今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

伊達巻の日

2013-05-24 | 記念日
日本記念日協会の今日・5月24日の記念日に「伊達巻の日」がある(※1)。記念日の由緒を見ると以下のようにあった。
厚焼きや玉子焼きをはじめとする寿司具全般のトップメーカーで、大阪府吹田市にある株式会社千日総本社(※2)が制定した日。
戦国の武将として名高い伊達政宗公の命日(5月24日)を由来として、華やかで洒落た滋養豊かな卵料理である伊達巻を、日本の食文化として広く後世にに伝えていくことを目的としている。伊達巻はおせち料理や大阪寿司の一品として欠かせない食べ物。・・・と。
伊達巻(だてまき)は、卵料理のひとつであり、伊達巻き卵とも呼ばれる。伊達巻は一般的には白身魚やエビの擂り身に溶き卵と出汁を加えてよくすり混ぜ、みりんや砂糖で調味してふんわりと焼き上げ、熱いうちに巻き簾(まきす)で巻いて形を整えたものである。
●上掲の画像参照。
確かに日本の正月の晴れやかな御節料理には欠かせない一品である。伊達巻は甘めの味付けなので大人だけでなく子どもにも大人気の一品である。
家庭で作る場合は、すり身の代わりに、入手が容易(たやす)く同じ原材料を用いた魚肉練り製品のはんぺんを代用とすることがある。昔私の母や子供が好きだったので家人が作っていたことがあるので、聞いたところ、はんぺんと卵をフードプロセッサーにかけ液状にし、好みでみりん、砂糖、塩などで味を整える。
はんぺんの比率が高いほど、フワフワと柔らかな食感に仕上がり、卵の比率が高いほど、しっかりとした弾力のある食感になるそうだ。味を整えたら、フライパンで焼く。この時、少し焼き色をつけると巻いた時に綺麗な渦巻きを表現することが出来る。両面焼いたら、巻き簾で巻き、そのまま冷まして形を整えればよいという。
ただ、焼き加減が大切なので注意が必要だという。作り方の基本は同じだが、それぞれの家庭でいろいろと工夫がされていることだろう。伊達巻は素人がきれいにおいしく作るにはちょっと手間がかかるし難しいので、卵焼きや、だし巻を代わりに使用する場合もある。

伊達巻の由来は諸説あるようだが、最も有力な説としては、「豪華」、「華美」、「魅力的」、「見栄」、「粋」などの意味を表す用語「伊達」という言葉からきているようだ。
もともと中国から伝わった五節供の行事に由来する「おせち」(「御節供」の略)は、人日の節句の正月料理を指すようになってくるが、この正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたといわれている。
江戸時代、すでに、関西では「蓬莱飾り」、江戸では食積(くいつみ)などと称し、現在の「おせち」の原型となる風習が存在しており、歳神様三方などで、めでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振舞ったり家族も食べたりしていた。
そのことは、明治30年代、日清日露両戦争の狭間にあって、社会の大枠がようやく定まりかけたこの頃、東京の暮らしもまた大きな変遷を遂げていたようだが、お節料理も同様であろうが、まだまだ江戸時代の色彩を色濃く残していただろうとは思う。
当時に発行された平出鏗二郎 著『東京風俗誌 中の巻』(明治34年。参考※3参照)の“年中行事 第一節・一月”のところには、古のごとくとはいかないがと断ったうえで、復興した正月料理のことが以下のように記されている(但し漢字等は読みやすいよう、現代使用のものに書き換えてある)。
「家々にては、一日より三日に至るまで、朝毎に若水を汲みて雑煮餅を煮る、朝餉(あさげ)に喰らうなり、その煮方の国々によりて異なるが、中に、都はなべて煮出しに芋、大根、菜などを加え、餅を焼きて煮るなり、また、御節と称(とな)えて、大根、人参、八ツ頭(里芋)、牛蒡、蒟蒻、焼豆腐、青昆布、ごまめなどを喰らい、鹽引(しおびき)の鮭を善に供ふるを習いとす。その他、食積(くひつみ)とて鰊(ニシン)の子(=カズノコ)、煮豆、昆布巻、ごまめ、たたき牛蒡などを煮、重箱に詰めて備え、善の物にもし、年賀の客にも進む。文蛤(ハマグリ)の吸い物是も例なり、屠蘇の酒は多く、味醂(みりん)を用いて、屠蘇散(とそさん。屠蘇参照)を浸す。」・・・と。
この様に、江戸時代〜明治時代には、正月重詰料理と正月節料理の2つがあり、煮物を「御節」といってお膳料理として家のものが食べ、鰊の子など重詰めしたものを「食積」と呼んで、客にも出していたようだ。
それが、重箱に本膳料理であった煮染(にしめ)を中心とした料理が詰められるようになり、食積と御節の融合が進み、現在では重箱に詰めた正月料理を「御節」と呼ぶようになっているが、重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降のことと言われている。
この現代のお節料理の昆布巻き煮豆ごまめ(田作)、たたき牛蒡など総じて地味な色合いの料理の中にあって、伊達巻は鮮やかな黄色で存在感を発揮しており、華やかの言葉にも十分納得が出来る。また、伊達巻は巻物の形に似ているため、学問の発展を願って食される役割を持つおせち料理でもある。
お節料理の華・伊達巻にとってもっとも大切なことは、ふっくらとした焼き方であろうが、今日の記念日を設定した千日総本社HPを覗いてみると、“せんにちのこだわり”として、「せんにちの玉子焼のライバルは家庭で作った玉子焼です。機械化が進んだ現在でも一本一本玉子焼きに人が箸を入れふっくらと焼き上げることにこだわっております。手作りの玉子焼き本来の味・食感・風味をそのままに、差別化できる商品づくりに没頭してきました。・・・」とあった。会社の設立年月日は、平成25年4月1日となっているから、先月に出来たばかりの会社であり、この記念日はその広告ということか・・・。しかし、せっかくだから、同社HPより、同社自慢の厚焼(伊達皮 ・伊達巻 ・巻芯用厚焼 他)写真を紹介させてもらおう。
●以下の画像がそれだ。

ところで、江戸の「にぎりずし」に対して、大阪など近畿地方では「大阪寿司」として、花見や観劇用に厚焼や穴子、えびなどを寿司飯とともに木枠の押し型に美しく敷き詰めて整形した大阪の伝統の味「箱寿司」(押し寿司)や伊達巻が主流であった。
幕末の嘉永六年(1853)版・ 喜田川守貞著『守貞漫稿』後集巻1の「鮨」のところに鮨のことが以下のように書かれている(※4:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿後集巻1 [50]参照)。
「鮨賣〈中略〉 因曰、京坂ニテハ、方四寸許ノ箱ノ押ズシノミ、一筥四十八文ハ鳥貝ノスシ也、又コケラズシト云ハ、雞卵ヤキ、鮑、鯛ト並ニ薄片ニシテ飯上ニ置ヲ云、價六十四文、一筥凡十二ニ斬テ四文ニ賣ル、又筥ズシ、飯中椎茸ヲ入ル、飯二段ニナリタリ、又淺草海苔卷アリ、卷ズシト云、飯中椎茸ト獨活(ウド)ヲ入ル、京坂ノ鮨、普通以上三品ヲ專トス、而モ異製美製ヲナス店モ稀ニ有レ之、又鮨ニハ、梅酢漬ノ生姜一種ヲ添ル、赤キ故ニ紅生姜ト云、又江戸ニテ原ハ京坂ノ如ク筥(ハコズシ)、近年ハ廢レ之テ握リ鮨ノミ、握リ飯ノ上ニ雞卵ヤキ、鮑、マグロサシミ、海老ノソボロ、小鯛、コハダ、白魚、鮹等ヲ專トス、其他猶種々ヲ製ス、皆各一種ヲ握リ飯上ニ置ク、〈中略〉又因云、文政中、大坂道頓堀戎橋南ニ、江戸ノ握リ鮨ヲ學ビ製シ賣ル、今ニ至リテ此一戸アリ、天保中、尾ノ名古ヤニモ傳製之店ヲ開ク、後世三都トモニ、此製ヲ專用スルコトニ成ル歟、〈下略〉」
江戸の鮨と言えば、握った酢飯に魚をのせる生鮨を思い起こすが、幕末の喜田川守貞が、もとは京阪のように箱鮨で、握り鮨はこの頃になってからであると言うように、その原型は大阪の箱寿司であった。
江戸の末期に現れた、その「握り鮨」とは、握った飯の上に、玉子焼き・鮑・鮪刺身・海老そぼろ・子鯛・こはだ・白魚・蛸をのせたものともあり、ほぼ今の鮨と同様の種物だが、大きく異なるのは、酢と塩で〆たもの、焼き物、煮たもので、生ではなく、鮪も醤油に漬けた「づけ」であった。
今日と同じ物は、玉子焼き・こはだ・穴子くらいであろうか。小さな白魚などは、干瓢で縛るとある。海苔ではなかった。
また、同誌に、大阪の「コケラズシト云ハ、雞卵ヤキ、鮑、鯛ト並ニ薄片ニシテ飯上ニ置ヲ云、」とあるが「コケラズシ」は「箱ずし」のことであり、コケラとは木屑のことだが、この場合は、飯に混ぜ込む魚の切り身を「コケラ板」(屋根葺き板のこと)を葺くのに似ているので、そのように見立てたものと聞いたことがある。
鮨は図入りで解説しているがその掲載図では、箱ずしの枠は四寸(約12センチ)四方で、中央と四隅には卵が配されている。

●上記のものは、浮世絵に描かれた寿司と海苔巻きであり歌川広重の団扇絵「鮨」。江戸後期の作品である。
海老の握りや太巻きの海苔巻寿司と共に少し厚めの玉子焼きで飯をまいた寿司が見られる。海苔で巻く、現在の巻きずしの起源は江戸時代らしいが、はっきりしないようだ。巻くということでは海苔以外にも昆布、湯葉なども使われる。江戸時代玉子巻きというのがあり、これは薄焼き玉子で巻いたもの。それがこの画のようなものか?
大阪では、これよりも厚焼き玉子(伊達巻)で飯を巻いた鮨も伊達巻(寿司)と言っている。伊達巻寿司は、大阪地方の郷土料理であり、伊達巻の中には通常高野豆腐、 椎茸、おぼろ、かんぴょうなどとともに酢飯を巻き込んだ寿司だが、具や飯の分量は地方によって異なる。
この伊達巻寿司、千葉県銚子市の郷土料理でもあるらしい。銚子市の伊達巻寿司がどんなものかは知らなかったので、検索してみると銚子駅から徒歩5分ほどのところにある「大久保」という名の鮨店が、銚子名物・伊達巻鮨の元祖として知られるお店だと紹介していた。以下参考。

ただいまに生きる: 銚子『大久保』さんで、銚子名物「伊達巻鮨」とご対面。

大阪の寿司屋などで見られる伊達巻(寿司)とは違って、銚子名物の伊達巻寿司は、太巻き寿司の上に卵とダシだけで焼き上げた超厚焼きの玉子を乗せたもので、大阪の伊達巻とは比べ物にならないくらいの「巨大な巻いていない伊達巻」と言った感じのものである。
味は、厚焼き玉子と呼ぶにはおよそ似つかわしくない菓子チックな甘い味付けと滑らかな舌触りは、まるでプリンのようだと紹介している。そして、伊達巻寿司は「大久保」の初代店主が考案したものだというが、何時ごろ考案のものかはよく知らないが、Wikipediaの寿司のところでは、明治初期に考案と書かれている。
大阪の伊達巻寿司もいつ考え出されたのかは知らないが、広重の絵に少し厚めの玉子で巻いた伊達巻寿司に近い玉子焼きが見られるので、幕末頃には伊達巻寿司に近いものは造られていたのだろうと想像している。
大阪など戦前は盛んだった玉子巻きや伊達巻きの寿司は近年の江戸前寿司の流行と共に廃れてきており、その派手さからもてなし用のすしの一品として盛られていることが多い。
さて、伊達巻という名前の由来についてだが、一般に、・伊達政宗の好物だったことから伊達巻と呼ばれるようになったという説 、・普通の卵焼きよりも味も見栄えも豪華なために、洒落て凝っている装いを意味する「伊達もの」から伊達巻と呼ぶようになったという説 、・女性用の和服に使われる伊達締めに似ていることからこう呼ぶようになったという説 などがあるが、見栄えも豪華なため「伊達もの」から伊達巻と呼ぶようになったという説が多いことは先に書いたとおりだ、いずれにしても、どれもが伊達氏とのかかわりは深い。
伊達 政宗は、誰もが知っているように出羽国陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主である。伊達氏第16代当主・伊達輝宗最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれた。
伊達氏は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、その出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘と伝えられ、藤原北家魚名流藤原山蔭の子孫であるとしている。
始祖は、伊達常陸介藤原宗村で、宗村が、文治5年(1189年)源頼朝藤原泰衡追討の砌(みぎり=おり)、奥州伊達郡石那坂(石那坂の戦い参照)にて佐藤基治を討ちたる勲功によりて奥州伊達郡を賜り氏と為す(※5参照)。・・・としている。
ただし、どの戦国武将の家系にもよく見られることではあるが、伊達氏の出自が藤原北家であるというのもあくまで自称に過ぎないとする説もある(※6)が、ここでは、一応その出自を正しいものとして話を進めることにする。

●上掲の画象が菊池容斎筆による伝記集『前賢故実』巻第四に描かれた藤原山蔭の肖像画である」(画像は、巻第4の目次より藤原山蔭のところにあり)。
藤原山蔭(四条中納言)は、四条流庖丁式の創始者として知られている。
四条流の起源について
古事記』の景行天皇の段には
「此の(景行天皇の)御世に、田部を定め、又東(あづま)の淡水門を定め、又膳大伴部(かしわでのおおともべ)を定む。」・・・とあり(※7:『古事記傳』26参照)、
日本書紀』景行天皇53年10月の条には、
「(景行天皇は)上総国(かみつふさのくに)に至りて海路より淡水門を渡りたまふ。是の時に、覚賀鳥(かくかのとり。ミサゴのこと)の声聞ゆ。其の鳥の形を見さむと欲して、尋ねて海の中に出ます。仍(よ)りて白蛤(うむき)を得たまふ。是に、膳臣(かしわでのおみ)の遠祖、名は磐鹿六雁(ガマ)を以て手繦(たすき)にして、白蛤を(なます)に為(つく)りて進(たてまつ)る。故、六雁臣の功を美(ほ)めて、膳大伴部を賜ふ」・・・とある(※8『日本書紀』巻第七参照)。
更に、延暦8年(789年)に磐鹿六雁命の子孫である高橋氏が朝廷に奉ったとされる「高橋氏文」(たかはしうじぶみ)には、さらに詳細に記述されており、
景行天皇が皇子日本武尊(やまとたける)の東国平定の事績を偲び、安房の浮島の宮に行幸された折、侍臣の磐鹿六雁命が、弓の弦をとり海に入れた所堅魚(かつお)を釣りあげ、また砂浜を歩いている時、足に触れたものを採ると白蛤(=はまぐり)がとれた。
磐鹿六雁命はこの堅魚と白蛤を(なます)にして差し上げたところ、天皇は大いに賞味され、その料理の技を厚く賞せられ、膳大伴部(かしわでのおおとものべ)を賜った。・・・とある(参考の※9参照)。
日本の律令官制において朝廷の料理は宮内省に属した内膳司が司っていたが、山蔭は内膳職とは関係がなく、単に料理法や作法に通じた識者として指名されたものか。
9世紀の段階で、唐から伝えられた食習慣・調理法が日本風に消化されて定着しつつあったと思われ、これまで磐鹿六雁命の末裔高橋氏が執り行っていた庖丁式を、光孝天皇の命により今までとは別の新たな庖丁式(料理作法)を編み出し、それらをまとめて故実(有職故実参照)という形で山蔭が結実させたものであろう。これにより、山蔭は「日本料理中興の祖」とされている。
この功により、六雁命の子孫たちは、未来にわたって膳職(大膳職参照)の長官、上総国の長官、淡国(安房国)の長官と定められて、その地位には他の氏の者を任命されることはせずに、治めさせられ、もし、膳臣の一族に世継ぎがないときには、天皇の皇子を継がせ、他の氏を交えず、皇室の食事を司るよう賜った。・・・という。
当文書は、律令時代に入って高橋氏と並んで内膳司に奉仕する阿曇氏に対し、高橋氏の優位を主張したものであることから多少の誇張はあるだろう。
この安房国(千葉県南房総市(【旧千倉町】)には、高家神社があり、『延喜式』に登載されている式内社で、旧社格郷社である。「料理の祖神」磐鹿六雁命を主祭神としている。
社名は、「高家」と書いて「たかべ」と読み、祭神・磐鹿六雁命を高倍神ともいう。当社の創建の由緒は不詳らしいが、同社由緒書では、磐鹿六雁命の子孫の高橋氏の一部の者が、祖神に縁のある安房国に移り住み氏神として祖神を祀ったのではないかとしている。
現在の所に祀られたのは江戸時代初頭のことらしい。料理関係者や醤油醸造業者などから崇敬されているようだ。(詳しくは参考※10:「延喜式神社の調査」の安房国式内社:高家神社を参照)。
ところで、前段にも書いたように、景行天皇が東国巡行で安房の水門に渡ったとき、磐鹿六雁命は堅魚や蛤を膾にして 奉功したことにより膳大伴部の官職を賜ったが、房総半島沿岸部周辺などに伝わる郷土料理にたたきの一種「なめろう」がある。

●上掲の画象はアジの「なめろう」。Wikipediaより。
青魚三枚におろし・もしくは青柳 (あおやぎ=バカガイ)を捌いた上に味付けの味噌・日本酒とネギ・シソ・ショウガなどを乗せ、そのまま、まな板の上などで、包丁を使って粘り気が出るまで細かく叩いたものであり、名称の由来については、叩いたことによる粘り気の食感からと、料理を盛っていた皿についた身まで舐めるほど美味だったからという説などがあるようだ。
そして、「なめろう」には漁師が沖の漁船上で作っていた料理であることから、「沖膾」(おきなます)という別名もあるのだそうだ。
そうすると、記紀に出てく「蛤の膾」も安房の沖で漁師が捕れ立ての魚介を船上で粗造りをしていた漁師料理の一種「沖膾」のようなものであったかもしれない。
そう考えると、伊達の先祖である磐鹿六雁命がその美味しさを知っていて景行天皇に「沖膾」を造って差出したら、その料理の美味さと調理の技が気に入られて膳大伴部の官職を賜った・・と考えられなくもない。
そして、古代の安房国は、豊かな漁場に恵まれていたことから御食国に任じられ、皇室や朝廷の御饌を担当することになった。
高倍神社は宮中大膳職坐神三座(御食津神社火雷神社、高倍神社)の一つであり、磐鹿六雁命は、大いなる(かめ=べ)に例え、尊称を高倍神とし宮中醤院で醤油醸造・調味料の神として祀られているという。
醤油のルーツは、古代中国で生まれた「醤(ジャン)」からといわれている。食物を塩漬けして発酵させたもので,肉醤、草醤、穀醤などがあった。
肉醤塩辛魚醤草醤漬物穀醤醤油味噌の原型で、それが日本に伝来して「(ひしお)」と呼ばれていた。
安房から宮中に入った六雁は膳大伴部の職に就いたが、「大宝律令」の制定時から、この職は天皇の食事を掌る内膳司と、饗膳の食事を掌る大膳職に分割された。ただし、主食については大炊寮が掌っており、大膳職は、調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当していた。
養老令』によれば、醢(肉や魚を塩辛状にしたもの)、醤・未醤(みそ)などの調味料、菓(くだもの)、雑餅(雑穀などの餅製品)などを供給し、管下の組織として菓・餅類を扱う「菓餅所」と醤・未醤を扱う「醤院」が設置された。
そこに「主醤」(ひしおのつかさ)という官職がつくられ、六雁は、主醤として、日本料理の基礎をなす醤油醸造を行っていたとされている。味噌は当時「未醤」(みさう・みしゃう)と書き、主醤が扱っていたことから味噌も醤の仲間とされていたことがうかがえる。
このようなことを由緒として、醤油醸造会社などは磐鹿六雁命を日本料理の始祖「高倍神」としてお祭りしているようでもある。
どうもここのところ、激しい温暖さから少々グロッキー気味の中で伊達巻と伊達氏の関係から、落ちのない変な方向へ話が進んでしまったが、もともと、余り面白い話題もないネタを書いているうちについこうなってしまった。お許しください。
銚子の町は全国屈指の漁港の町であり、江戸時代に利根川水運が開発され、醤油醸造業と漁業で発展してきた。そして、江戸時代には今の千葉県の中ではもっとも大きな町として栄え、銚子で獲れた魚は江戸まで運ばれ、「江戸前」の味を支えていた。
これは、昭和の初期まで続き、銚子の町はとても活気があったようだ。しかし、私が、現役の昭和40年代ごろ、銚子へも時々出張していたが、当時は、本当にさびれていたので、用を済ますと、銚子には止まらずすぐにほかの街へ移り、そこで宿をとったりしていた。
だから、銚子の伊達巻寿司も食べたことがないのだが、今思えば、惜しいことをしたものだ。時代は変わり、今は、けっこう開けていることだろう。銚子の街の寿司屋は江戸前が基本だが、近海でとれた新鮮なネタを使ったものが食べられるようだ。
もし行く機会のある人は、ここで書いたとりとめのない話など思い起こしながら一度味わってみるとよいだろう。

参考:
※1:日本記念日協会 今日の記念日
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:(株)せんにち
http://sennichi.jp/
※3:近代デジタルライブラリー - 東京風俗志. 中
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992087
※4:国立国会図書館デジタル化資料 - 守貞謾稿. 巻1,3-16,18-30,後集巻1-4
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610250
※5:日本氏族大鑑
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/index.html
※6:戦国大名の家紋
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/buke_kz.html
※7:『古事記傳』(現代語訳)-雲の筏
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP050.html
※8:日本書紀の原文(漢文原文)
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:高橋氏文|天璽瑞宝
http://mononobe.digiweb.jp/siryou/takahashi.html
※10:延喜式神社の調査
http://www.geocities.jp/engisiki/index.html
延喜式神名帳 目次index - 神奈備にようこそ
http://kamnavi.jp/en/
ほしひかる麦談義:第31話 料理祖神、磐鹿六雁命の膾料理 ~ 安房、高家神社 ~
http://fv1.jp/hoshi/200901.html
安部氏族を祀る神社 - home.ne.jp
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-3-7.htm
古代豪族
http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html
食べログ千葉・大久保
http://r.tabelog.com/chiba/A1205/A120501/12005189/
世界帝王辞典>家系リスト
http://reichsarchiv.jp/家系リスト
藤原山陰 とは - コトバンク - kotobank
http://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E9%99%B0
蓬莱飾り - のしあわび本舗 兵吉屋
http://hyoukichiya.com/hosai.html
藤原山蔭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E8%94%AD

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