
今年の1月には、友人から
「父が亡くなり年賀のご挨拶を失礼いたしました」
という寒中お見舞いが届いた。
「あら…お父様亡くなったんだ」
と思いつつ、よくよく見れば、亡くなったのは5月。
「おいおい…半年以上も前でしょうが。
喪中のハガキ書けたでしょうが」
と思ったり。
類は友を呼ぶというものだ。
りろ子さんから
「クリスマスの予定は?」
と聞かれた。
「な~んにもない。
きっと普通のご飯を食べて、ケーキ食べて終わり」
私が言うと、りろ子さんも
「ひとりでワイン飲んで寝ちゃう」
と言った。
連休だというのに寂しい話だ。
何も予定がないなら、大掃除するべきじゃないかと思うのだが、そういうことはしたくない。
「だって皆が楽しんでいるんだもん、私だって楽しみたいもん」
というりろ子さんの意見に、私も1票を投じたのだった。
今年は大掃除はしないかもしれない。
りろ子さんは言った。
「大掃除とか言って気がもむのも31日までだよね。
1月1日になったらいつもの日常じゃない」
そうだそうだ。
あ~類は友を呼ぶ。
こうして、テレビで“金正日死去”の番組など見つつ、クリスマスにはどこのケーキを何個買うかと相談する独身二人の今日の午後だった。