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神戸大空襲の日【余談Ⅱ】敗戦、米軍基地問題

2010-06-05 | 歴史
第一次世界大戦後の講和条約(ヴェルサイユ条約)に基いた体制が国際関係の柱となり、戦前の列強のうち、敗戦国となったドイツ、オーストリアと共産化によって国際社会から孤立したソビエト連邦が排除され、戦勝国となった日本は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアと共に世界五大国の一国に称されるようになったが、同講和会議において、日本の代表である牧野伸顕等全権が連盟規約に「人種差別撤廃条項」を加えてほしいと提案したがアメリカの強い反対で拒否されたことは先に書いたが、これは、アジアに植民地を持つ欧米列強にとっては非常に危険な思想だあり、日本が「たとえ日露戦争の勝利者であっても、先進国の仲間に入れることは絶対に許されない」とするものであり、このことは、世界で最初にできた国際機関が、「今後も人種差別は続ける」と言う判決を下したも同然であった。そのような、根深い黄色人種蔑視の考えが根底にあったからこそ、日本を危険視し、たたく必要があった。因みに当時の欧州諸国や日本人たちのこれをどの様に虎舞えていたかは以下参考の※10:特殊潜航艇「海龍」の4 「黄禍論」など見られるとよい。
だからこそ、日本の本土空襲において、既に敗色が明白となっている国の戦闘員でもない一般庶民の家をも焼き払い、逃げ惑う住民を機銃掃射する、その後、戦争を止めさせるとの大儀の元に、長崎・広島への原爆投下といった殺戮行為が出来たのであろう。それは、やられた日本人側からすれば、正に鬼畜と呼んでも差し支えのない行為であったと私も思っている。これは、ベトナム戦争に於けるベトナム人への情け容赦のない攻撃を見てもはっきりとしている。
しかし、日本人にも反省すべきことがないわけではない。日米の満鉄共同経営計画において、一度は桂首相とハリマンとの仮条約まで締結しておきながら、当時国内で人気のなかった桂首相が自分がいない間に勝手にこの交渉を決めたことに対して面子の立たなかった時の外務大臣・小村寿太郎が猛反対し潰れた。日露戦争ではアメリに外債の消化や平和交渉など日本を影から支援してもらっているにも関わらず、日本が大陸での権益を独占しようとして、門戸開放政策を行わなかったことが、ますます黄色人種(特に日本人)への警戒心を高めることになったが、もし、日本がアメリカと満鉄経営で手を組んでいたなら、その後の日米の友好関係は良好に保たれていたのではないかといわれている。兎に角、アメリカはこの後、日米開戦を前提にオレンジ計画で、国内世論を反日へと導き、外交にいたってはワシントン会議、ブロック経済ABCD包囲網ハル・ノート(1941年11月26日にアメリカ側から日本側に提示された交渉文)など、実に用意周到に、諸外国と一緒になって日本を開戦へと仕向けていった。それに対して、現在でも言える事であるが、日本の外交の不味さが窺える。
第二次世界大戦敗戦(1945年)後の1951(昭和26)年にアメリカのサンフランシスコ市で締結された講和条約「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)」では、沖縄県の潜在的な日本の主権は認めながらも、アメリカ合衆国の施政権下に置かれ、 「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。このサンフランシスコでの講和条約が締結された際、主席全権委員であった吉田茂首相が単独で、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)に調印(署名)をしていた(1952年4月28日発効)。この旧安保条約に代わる新安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)を巡って反対の猛嵐が巻き起こる中自民党政権が条約の批推を強行(1960年1月19日、に署名)し、同年6月23日に発効。旧安保条約は日本とアメリカの安全保障のため、日本にアメリカ軍(在日米軍)を駐留することなどを定めた二国間条約であるが、新安保条約は旧安保条約を形式的には失効させて成立しているが旧安保条約に基づくアメリカ軍の駐留を引き続き認めており実態的には改定とみなされている。この改訂新安保条約が現在の日米同盟の根幹となっている。新・旧安保条約の条文等は以下参考の※11:「中野文庫 - 対日講和条約 日本国との平和条約」を参照されるとよい。
この新安保条約は条約のほかに、合衆国の軍隊の地位に関する協定(いわゆる日米地位協定)をはじめ、交換公文、合意議事録がこれに付属し、またその実施のために多くの関係国内法が定立されており、それらがいわゆる日米安保体制を形成している(詳しくはYahoo!百科事典 ー日米安全保障条約を参照)。
戦後から、続いていた沖縄の施政権が、1972(昭和47)年にやっとアメリカ合衆国から日本に返還されたものの、現在も在日米軍の面積の23.4%が沖縄県に集中し、沖縄本島の19.3%が基地に占められる(県全体の基地の割合は10.7%)と言われ(Wikipedia)、沖縄の人達が米軍基地問題で悩まされてきたのが痛いほど良く判る。昨年成立した民主党政権の鳩山由紀夫元首相が、宜野湾市市街地にある普天間基地を今年5月末までに最低県外に移転することを国民に公約してきたが何の進展もせず、沖縄県民が猛反対の中、結局は、前自民党政権案であった名護市辺野古への移設案に近い形で、地元の合意もないままにアメリカと決めてしまった。そして、結果的にその責任等をとる形(本当は、今年控えている参議院選挙目当てと見られている)で、首相を退陣する型になったが、地元の同意が得られていた昨年暮れまでに決めて置けばまだよかったものを、今年のように、地元の人達が猛反対するようになってしまってからでは、移設は至難の業だろう。もし、移設が決まらなければ「最も危険な基地」といわれる普天間飛行場がそのまま残ることになってしまう。
日米安全保障の本質は時代と共に変化しているが、改訂安保も旧安保と条約部分に決定的な変化は無い。また日米安全保障条約は、日本側が正常な軍事力を持つまで……として締結された経緯もあり、アメリカ側には、日本を防衛する事を必要とされるが、日本側は必ずしもアメリカを防衛することは必要では無い状態になっている。これはごく不自然な状態である。もし、日本がアメリカと対等な関係を持つのであれば、日米が同盟関係を結んでいる以上その、同盟国が安全保障上の軍事活動を始めれば、知りませんと言うわけには行かないだろう。
米軍にとって、沖縄の基地は、極東の安全保障上重要な地点にあり、日米安全保障条約をそのままにしながら、現在の米軍基地を県外や、国外へ移設することをアメリカが承知するはずがない。鳩山首相が退陣の弁の中で、「米国に依存し続ける安全保障が50年、100年続いていいとは思わない」「日本の平和を日本人自身で作り上げていく」・・・と理想を掲げているが、それは、鳩山氏だけでなく日本人の多くがそう希望していることだ思う。しかし、その理想を本気で実現しようと本気で思っているのであれば、何よりも先ず憲法を改正し、集団的自衛権の問題等を解決しなければいけないだろう。にもかかわらず、そのようなことには絶対反対の立場をとっている民社党などと連立を組み、そのようなことには全く手をつけず、一国の首相たる者が理想主義者のようにただ自分の思いだけを先行させて、折角苦労して、築いてきた前自民党政権時代の辺野古移設案すら実現不可能な状態にしてしまった責任は、単に鳩山氏が退陣したぐらいですまないほどの大きな問題だろう。もし、今の時点で日米の同盟関係が変なことにでもなったとしたら、日本は世界の中で孤立することになり、第一次世界大戦後の日英同盟を破棄した後と同じような憂き目に遭うことになるのではないかと心配しているのだが・・・。兎に角沖縄を始め米軍基地問題のことを本気で考えるのなら、先ず、日米安保の問題をどうするかを先に論議すべきで、そうでないと、何時まで経っても米軍基地問題は解決しないだろう。沖縄の米軍基地移設問題は、単に沖縄の人の問題ではなく我々日本国民全員が「自分のこととして」真剣に考える時期に来ており、そのためには先ず現状の日米安保について以下参考の※12:「外務省: 日米安全保障体制」などを読んで、勉強を始める必要がありそうだ・・・。

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