3時ぴったりに目覚め、目覚めた空気がピリピリし、顔全体も痛みでピリピリしているので、電気をつけてわたしが通っているカトリック原町教会の幸田和生司教のブログを読んだ。
今日のラザロの物語で最も印象的なのは「イエスは涙を流された」というところではないでしょうか。イエスはこの後、ラザロをよみがえらされるのですから、泣く必要はないとも言えるでしょう。でもイエスは涙を流したと伝えられています、それは悲しんでいるマルタやマリア、周囲の人々の悲しみに対する共感の涙でしょう。「もらい泣き」と言ってもいいかもしれません。「心に憤りを覚え」という言葉が2回出てきますが、それも激しい心の動きを表す言葉です。とても人間的なイエスの姿です。
先々週の福音ではイエスは旅に疲れ、井戸のかたわらに腰を下ろし、やってきたサマリアの女性に「水を飲ませてください」と言われました。先週の福音では、生まれつき目の見えない人に出会ったイエスは、安息日にも関わらず、彼の目を見えるようにしました。そして今日の福音では、激しく心を動かし、悲しむ人とともに涙を流すのです。
この人間的な弱さや苦しみ、痛み、そしてそこにある共感compassion。この共感の中にこそ、本当のいのちがある。これも復活のメッセージです。
先々週の福音ではイエスは旅に疲れ、井戸のかたわらに腰を下ろし、やってきたサマリアの女性に「水を飲ませてください」と言われました。先週の福音では、生まれつき目の見えない人に出会ったイエスは、安息日にも関わらず、彼の目を見えるようにしました。そして今日の福音では、激しく心を動かし、悲しむ人とともに涙を流すのです。
この人間的な弱さや苦しみ、痛み、そしてそこにある共感compassion。この共感の中にこそ、本当のいのちがある。これも復活のメッセージです。
四旬節(イエスが荒野で断食・修行した40日間にちなんだもの)は灰の水曜日(今年は2月22日)ではじまるけれど、今年は額に灰は受けられなかったし、明日の受難の主日(枝の主日)は病床で過ごすから枝を手にすることも出来ない。
もしかしたら、復活徹夜祭(聖土曜日)には退院できるかもしれない。
でも、口で聖体を拝領できない場合は、そのパンをどうすればいいのだろうか?
ミサの前に幸田司教に訊いて、聖体拝領の列に加わらなければならない。
手術直後、自力では唾ものめない痰も吐けない状態で、看護師さんに小さなスポンジで舌先を湿らせてもらった時、イエスが十字架上で絶命前に言ったとされる「渇いた」という言葉が耳に響いた。
それまでのわたしは「渇いた」という言葉の意味を知らなかった。
聖金曜日の大斎の断食も、ほとんど食べることができない中での経験というのは初めて。
飢えや痛みの中で四旬節を過ごしている信徒のみなさんと共苦したい、と思う。