記紀における日本神話や説話などで語られる多くの伝承は、皇家と各氏族たちとの関係を伝えるものであり、それら氏族の天皇家への服属の起源・由来を語るものだといってよく、いつ、どのような出来事によってそれら氏族が天皇家と関係をもったかという起源を語ろうとしているのだろうが、日本における伝存最古の正史とも言われる『日本書紀』編纂時に深くかかわった藤原不比等は、自分の親を「大化改新」の英雄に仕立て上げ、さらに神格化した祖神へと歪曲した疑いが感じられることは、前回のブログ興福寺・文殊会でも書いた。
しかし、わが国古代における国家統一を考える場合、やはり話は聖徳太子から始めなければならない。大規模な平城(なら)への都づくりは和銅3年(710年)、養老律令の制定は、養老2年(718年)、その施行は天平宝宇元年(757年)、全国の国分寺建立の詔が出たのが天平13年(741年)、そして、東大寺の大仏開眼は天平勝宝4年(752年)であった。これらは、強力な古代国家が既にその力を発揮していた事実を示すものであるが、その出発は、推古朝であり、36年もの長きわたって在位したという推古という女帝、49歳で没するまで皇太子であり続けた聖徳太子の異常さ。この2人の異常さは律令国家誕生の陣痛にも似ており、そこには、日本の古代の氏族制度から新しい律令制度への生みの苦しみがあった。これを仏法への帰依によって行なおうとした王を聖徳(太子)と称し、下って、天平の王を後に聖武(天皇)と称した(藤原不比等の娘宮子の産んだ首皇子が聖武である)。これは共に諡号だから、後の称号であるが、聖徳と聖武ともに意図的に聖をもって讃えられた二人の王は、共通して王としての仏法、政としての仏法を行なおうとした。聖武が本気でしょうとした大仏による浄土は、聖徳における天寿国であるが、そのようなものが現世にないことは初めからわかっていることであり、聖徳太子(一)のなかで松本清張や井上光貞が思考型の帝王の政治の挫折を指摘している通りである。そんな太子の挫折を引き継いだのが中大兄皇子であり、中大兄は、改新後、直ぐには天皇の地位には就かず叔父・軽皇子を天皇につけ、まるで聖徳太子のコピーのように生涯の軌跡を等しくしている。その親政を実現してゆく上での敵対者は聖徳太子のときと同じく蘇我氏であったが、中大兄には鎌足がいた。この中臣御食子の出だとはいうが実際の系譜は不明であり、つまり、蘇我でも平群でも物部でも大伴でもない一介の中臣鎌足が、中大兄に近づいてきて自身の栄達の野望をもかけて政治改革に賭けた。そして、新しい国家体制誕生の為に血なまぐさい惨劇が行なわれてきた。歴史というものが二歩進んで一歩退きながら先へ進むものであるとすれば、そんな中での数歩行過ぎたことへの天武(大海人皇子)の修正が壬申の乱であったと梅原猛氏はいっている。つまり、古来、兄弟に継承されるべきであった皇統を、皇太子である大海人排して天智はわが子の大友皇子を位につけようとしたからであり、天武は、皇位継承を元に正し、都を飛鳥に戻し、「神権力的天皇制の確立」をしようとした。
鎌足後、その息子の藤原不比等が政治の実権を握り、天皇の任命を左右するにいたる権力をほしいままにした。しかし飢饉や疫病の流行、即位したばかりの天皇の崩御など不幸が重なる度に、聖徳太子の怨霊が原因と恐れられた。表向き太子の遺徳を偲ぶためであるが、その実太子の怨霊を鎮めるため法隆寺が再建されたのではないかと梅原氏も言う。
そして、法隆寺の存在基盤を強化するために、相当猛烈な「聖徳太子」顕彰運動が展開され、その中で意図的に創作されたり曲解をして作られた説話、遺品、資料などが多くあるのだろう。
最後に、哲学者で聖徳太子の研究家でもある、梅原氏の話をもう少しだけ詳付け加えておこう。
再建時の法隆寺は人の住む場所ではなかった。太子の霊はここに閉じ込められ、藤原一家は持統帝の子孫たちとともに安穏だった。金堂と塔に太子一族を祠(まつ)り、その2つの建物を回廊で取り囲み霊を外に出さないように門の真ん中に柱を立てた。造営当時、現在のような回廊と連絡した講堂は存在せず、それは食堂であったであろう。講堂は儀式或いは講義をする場であるが、それがないということは、もともと人の住むべきところではなかったからだろう。金堂と塔には偉大なる聖徳太子一家の恐るべき死霊がましまし、法隆寺の僧たちの仕事は、この死霊の牢番であり、この死霊がこっそり抜け出してきて人間に害をしないよう慰め、見張りをすることであったのではないか。この建物を囲んで東と西と北に僧坊があった。当時の造りは、ここから死霊が逃げ出さないような僧坊の作り方であったと言う。この食堂が講堂に改造されたのは、平安期はじめである(村田治朗『法隆寺の建築家』引用)という。ひょっとしたらそれは、道詮(どうせん)の聖霊会再興と関係があるかもしれない。
西院の地にある法隆寺とは別にかって太子が住んでいた斑鳩宮の跡地に東院(夢殿)がわざわざ建てられているのは、聖徳太子の怨霊が再現したからである。夢殿には行信の像がある(このページ冒頭の写真右)。その形相にはとても僧とは思えない強い意志と、異様な迫力に満ちている。ここは行信によって作られた聖徳太子の墓である。
明治17年(1884年)、フェノロサらにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿に1200年もの長い間秘仏とされていた白布にぐるぐる巻かれた救世観音像(ここ参照)が開扉された。突然訪れたフェノロサが仏の入った厨子を開けようとすると、この厨子を開けたら忽ち地震など天変地変が起りこの寺は崩壊すると言う恐ろしい言い伝えがあると、僧たちは逃げ出したという。このモナリザのような気味の悪い微笑を浮かべた等身大の像は太子を模して造られたものと言われている。この像は不思議なことに空洞であり、背や尻が欠如しており、光背が大きな釘によって頭に直接打ち付けられている。これは、行信による人型に釘を打ち込む呪詛「厭魅」(以下参考の※:13参照)だという。そのことは後に行信が厭魅の罪で、下野の薬師寺へ流されていることからも明らか(『続日本紀』孝謙天皇の天平勝宝6年11月24日の項にそのことが記されている)であり、結論として、梅原氏は『隠された十字架』の中で「夢殿と救世観音は聖徳太子の祟りを鎮めるため作られた」と述べている。ただこれには批判的な意見も多いようだが、歴史の古いだけ、法隆寺は謎の多い寺ではある。
(画像Ⅰ頁、向かって、左:法隆寺西院伽藍遠景、右:金堂。2頁、左:乙巳の変。蘇我入鹿惨殺、左上皇極天皇、多武峰絵巻部分。右:聖徳太子を描いたとされる肖像画。聖徳太子及び二王子像。3頁左:左:法隆寺夢殿。いずれも、Wikipediaより。右:行信像、梅原猛著『隠された十字架』法隆寺論、新潮文庫より)
参考:
※1:日本書紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html
※2:聖徳宗総本山 法隆寺公式ホームページ
http://www.horyuji.or.jp/
※3:古代史獺祭
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sitemap/sitemap.htm
※4:向原寺
http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/temple/kogen_ji.htm
※5・レファレンス協同データベース“物部守屋の子孫従類が四天王寺のとなった”
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000039547
※6:文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/Index.do
※7:邪馬台国の会
http://yamatai.cside.com/index.htm
※8:ASUKA
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/
※ 9 :続日本紀
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/syokuki/syokuki.html
※10:埃まみれの書棚から86
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana86.htm
※11:古代豪族
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
※12:世界文化遺産法隆寺地域の仏教建造物
http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/
兵庫県太子町公式サイト
http://www.town.taishi.hyogo.jp/dd.aspx?menuid=1755
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の開設など
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/index.html
世界文化遺産法隆寺地域の仏教建造物
http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/
八切止夫作品集1062 古代史入門 14
http://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1062
大谷明稔HP研究論文集1、天智・天武 部族抗争の結末(古代国家形成に関する研究四)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/tenti-tenmu.htm
聖徳太子
http://www.geocities.jp/kituno_i/sub1.html
法隆寺紀行
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/houryuuji%20frontpage.htm
法隆寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
法隆寺が落雷により全焼(Ⅱ)へ戻る
法隆寺が落雷により全焼(Ⅰ)冒頭へ戻る
しかし、わが国古代における国家統一を考える場合、やはり話は聖徳太子から始めなければならない。大規模な平城(なら)への都づくりは和銅3年(710年)、養老律令の制定は、養老2年(718年)、その施行は天平宝宇元年(757年)、全国の国分寺建立の詔が出たのが天平13年(741年)、そして、東大寺の大仏開眼は天平勝宝4年(752年)であった。これらは、強力な古代国家が既にその力を発揮していた事実を示すものであるが、その出発は、推古朝であり、36年もの長きわたって在位したという推古という女帝、49歳で没するまで皇太子であり続けた聖徳太子の異常さ。この2人の異常さは律令国家誕生の陣痛にも似ており、そこには、日本の古代の氏族制度から新しい律令制度への生みの苦しみがあった。これを仏法への帰依によって行なおうとした王を聖徳(太子)と称し、下って、天平の王を後に聖武(天皇)と称した(藤原不比等の娘宮子の産んだ首皇子が聖武である)。これは共に諡号だから、後の称号であるが、聖徳と聖武ともに意図的に聖をもって讃えられた二人の王は、共通して王としての仏法、政としての仏法を行なおうとした。聖武が本気でしょうとした大仏による浄土は、聖徳における天寿国であるが、そのようなものが現世にないことは初めからわかっていることであり、聖徳太子(一)のなかで松本清張や井上光貞が思考型の帝王の政治の挫折を指摘している通りである。そんな太子の挫折を引き継いだのが中大兄皇子であり、中大兄は、改新後、直ぐには天皇の地位には就かず叔父・軽皇子を天皇につけ、まるで聖徳太子のコピーのように生涯の軌跡を等しくしている。その親政を実現してゆく上での敵対者は聖徳太子のときと同じく蘇我氏であったが、中大兄には鎌足がいた。この中臣御食子の出だとはいうが実際の系譜は不明であり、つまり、蘇我でも平群でも物部でも大伴でもない一介の中臣鎌足が、中大兄に近づいてきて自身の栄達の野望をもかけて政治改革に賭けた。そして、新しい国家体制誕生の為に血なまぐさい惨劇が行なわれてきた。歴史というものが二歩進んで一歩退きながら先へ進むものであるとすれば、そんな中での数歩行過ぎたことへの天武(大海人皇子)の修正が壬申の乱であったと梅原猛氏はいっている。つまり、古来、兄弟に継承されるべきであった皇統を、皇太子である大海人排して天智はわが子の大友皇子を位につけようとしたからであり、天武は、皇位継承を元に正し、都を飛鳥に戻し、「神権力的天皇制の確立」をしようとした。
鎌足後、その息子の藤原不比等が政治の実権を握り、天皇の任命を左右するにいたる権力をほしいままにした。しかし飢饉や疫病の流行、即位したばかりの天皇の崩御など不幸が重なる度に、聖徳太子の怨霊が原因と恐れられた。表向き太子の遺徳を偲ぶためであるが、その実太子の怨霊を鎮めるため法隆寺が再建されたのではないかと梅原氏も言う。
そして、法隆寺の存在基盤を強化するために、相当猛烈な「聖徳太子」顕彰運動が展開され、その中で意図的に創作されたり曲解をして作られた説話、遺品、資料などが多くあるのだろう。
最後に、哲学者で聖徳太子の研究家でもある、梅原氏の話をもう少しだけ詳付け加えておこう。
再建時の法隆寺は人の住む場所ではなかった。太子の霊はここに閉じ込められ、藤原一家は持統帝の子孫たちとともに安穏だった。金堂と塔に太子一族を祠(まつ)り、その2つの建物を回廊で取り囲み霊を外に出さないように門の真ん中に柱を立てた。造営当時、現在のような回廊と連絡した講堂は存在せず、それは食堂であったであろう。講堂は儀式或いは講義をする場であるが、それがないということは、もともと人の住むべきところではなかったからだろう。金堂と塔には偉大なる聖徳太子一家の恐るべき死霊がましまし、法隆寺の僧たちの仕事は、この死霊の牢番であり、この死霊がこっそり抜け出してきて人間に害をしないよう慰め、見張りをすることであったのではないか。この建物を囲んで東と西と北に僧坊があった。当時の造りは、ここから死霊が逃げ出さないような僧坊の作り方であったと言う。この食堂が講堂に改造されたのは、平安期はじめである(村田治朗『法隆寺の建築家』引用)という。ひょっとしたらそれは、道詮(どうせん)の聖霊会再興と関係があるかもしれない。
西院の地にある法隆寺とは別にかって太子が住んでいた斑鳩宮の跡地に東院(夢殿)がわざわざ建てられているのは、聖徳太子の怨霊が再現したからである。夢殿には行信の像がある(このページ冒頭の写真右)。その形相にはとても僧とは思えない強い意志と、異様な迫力に満ちている。ここは行信によって作られた聖徳太子の墓である。
明治17年(1884年)、フェノロサらにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿に1200年もの長い間秘仏とされていた白布にぐるぐる巻かれた救世観音像(ここ参照)が開扉された。突然訪れたフェノロサが仏の入った厨子を開けようとすると、この厨子を開けたら忽ち地震など天変地変が起りこの寺は崩壊すると言う恐ろしい言い伝えがあると、僧たちは逃げ出したという。このモナリザのような気味の悪い微笑を浮かべた等身大の像は太子を模して造られたものと言われている。この像は不思議なことに空洞であり、背や尻が欠如しており、光背が大きな釘によって頭に直接打ち付けられている。これは、行信による人型に釘を打ち込む呪詛「厭魅」(以下参考の※:13参照)だという。そのことは後に行信が厭魅の罪で、下野の薬師寺へ流されていることからも明らか(『続日本紀』孝謙天皇の天平勝宝6年11月24日の項にそのことが記されている)であり、結論として、梅原氏は『隠された十字架』の中で「夢殿と救世観音は聖徳太子の祟りを鎮めるため作られた」と述べている。ただこれには批判的な意見も多いようだが、歴史の古いだけ、法隆寺は謎の多い寺ではある。
(画像Ⅰ頁、向かって、左:法隆寺西院伽藍遠景、右:金堂。2頁、左:乙巳の変。蘇我入鹿惨殺、左上皇極天皇、多武峰絵巻部分。右:聖徳太子を描いたとされる肖像画。聖徳太子及び二王子像。3頁左:左:法隆寺夢殿。いずれも、Wikipediaより。右:行信像、梅原猛著『隠された十字架』法隆寺論、新潮文庫より)
参考:
※1:日本書紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html
※2:聖徳宗総本山 法隆寺公式ホームページ
http://www.horyuji.or.jp/
※3:古代史獺祭
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sitemap/sitemap.htm
※4:向原寺
http://www.bell.jp/pancho/travel/taisi-siseki/temple/kogen_ji.htm
※5・レファレンス協同データベース“物部守屋の子孫従類が四天王寺のとなった”
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000039547
※6:文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/Index.do
※7:邪馬台国の会
http://yamatai.cside.com/index.htm
※8:ASUKA
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/
※ 9 :続日本紀
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/syokuki/syokuki.html
※10:埃まみれの書棚から86
http://www.bunkaken.net/index.files/raisan/shodana/shodana86.htm
※11:古代豪族
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
※12:世界文化遺産法隆寺地域の仏教建造物
http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/
兵庫県太子町公式サイト
http://www.town.taishi.hyogo.jp/dd.aspx?menuid=1755
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の開設など
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/index.html
世界文化遺産法隆寺地域の仏教建造物
http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/
八切止夫作品集1062 古代史入門 14
http://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1062
大谷明稔HP研究論文集1、天智・天武 部族抗争の結末(古代国家形成に関する研究四)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/tenti-tenmu.htm
聖徳太子
http://www.geocities.jp/kituno_i/sub1.html
法隆寺紀行
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/houryuuji%20frontpage.htm
法隆寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
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